第19話 戦士の実家
今日のリディは親切にしてくれたが、おしなべてフェリクス家の人間はトリシャに冷たかった。次ぐ立場にあるステルラ家も暖かい対応とは言いがたく、距離をとられているのが現状だ。
同じく凶星にあてられたレーガートゥスはフェリクスと、レーギスはステルラとそれなりの親交がある。スタクルムは知識を持っているから、どの陣営からも必要とされていた。それに、みんな貴族に値する役職を持っている。
──本当に、何もないのはトリシャだけだった。わざわざそこに入っていかなければならないことに、心痛を感じる時もある。
「けど、それだけじゃダメ、なんだと思う」
トリシャは手紙を握り締めた。それでも、やらなければならない。貴族たちが守っているのはせいぜい国の三分の一の範囲、残りはトリシャのような国民が汗を流して維持している。彼らの声を宮廷に少しでも届けるのが、トリシャに課せられた責務だった。
「……あ、鳩」
鳴き声がして、トリシャはずっとベランダで待っていた鳩のことを思い出した。微笑んでいたジヤに紙と筆記具を持ってこさせ、短いながらも文を完成させて鳩に結わえ付ける。
「はい、完成」
トリシャが背中をなでると、開け放した窓から、次々と鳩が飛び去っていく。その先にある町並みへの旅を祝福するように、月が柔らかな光を投げていた。
☆☆☆
テルグとその母、ダミニには王宮のハレムに相応の部屋が用意されている。しかし、二人ともそこで夜を明かしたことなどほとんどなかった。一室の隅にある、高い塀と深い堀に囲まれた別宅が、テルグのねぐらであった。
外側は他の貴族の家と同様、虹結晶の屋根に石の壁だが、玄関をくぐると黄色と青を使った幾何学模様の壁と敷き瓦がびっしり並んでいる。
家具はテルグの祝い装束と同じく、薔薇の色に近い赤紫。一見合わないように思えるが、西の大陸では定番の組み合わせだ。もともとレーガートゥスは大陸から流れてきた一族のため、生活のそこここにあちらの影響が残っていた。
祝いの報はすでにくまなく伝わっていて、若い連中がホールに集まって酒を飲んでいる。よく洗った桃の果肉を酒と食用の虹結晶とともに漬け込んだもので、甘口なわりによく酔いが回ると好まれている品だ。
テルグも好きなので、匂いにつられてそちらに近づいていく。彼らはそれに気付かず騒いでおり、まだ少年っぽさが残る高い声がきんきんと天井に響いていた。
「テルグ様が選ばれて良かったな」
「本当に良かったのかなあ?」
「ばか、これであっちは力の発散場所ができただろ」
「最近、稽古を頼まれても目のやり場に困るし」
「もっと困るのは別のところだろ」
若い連中ばかり集まって勝手なことを言っているから、誠にやかましい。皆鍛えているから見苦しいまではいかないが、せっかく支給された晴れ着姿がたるんだ仕草で台無しだ。怖い教育役が来る前に、退散させておこうと決意しテルグは身を乗り出した。
「てめえら、全部聞こえてるぞ」
テルグが声をかけると、白鎧の連中は悲鳴をあげて詰め所の中に消えていった。気配くらい読めばいいのに、集団だからと油断していたのだろう。
「……まだ、『白』だな」
「そんなものですよ。最も高位の黒騎になるにはそれなりの年月が必要です」
背後から声がした。振り返ると、柔和な笑みを浮かべた初老の男が立っている。髪は銀を通り越して白くなり、身体は細身でまとっているのも鎧ではなく黒い官服だ。
しかし顔が優しいかといえば決してそんなことはなく、愛想を引いたら殺し屋に見えるような鋭い目つきのご面相だ。本人もそれがわかっているから、テルグの教育係になってから笑みを切らしたことがない。
「おう、ドゥルーヴ」
「お帰りなさいませ」
「怒らねえのか。うるせえだろ、あれ」
「今夜は祝いの日、休みの中隊は無礼講と約束したのだから、大目にみます」
「お優しいことで」
「テルグ様はこれからがありますから、そうはいきませんけれど。さて、質問です。中隊とは何人くらいの数でしょう」
レーガートゥス家の抱える私兵は師団二つほど。師団ひとつで一万くらいの人員が属するから、二万を越える人員が交代で勤務についていることになる。数人が属する組からはじまって、班、分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団、師団と、組み入れる兵の数によって呼び名は変わってくる。中隊なら数十人から数百人くらいだ。現在王の抱える正式な軍隊なら四万を超え、師団より上の軍団と呼ぶ。
座学の嫌いなテルグは子供の頃なかなかこれすら覚えなかったため、今でもドゥルーヴは嫌がらせのように聞いてくる。流石に、今はそらで答えることができた。テルグが長椅子に腰を沈めると、当然といった顔でドゥルーヴがついてくる。
「よろしい」
「正解したんだから、あたしにも酒をくれ」
軍務中は当然、意識を朦朧とさせる酒は禁止だ。交代でとる休みの間はそこまで拘束しないが、戻るときにはきっちりと酒を抜かなくてはならない。そのため、おおっぴらに飲める日はそう多くなかった。
ドゥルーヴも今日はうるさいことは言わず、下男に命じて酒をもってこさせる。それを危なげない手つきで陶器の杯に注いで、テルグに差し出した。
「飲み過ぎないでくださいよ」
「それは分かってる。お袋は?」
「いるわけがないでしょう。『泥』がいたということは、タリヴァールもまたいたのですよ。まだ海の上ですね」
「愚問だった」
テルグは素直に自らの見識のなさを認める。戦神の子とまで呼ばれた母が敵を目の前にしたら、何もかも忘れてしばきまくるに決まっていた。妊娠中も出撃していたというから、よく自分が生まれたものだとテルグは思う。外見はそっくりだが、テルグは母ほど極端な性格ではない。
「……じゃあ、帰ってくるまでにゃまだ数日かかるな」
「捕まってしまった面子は可哀想なことになりますね」
ドゥルーヴはさして哀れんでいるように見えない顔で言った。
「……いかがでしたか、他の候補者たちは」
「濃いな。いろんな意味で」
「まあ、手こずるでしょう。フェリクス家とステルラ家、両方の娘が選ばれてしまいましたから。両家とも、派閥をつくって他の候補者を引き入れようとするのでは。すでに誘いはありましたか?」
「いいや。あいつら二人とも、お嬢さん育ちで欲がねえからな。水星は怖がりで土星は勝手が分からねえから、ガツガツしてたのは『太陽』くらいだ」
「ほう。『太陽』というと、レーギスのアイラでしたね。あまり卓越した子だ、という話は聞きませんが。軍学校の成績も、悪くはないが決して首席次席という次元ではなかったはず」
「それは間違っちゃねえよ。ただ、自信だけはあるな。宣誓式で自分が王になると抜かしやがった」
テルグがそう言うと、ドゥルーヴは心底楽しそうな顔になった。
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