第15話

 大空歩美のセミナーは盛況だった。

 駅前のレンタル会議室は満席。参加者は真剣な面持ちで彼女の登壇を待っていた。中には、学校の授業のようにノートを広げている人もいる。

「みんな大空さんの話が楽しみなんだね」

隣の姫子が周りに聞こえないように囁いた。

「そうだな」

場の緊張感で、俺も自然と小声になる。

 予定時刻ちょうどに会議室の扉が開く。

 静まり返ったまま、誰も言葉を発しないが、全員がにわかに色めき立った……のが不思議と感じられる。

 受講者たちの気持ちがいっぺんに明るくなったのが空気でわかった。

 扉からひとりの女性が現れ、ホワイトボードの前に立った。

「みなさん、本日はわたしのセミナーに参加いただき、ありがとうございます。大空歩美といいます。今日は、少しでも何かの気づきを持ち帰ってもらいたいと思い、話します。よろしくお願いします」

確かプロフィールでは四十歳前くらいだったと思うが、若々しく清潔感のある女性だ。その声はどこか透き通っていて、まるで自分の身体にスッと染み入るような感覚を覚えた。

「早速、始めますね。タイトルにもある通り、みなさんが心を解放して、自由に生きるためには、自分や周りの人の愛に敏感になることが第一です————」

色々と細かい具体例なんかを挙げたりしていたが、大空歩美の教えをかい摘んでまとめると、愛を感じて、素直に人生を楽しむことが大事ということだった。


「はい」と参加者の女性が手を挙げた。

「何でしょう?」

「先生は愛を大切に考えてますけど、既婚者が夫や妻以外を愛してしまったら、一体どうしたらいいのですか?」

「はい。そのような場合は不倫や浮気になってしまうわけですが、それでも愛を貫いてください」

大空は少しも迷うことなく答えた。

「それは……、つまり不倫や浮気になっても構わないということですか?」

「離婚してからおつきあいできるといいでしょうが、それが難しい人もいると思います」

「先生は、不倫や浮気を認めるんですか?」

質問者の声に力が入る。

「認めるというか……。法律で決まっている結婚の制度に固執するよりも、愛を感じて生きることの方が大切なんです」

大空に悪びれた様子はない。

 大空の話し方に揺るぎない自信が感じられたからだろうか、その質問者は言いにくそうに悩みを打ち明け出した。

「実は、わたし……、夫の他におつきあいしている方がいて……。自分が不倫してると考えるとすごく罪の意識を感じてしまって。苦しいんです——」

「離婚はできないんですか?」

「子どもがまだ小さくて……。それに、経済的にも難しいです」

「そうですか……。不倫を続けるのも選択肢のひとつだと思いますが、わたしは離婚できると思いますよ」

「え?」と伏し目がちだった女性が視線を上げた。

「今時、親類や行政の力を借りれば、ホームレスになったり餓死したりすることなんて、ほとんどありませんよ。要は、あなたの覚悟次第です」

「そ、そうですか……」

「それに、子どもというのは、両親の仲を見て人間関係を学ぶものです。好きでもない旦那さんと暮らすお母さんを見て、お子さんはどう思うでしょう? 結婚に対していい印象を持つと思いますか?」

「……持たない、と思います」

「そうですね。お母さんが愛する人と幸せに暮らす方が、お子さんにもいい影響を与えますよ」

「ちょっと考えてみます」

「はい。大事なことなので、ぜひ悩んで決めてください。それじゃ、講義に戻りますね」

大空の教えは正しい……けど、理想論だな、と思った。あの質問者も結局のところ離婚しないだろう。


 講義は続き、終了一分前。

「みなさん、今日はいろいろお話しさせてもらいました。最後に大切なことを伝えます。——どうか……、このセミナーで勉強したことを人生の中で活かしてください。話を聞いただけで満足するのではなく、実践してください。——それでは、わたしのセミナーは終わりです。本日はありがとうございました」

