第3話

 俺は何をしているのだろう——。

 あれから数時間。ずっと動画を見続けている。もう、夜の9時だ。

 姫子は隣ですやすや寝息を立てていた。

 帰るわけにいかない。俺が出て行ったら、玄関の鍵が開けっぱなしになってしまう。

 早く父親が帰ってきてくれたらいいんだけど……。それとも、姫子を起こそうか——。いや、気持ちよさそうに寝ているのを邪魔するのは、気が引ける。相手は子どもだし——。寝かしておいてあげよう——。


 そうこう考えているうちに、玄関の鍵が開く音がした。

 やっと帰ってきたか。助かった。これで帰れる——。

……………………。

待て! この状況、何て説明する? まるで女の子ひとりの家に押し入った変質者じゃないか!

「ただいま」と男の声がする。

どうにか上手い説明の仕方を考えないと——。……ダメだ頭が回らない。動画の見過ぎで頭がぼーっとする。

 焦りだけが募る中、やがて、リビングに眼鏡をかけた生真面目そうな男が現れた。

 どさり、と彼の手から鞄が落ちる。

「姫子! 姫子、大丈夫か⁈」

男が猛然と駆け寄ってきた。

「この変態野郎が!」

右頬に渾身のフックが突き刺さる。

——痛っ!

ソファーに倒れ込む衝撃が伝わったところで、やっと姫子が目を覚ました。

「ふえ——。何? あ、お父さん、お帰りぃ」

「姫子! 何もされてないか⁈」

男はきつく娘を抱きしめた。

「えー、何ぃ? 大丈夫だよぉ」

姫子の目はまだ半開きだった。——が、やっと俺のことを思い出したのか、我に帰ったようだ。頬を押さえて倒れている俺と目が合う。

「ちょっと! お父さん悠一に何したの⁈」

「何って——。……もしかして、こいつ、姫子の知り合いか?」

姫子は怒りながら今日の出来事を説明した。

「悠一はわたしを助けてくれたんだよ!」

「——そうだったのか。申し訳ない。相沢さん」

「いえ、あの状況じゃ、誤解されても仕方ないです」

「お礼とお詫びを兼ねて、今日は夕食をご馳走させてもらいたい。まだ何も食べてないでしょ?」

「ええ、まあ——。それじゃ、お言葉に甘えます」

「今夜は遅くなってしまったから、出前でも頼もうか。姫子、何が食べたい?」

「わたし、ピザがいい!」

すぐに注文して、三人でテーブルについた。

 軽く自己紹介なんかをしているうちに、30分くらいでピザが届く。

「相沢さん、お酒は飲める?」

「はい。あまり強くはないですが」

「ビールでいいかな?」

「ありがとうございます」

姫子の父親は京一さんといって、銀行員だそうだ。期末近くになると、どうしても帰りが遅くなりがちだという。

「それで、相沢さんは何の仕事をしているの?」

「経理関係です。お勤めの銀行とも取引がありますよ」

「おお、そうかー」

「悠一とお父さん、仕事の話ばかりでつまんない」

姫子が頬をぷうっと膨らませた。

「悪い悪い。でも、姫子、もう遅いから、そろそろ寝る準備しなさい」

「えー、ヤダ。さっきまで寝てたから、まだ眠くない」

「ダメダメ。生活のリズムが狂っちゃうから。ほら、お風呂行っといで」

「——わかった」

そう言って、姫子は渋々バスルームに向かって行った。

「あの……、失礼なことを聞きますが、奥さんは?」

「——恥ずかしい話、3年程前に出て行ってしまって……」

「そうでしたか。男手ひとつで、大変ですね」

「大変と言えば大変だけど、もう慣れたよ」

少しの沈黙の後、京一さんが意を決したように言葉を続けた。

「今日、姫子がスピリチュアル系の人に向かって癇癪を起こしたでしょ。それも、母親のことが影響してるんだ」

「そうなんですか?」

「スピリチュアルにどっぷりハマって、『わたしはひとつの場所に囚われない。自由に生きるの』とか言い出したんだ。初めのうちは、俺も説得して思い止まらせようとしたけど、最後には疲れてしまった……」

「そうだったんですか……」

「スピリチュアルにハマる前までは、夫婦仲も良かったんだ。でも、『守護霊の声が聞こえる』って言い始めてから、俺の気持ちは冷めていった。引き止める気力も削がれたよ。それでも、あの時は姫子のためにと思って、食い下がった」

京一さんはグラスを煽って、「俺にとっては、もうどうでもいい話だけどね」と笑った。

「ただ、姫子のショックは大きかった。長い間、落ち込んでいたんだけど、ここ一年くらいでやっと元気を取り戻したんだ」

「芯の強い子ですよね」

「我が子ながら、本当にそう思うよ。立ち直る過程で、彼女なりにスピリチュアルというものを理解しようとしたんだけど、結局、ああいう、憎む形になったみたいだ」

それから、京一さんは本棚に目を向けた。

「妻がスピリチュアルにハマって、俺もいろんな本を読んでみた。スピリチュアル系、宗教、哲学——。姫子もうんうん唸りながら読んでいたけど、『ツァラトゥストラはかく語りき』をいたく気に入って——」

昼間の姫子を思い出す。「神は死んだ」は、このニーチェが書いた本の有名な一説だ。自分は読んだことないけど——。

 その時、リビングのドアの隙間から、パジャマ姿の姫子が顔を出した。

「お父さん、悠一、おやすみー」

「おやすみなさい、姫子」

「おやすみ。…………——さて、俺もそろそろ帰ります」

「ああ、遅くまで引き止めて悪かったね」

「いえ、ご馳走さまでした」

「よかったら、また、俺や姫子の話し相手になってもらえないかな?」

「ええ、是非」

俺は京一さんと連絡先を交換した。家を出る時、二人は玄関先まで見送ってくれた。

「悠一、またねー」

「姫子、早く寝ろよー」

彼女は俺の姿が見えなくなるまで、一生懸命に手を振っていた。

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