第8話

 翌月曜日の午前中、経費の処理に忙殺されていると、携帯が鳴った。見ると、綾瀬家の固定電話の番号。姫子からだ。いくら姫子といえど、今まで仕事中に電話をかけてくるなんてことはなかった……。

「もしもし、姫子か? 悪いけど、仕事中だから、昼休みにかけ直すよ」

「…………悠一、助けて」

消え入りそうな小さな声。

「何? どうした⁈」

「お願い……、来て。お願い——」

それだけ言うと、姫子は電話を切った。

 破天荒だけど、こんなたちの悪いイタズラをするような子じゃない。

 俺は上司に緊急だと言って会社を早退した。


 綾瀬家に着いてインターホンを鳴らす。

 扉がわずかに開き、その隙間から姫子がこちらを覗き見た。

「ありがとう、来てくれて。入って——」

扉を引いて、はっとした。姫子がこめかみのあたりから血を流していたからだ。

「どうした⁈ 大丈夫か⁈」

「大丈夫、痛くない——」

「病院、病院に行こう!」

俺は急いで家に上がった。

「保険証と診察券の場所を教えてくれ」

リビングに向かおうとする俺のシャツを摘んで、姫子はふるふると首を振った。

「病院は後で行くから、それよりも今は話を聞いてほしいの——」

「いや、早く行ったほうがいい。タオルどこだ? 傷口を抑えないと——」

「お願い、悠一、話を聞いて……」

俺は動作を止めて、姫子の方に向き直った。

 今気づいたが、目の周りが赤く腫れ上がっている。声もしゃがれているし、かなり泣きはらしたようだった。

「…………どうした? 何があった?」

「……あのね、えっとね——……」

考えを整理しているのか、言葉を探しているのか、いつものようなキレの良さがない。

 すると急に、今度は怯えたように辺りに目を泳がせた。

「……——ああ、まただ。もう嫌っ!」

耳を塞いでその場にうずくまる。

「おい、姫子! どうした⁈」

かがみ込んで肩に触れる。姫子の身体は震えていた。

「男の人の声が聞こえるの——。怖いよ。悠一、助けて——」

「男の人? 声?」

俺には何も聞こえない。

「大丈夫、誰もいない。俺と姫子だけだ。落ち着いて、さあ俺の方を見て」

「ううん、ずっと聞こえてる。わたしの頭、おかしくなっちゃた……」

姫子は立ち上がると、壁に頭を打ちつけ始めた。ゴッ、ゴッ、と痛々しい音が響く。

「止めろって!」

彼女を壁側から引き剥がす。

「いやっ、離して! 頭の声を追い出すの!」

俺はもがく姫子を無理矢理正面から抱きしめた。

「大丈夫……、大丈夫だから——」

どれくらいそうしていただろうか。姫子はしばらく抵抗していたが、やがて大人しくなった。

「…………悠一のシャツ、血がついちゃった」

「そうだな——」

「後で洗濯してあげるね」

「帰って自分でやるからいいよ」

「——そう」

姫子は俺の腕をすり抜けて、洗面所に向かった。

 数分して、俺の待つリビングに戻ってくる。顔を洗ってきたのだろう。傷口を白いタオルで押さえていた。

「病院に行くまでもないみたい。思いっきりぶつけたつもりだったけど、無意識のうちに手加減してたのかなぁ」

「ちょっと傷口を見せてみろ」

タオルをどけて髪をかき分けて見る。

「——うん、まあ、大丈夫そうだな」

姫子が隣に座る。

「悠一のおかげで落ち着いた。ありがとう」

「何があったか、順番に話してくれるか?」

姫子はひとつひとつの経緯を思い出すように話し始めた。

「2時間目の算数の時間にいきなり聞こえてきたの。最初はイタズラだと思って無視してたんだけど、あんまりしつこくて『男子、騒がないでください』って言ったら、みんな『え?』ってなって。そこで初めて、みんなには聞こえてないんだ、ってわかった」

「それで?」

「先生が『どうしましたか?』って聞くから、寝ぼけてたことにして誤魔化した。変な子だと思われたくなかったし。でも、何度も何度も聞こえるから、今度はだんだん怖くなってきちゃって——。そしたら、先生が『もしかして体調が悪いんですか?』って言うから、『はい』って言って、早退したの。……コーヒー飲む?」

「いいから、続きを話して」

「……家に帰って、ひとりになると怖さが増してきて、さっきみたいな感じで泣いたり、頭を叩いてみたり——。それで、悠一に電話した」

「お父さんには連絡してないの?」

姫子はコクリと頷いた。

「どうして?」

「…………頭の中の男の人、自分のことを姫子の守護霊だって言うの」

「それって——」

「スピリチュアルだよね。お母さんに続いて、わたしまでこんな風になっちゃったって知ったら、お父さん悲しんじゃう」

「そうか…………」

シンとリビングが静まり返る。

「わたし、これからどうしよう……」

初め、姫子がありもしない声が聞こえると言った時、俺は精神的な病気を疑った。統合失調症とか、そういうやつだ。

 実際にそうだった場合、症状が進行する前に医者に見せないといけない。下手をすると取り返しがつかなくる。

 でも、それが守護霊だと聞いて、迷いが生まれた。「有り得ないことじゃない」と思ってしまったのだ。スピリチュアルに触れていく中で、無意識の内に少しずつ考え方が変わってきたのだと思う。

 もし、姫子に聞こえている声が、本当に守護霊のものだとしたら——。

 俺は頭を抱えた。

「悠一、大丈夫?」

姫子が心配そうに俺の顔を覗き込む。

「ああ——、大丈夫。ちょっと考えがまとまらなくって」

自分はなんて非科学的なことを思っているんだ。普通に考えたら、ここは心療内科に連れて行くに決まってる。

——でも、精神に関する病気の薬って、確か副作用が強いんだよな……。どうすればいいんだ……。

「——ありがとう」

不意に姫子が言った。

「ありがとう、悠一。真剣に考えてくれて。こんなこと、悠一にしか相談できないから——」

彼女はテーブルの隅に広がっていた紙切れを手に取った。それは、今朝出勤時に遠回りして、綾瀬家のポストに投函しておいた俺の手紙だった。

「朝、お手紙読んだよ。嬉しかった」

「そうか……、それはよかった」

「強いて挙げれば、封筒と便箋が子どもっぽくて、ダサかった」

「——え?」

「大人なんだから、もっとシンプルな感じの方が渋くてカッコイイのに。わたしに合わせようとしたのが見え見え。そこがまた、一段とダサい」

「そうなのか?」

「うん」

「それは……、失敗したなぁ」

「でも、内容はすごく良かった。ありがとう」

俺は……、姫子を信じることに決めた。病気のような素振りがあったら、すぐに心療内科に連れて行こう。ただ、それまでは、側で見守ろうと思う。

「週末、スピリチュアルカウンセラーのところに行ってみよう」

「え? 前にもう行きたくないって言ってたじゃない?」

「論破しに行くんじゃなくて、姫子みたいに守護霊の声が聞こえる人を探して話を聞こう」

「…………うん」

俺は京一さんが帰ってくるまで、家に留まることにした。

 一緒に動画を見たり、お菓子を食べたり。数週間ぶりに姫子と過ごす時間は楽しかった。

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