大空が一礼すると、聴講者たちの一部が彼女の元へ話をしに向かった。個人的に聞きたいことがあるのだろう。

「姫子、俺たちも行こう」

「うん」

聴講者たちはすでに列を成していた。その最後尾に並ぶ。途中、長く話し込む人もいて、俺たちの番が来るまでに三十分もかかった。

「今日はありがとうございます。可愛らしい生徒さんね」

大空はセミナー後ずっと聴講者に捕まっていたにも関わらず、嫌な顔ひとつせず俺たちを迎え入れてくれた。

「綾瀬姫子といいます。あの……、実はわたし——」

「あら、あなたもチャネラーなのね」

大空は姫子が打ち明ける前に見抜いた。

 その言葉を漏れ聞いた聴講者たちがにわかにざわつく。

「後でゆっくりお話ししましょう。ロビーで待っていてください。絶対ですよ」


 ロビーに大空が現れたのは、それから一時間も経ってからだった。

「ごめんなさいね。お待たせしてしまって——」

彼女は両手にたくさんの紙袋を下げていた。

「ああ、これ? ファンの方がプレゼントをくれるの。毎回、持って帰るのが一苦労なのよ。わたしは要らないって言ってるんだけどね」

初対面の俺たちに対して、まるで気の知れた友人と接するかのようだ。

「外のスタバでいい? わたし、喋りっぱなしで喉が渇いちゃって——」

「あ、はい。荷物持ちますよ」

大空の手から紙袋を受け取る。

「ありがとう。ところで、あなたの名前は聞いてなかったわね。姫子さんとはどんな関係なの?」

「彼は相沢悠一、わたしの婚約者です」

「おいこら、姫子! 誤解されるだろう」

「誤解も何も、本当のことじゃない」

「あのなぁ……」

「ふふっ、おもしろい二人ね。そのあたりの話もゆっくり聞かせてもらうわ」


「わかっているかと思いますが、俺は姫子の保護者で、もちろん婚約者じゃありません」

席に着いて開口一番、俺ははっきりそう言った。

「悠一、わたしのこと捨てちゃうの?」

姫子が目を潤ませる。

「アホか。こんな冗談を聞いてもらいに、わざわざ来たわけじゃないだろ?」

「悠一、つまんない」

俺と姫子を見比べて、大空は微笑んでいた。

「癒されるわー」

「大空さん、お疲れですか?」

まだ茶番を続けたそうな姫子を無視。

「まあね。なかなか上手くいかないっていうか、手応えが感じられないっていうか」

「手応え、ですか?」

「そうなの——。でも、今日、こうして姫子さんと会えたことが、ひとつの解答のような気がするわ」

「——それって、どういう意味ですか?」

「慌てないで、悠一さん。姫子さんにも理解してもらえるように、整理しながら話しましょう」

「はい」

俺は無意識のうちに居住まいを正していた。いつも姫子の付き添いをする時は、どこかで単なるおまけ、傍観者の心持ちが拭いきれないでいたが、何故だか今日はひどく興味をそそられている。

「——で、姫子さんは、どうしてわたしに会いに来たの?」

「わたし、スピリチュアルが大大大大大嫌いだったんです。でも、急に守護霊——ガイドって言うんですか?——の声が聞こえるようになっちゃって……。なんていうか、混乱しているんです」

大空はうんうんと頷きながら姫子の話を聞いた。

「姫子さんはスピリチュアルが嫌だったのに、その力が備わっちゃったから混乱したのね。それで、今もスピリチュアルが嫌いなのかな?」

「——嫌いです。でも、自分にその力があるから、好きにならなくちゃいけないのかなって……思ってます」

最近では、自分と俺をツインソウルだと言ってみたり、随分とスピリチュアルにかぶれてきたなと思っていたけど……。あれは、スピリチュアルを好きになろうとする姫子なりの努力だったのか……。

「——なるほど。でも、どうしてそんなにスピリチュアルを嫌ってるの? そもそも、小学生のあなたがスピリチュアルに興味を持ってること自体、驚きだけど」

姫子は母親——パドメ網田のことを話した。

「——そう、姫子さん辛い想いをしたのね……」

姫子はこくりと頷いた。

「でも——」と大空が言葉を続ける。

「姫子さんがスピリチュアルや宗教を嫌う理由は、それだけじゃないんでしょう?」

少し驚いた表情を見せた後、姫子は「はい」と認めた。

 俺には初耳だ。そんなの聞いたことがない。

「教えてくれるかな?」

「子供のくせに偉そうなことを言うみたいで気が進まないんですけど——」

いやいや、お前は今まで色んな大人相手にかなり失礼なことをしてきたぞ、と突っ込もうとしたが、止めておいた。興奮さえしなければ、姫子は至って礼儀正しい子どもなのを思い出したからだ。俺以外には。

「吐きそうなくらい気持ち悪いんです。神様や守護霊を信じ切ってありがたがる人たちが。『神様や守護霊の言うことを聞いていれば安心、救われるぅ』みたいな態度が、まるで家畜みたいで反吐が出そう」

大人しくとつとつと話しているが、言葉遣いはかなり汚らしい。

「意志がない、人間らしくない、それに——」

「成長しない?」

「そう! そうなんです!」

姫子は、我が意を得たり、とばかりにテーブルに乗り出した。俺の脳裏にも東堂たちの顔が次々と浮かぶ。

「実は、さっきわたしが『手応えがない』って言ったのも、それなの。姫子さん、宗教とスピリチュアルって何が違うと思う?」

「違い、ですか?」

姫子は腕を組んでうんうん唸り始めた。

「わからないです。スピリチュアルって、宗教の神様ポジションが、守護霊やガイド、ハイヤーセルフに置き換わっただけですよね?」

聞き慣れない単語に思わず質問する。

「はいやーせるふって何?」

「もう! 悠一は勉強が足りない!」

「ハイヤーセルフっていうのは、何度も輪廻転生している自分の魂のこと、自分の本質のことね」

大空が姫子に代わって説明してくれた。

「守護霊やガイドとは違うんですよね?」

「全部同じだと考える人もいるわ。守護霊兼ガイド兼ハイヤーセルフね」

「大空さんはどう考えているんですか?」

「あまり突き詰めたことはないわ。わたし、——ううん、人々を導く声が聞こえているっていうことははっきりしているから、わたしにはそれで充分」

「それで、宗教とスピリチュアルの違いって何なんですか?」

姫子が話題を本筋に戻す。

「大きく二つあると思ってるわ。まず、宗教と違って、スピリチュアルは人間の内面的な成長を期待しているわ。ただ信じればいいというわけではないのよ。それから、二つ目だけど、スピリチュアルって天界を想定しているけど、あくまでこの現実世界を重視しているの」

