第17話 国を守護する時計
そんな思いをよそに、リディとトリシャが先を歩く。徐々に、柱状の建物が近づいてきた。
「……あ」
「ここまで来れば分かるだろう? あれは、時計塔だ」
☆☆☆
どこの国でも、人は時間に縛られる。文書仕事、家事、農作業……と、あらゆる仕事に例外はない。しかしこの島では、その重みが段違いだ。時計を見てしっかり準備していないと、死ぬからである。アイラも子供の頃から、何度となく周りの大人にそう言われてきた。
その重要性を物語るように、王宮の庭や屋内には時計が飾られている。目の前の時計塔は、その中でも最大のものだった。決して崩れぬように巨大な石の台座を持ち、丸屋根と鐘がついて見る者の目を引く。しかしそれは、あくまでおまけだ。
本当に大事なのは、左右二面についている時計。
金細工で縁取られた左の時計は、真ん中を境にして空色と濃紺に塗り分けられている。盤面には三本の針があり、二本は時をあらわす。残りの一本はゆっくりと移動し、終日かけて盤面を巡る。つまりこの針が空色のところにいれば朝、紺色に移動すれば夜になったということだ。
最も特徴的なのは、中央下部にある「窓」だ。今は白くなっているが、これは日が経つにつれて徐々に赤くなっていく。最も濃くなって血の色に近くなった数日──長いときは十を越える日の間、虹の水が、人間たちに牙をむく。
「便利すぎるが故に、どこかに歪みが生じる」
「この世では、良いことだけ体験していくことはできないよ」
父が悟った顔で、そう言っていたのを思い出す。
業(カルマ)の泥。普段は略されることが多いが、突然生まれる敵対者を正式にはそう呼ぶ。業とは行動のことであり、それ自体には善も悪もない。
善の業を重ねれば幸福な来世を呼び、逆の行為をすれば目もあてられない結果が待っている。働かず地中からわき出す恵みをむさぼる行為は天界から見れば悪であり、その結果として泥が生まれると父は言いたかったようだ。
数週間が過ぎれば泥たちはまた崩れて水に戻るのだが、隠れて過ごすにはあまりに強すぎた。多大な死者を出した人間側は、対策を講じる。
まず水が「泥」に変化する時期に規則性を見いだし、それを知らせるための時計を作った。アイラたちの目の前にあるのが、その第一号である。
「右側は正確に言うと、時計じゃないけど」
「たしかに」
右の盤面を見ても、現在時刻は全く分からない。盤面は十二に区切られ、一本きりの針がその上を規則的に動いている。これは、「主」と呼ばれる、侵攻の中で最も強力な泥がどこに現れるかを示すのだ。大きな被害が予想される該当地域の住民は、襲撃前に別地区に移動するのが慣習である。
「街には、車屋や渡し船が多いだろう」
「はい。乗り合いで避難していました」
「貴族たちは自分の船を持っているから、自分の都合で動くがな」
リディが解説している。基本的に王族は王宮に引きこもるが、たまに祖父のところへ行った時は船で移動したことをアイラは思い出す。普段と違う旅は楽しかった。最後に船に乗ったのは、二年前。しかしそこにいるべき人がいないのが寂しくて──
思考が過去に引っ張られているのに気づき、アイラはあわてて首を振った。空を見上げるように首を動かす。
「どちらにせよ、船に乗ることは、もうない」
リディの言葉が耳に染みる。そう、もうアイラは選ばれてしまったのだ。老いて体力がなくなるか、途中で死ぬか。そうなるまで、泥と戦う生活が待っている。
☆☆☆
いっぱいに開かれた窓から、心地良い風が入ってきた。トリシャの身長の倍はあろうかという窓の横には、光沢のある白色の花が生けられている。花弁も風をうけ、生き返ったようにそよいだ。
トリシャは窓に近づいて、そこから外を見る。宮殿の窓には全て、良質な結晶を用いた透明度の高い板がはまっていた。それでも、直に自分の目で見る風景には敵わない。
闇に沈みかけた宮殿のそこここに、橙色の明りがともる。それが昔よく遊んだ単純な花火に似ていて、トリシャはこの時間が一番好きだった。
「トリシャ様。お体が冷えてしまいますよ」
侍女頭に呼ばれたトリシャは、振り返って室内をまじまじと見つめた。壁は橙色で床は茶の絨毯。王宮は豪華すぎて落ち着かないため、できるだけ昔の家と似た内装をと父に頼んだのだが、金と白の装飾がついた高い天井はさすがにどうにもならない。
部屋の広さにもなじめず、あちこちに衝立を置いて部屋を区切っているのが、いかにも庶民の考えだ。その一角に着替えが置いてあるため、呼ばれるままにそちらへ向かう。
その先で、下女が着替えを用意して待っていた。確かに装飾がじゃらじゃらとついた服は、トリシャにとって冷えて重くてたまらなくなっていた。
幸い装束は一枚布で、留め具を外してしまえば脱ぐのは簡単だ。しかし自分で装束を外した途端、待ち構えていた侍女頭から叱責の声が飛ぶ。
「姫様。お着替えでしたらこちらへ」
「……もう、脱ぎました」
ふっくらとした丸い顔立ちに柔和そうな顔立ちをした老女の侍女頭だが、今は腰に手をあててずいぶんと怒っている。トリシャは思わず、床に落とした衣服を拾った。
すると侍女頭が、泳ぐように大きく手足を動かして近づいてくる。大柄な彼女の身体が、トリシャの視界をふさいだ。
「いけません。こういう時は突っ立って、何もかも下女に任せるのですよ。見なさい、可哀想に」
侍女頭が指さす方を見ると、やせた下女が困った顔をして立ちすくんでいる。主に当たるトリシャを止めるわけにもいかず、ただ自分の仕事がなくなるのを見ているしかなかったようだ。
「……ごめんなさい」
また間違ってしまった、と思うと、恥ずかしさと不安が同時にこみあげた。この侍女頭には、三年間ずっとこうして怒られ通しである。基本的に侍女や下女から主に声をかけるなど許されないのだが、この侍女頭──クシィは父の乳母であった経歴を持つ。しかもトリシャはこうやって言ってもらわないと大変なことをしかねない。
トリシャは十の年まで、王女であると全く知らされずに下町で育った。近所の子と一緒に庶民の学校に通い、授業が終わると日が暮れるまで畑や工場の路地で泥まみれになって遊んだ。母親はなぜかめったに帰ってこないけれど、自分が特別だなんて考えたこともなかった。
だから最初に母から王女の話を聞いたときは、近所の酔ったおっさんが作った話をされているのだろうと信じてやまなかった。
あちこちにある現王の肖像と自分はさっぱり似ていないし、そんな幸運があるわけがない。久しぶりに戻ってきてする話がそれか、と母に食ってかかった記憶がある。結局父親が出向いてきてようやく納得したが、全然馴染みのない男に抱っこされても気持ちが悪いだけだったのを覚えている。
「あの時は大騒ぎになったなあ……」
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