「つまり、今、この世を積極的に肯定して、強い意志を持って成長しろっていうことですか?」

「そういうことになるわ。姫子さん、大人みたいな言葉遣いをするのね」

俺は大空の隣の席に陣取った紙袋の山に目をやった。

「でも、大空さんの生徒たちはそう思っていない、と」

「そう、それが残念。あの人たちは、わたしを宗教の教祖みたいに思ってる。わたしは、あの人たちに成長してほしいのに……。わたしの話を聞けば、それだけでご利益みたいなものがあると思ってるみたいね」

大空はため息をついた。

「そういえば、姫子のこと、解答だ、って言ってましたね」

「——ええ。姫子さんはわたしの知る限り最も若いチャネラーよ。もしかしたら、天界は大人を成長させるのは無理だと諦めたのかもしれない。……今まで数えきれないくらいセミナーを開いてきたけど、自分の生き方を見つめ直して、変わろうとする大人はほとんどいなかった。だから、姫子さんみたいな子どもに人類の成長を委ねた方がいいって思ったのかもね……」

大空は自嘲気味に笑った。

「そうかもしれませんね……」

壮大な話だ。だけど、何か有無を言わせない説得力がある。確かに、姫子は普通の子どもとは違う。急に彼女が特別な存在に思えてくる。

 ふと当の姫子を見ると、目を伏せて口をもごもご動かしている。

「姫子?」

反応なない。

 俺は血の気が引くのを感じた。

「おい! 姫子! 大丈夫か⁈」

尚も姫子はテーブルに視線を落としたままだ。

「……うじん、……えいごぅ……、ちょ……かいき……」

何かの言葉を繰り返しているが、よく聞き取れない。白く小さな手は、かすかに震えているようだった。

「姫子、しっかりしろ! どうした⁈ 寒いのか⁈」

「姫子さん!」

大空も一緒になって、姫子の顔を覗き込んだ。


——姫子は……、言いようもない不敵な笑みを浮かべていた。


 次の瞬間、バンッという音が鳴り響いた。姫子が両手をテーブルに叩きつけて立ち上がった音だった。

「超人……、永劫回帰……」

店中の視線が姫子に集まる。

「超人! 永劫回帰!」

「おい! どうした、姫子⁈」

彼女が立ち上がったまま、身体をこちらに向ける。

「超人! 永劫回帰!」

「それはわかったから、ちょっとは落ち着け!」

「超人! 永劫回帰!」

「ねえ、姫子さん、大丈夫?」

同じ言葉を繰り返し続ける姫子。大空は彼女の頭がおかしくなったのではないかと、本気で心配しているようだ。

「大空さん、ありがとうございます! 超人! 永劫回帰!」

「ちょっと、姫子さん、本当に大丈夫なの?」

俺は姫子の肩に手をかけ、椅子に座らせた。

「ジュース飲んで深呼吸しろ」

姫子の手にプラカップを握らせる。——が、興奮のために彼女はそれを握り潰してしまった。あたりがオレンジの香りに包まれ、黄色の液体が飛び散る。

「あーあ……。こんなにこぼして……」

俺は店員に声をかけてペーパーをもらい、それでテーブルを拭く。

 そうこうしているうちに、姫子は少し落ち着きを取り戻した。


「“超人”も“永劫回帰”も、ニーチェの思想を表現する重要なキーワードなんです」

新しい飲み物——ココアを味わいながら、姫子は説明を始めた。

「永劫回帰は天国や地獄、つまりあの世が存在しない世界観において、同じ人生が寸分違わず何度も繰り返されることをいいます。それって、すごく退屈で虚しくなりますよね。でも、超人はその中で伝統的宗教ではなくて、自分自身の価値観を打ち立てることで、繰り返される人生を肯定できる人です」

「姫子さんって、やっぱり普通の子どもとは違うのねぇ……」

大空がしみじみと言った。

「で、何であんなに興奮したんだ?」

未だにらんらんと目を輝かせている姫子に聞く。

「スピリチュアルとニーチェの思想に共通点があったから。人の成長を大事にしてるところと、あの世じゃなくてこの世での幸せを求めているところ。これなら、わたし、スピリチュアルのこと本当に好きになれそう」

姫子のニーチェへの傾倒がこれほどだったとは……。スピリチュアルが好きになれそうといっても、それはニーチェの思想に似通った部分があったからなのだ。

「それは良かったな。大空さんに会いに来た甲斐があったわけだ」

「うん。悠一、ありがとう」

店を出ると、外はもう暗くなっていた。空が澄んで星がよく見える。姫子が「綺麗だね」と言った。

 それから、俺たちは大空と連絡先を交換して別れた。

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