第44話 大丈夫っすか
「神より賜りし、御言葉を記した教本を」
瞬間、周りの温度が一気に冷えるような感覚を覚えた。
先程まで満面の笑みだったヴァリッドの表情が、見る見るうちに真っ赤に染まる。
「よりにもよって地べたに落とすなどォォォォォォォォォォッッッ…………!!」
豹変とは
団欒としていた空気は消え、やって来たのは地を揺らす勢いのある憤激だった。
血管ははち切れんばかりに浮かび上がり、握り締めた拳はテーブルを粉砕した。
「言語道断……! 今すぐ神託を下すべしィッ!!」
怒りの矛先を挿げ替えても収まらない憤怒。
ヴァリッドの荒い息使いだけが空間を支配する。
大司教の豹変っぷりに、男の子は尻もちをつき腰を抜かしていた。
恐怖に歪み、怯え震える身体は失禁しても尚動かない。
「制裁ィィッ!!!」
その無防備な身体に向けて、鉄拳が発射される。
相手が子供でも関係ない。
彼にとって神を冒涜した人間は
膨張する剛腕から放たれる情け容赦ない一撃は、
「何を、してるんですか?」
割って入った僕の“
衝撃が風となり、僕の髪を揺らす。
両手で受け止めるのが精一杯だった。
「貴様ァ、邪魔立てするかァ」
「何をしてるのかって……僕は訊いたんですよ!!」
力任せに押し返す。
しかし、ヴァリッドは一切ふらつく事なく姿勢を保ち、僕を見据えた。
この体幹、彼の肉体は見せかけではない。
「コレは、礼儀のない
「躾の範疇じゃない……、あのまま殴ったらこの子は……!」
「死すらも神の前では平等だァ、よもや神への無礼を不問にしィ、罪も
揺るがない信念は、他者の説得を振り払う強固な心の壁だ。
神という絶対的な後ろ盾あってこその難攻不落の城壁。
コレがあまりにも硬く遠い。
信心は人を救うと言うが、彼のそれは常軌を逸していた。
何を言ってもそれは新たな反論を生み出すのみで、話し合いの発展を生まない。
その想像が容易なほど、目の前の大司教は話が通じる相手には見えなかった。
「早く逃げて……」
背中で庇う男の子に囁く。
彼は未だ震えた足腰を奮い立たせる事が出来ていない。
現に僕の呼びかけに対しても弱気な姿勢で口を開く。
「で、でも……おれ、あ、足が……」
「いいから早く!! こんなところで死にたいのか!」
びくりと身体を震わして、男の子は涙を溢れさせる。
しかし生きたい気持ちが勝ったのだろう。
顔を、ズボンを濡らしながら彼は叫び声を上げて逃げていく。
無様ではあったかもしれないが、男の子は最終的に逃げることができた。
その事に安堵する。
「そういえば、名を、訊いていなかったなァ」
ヴァリッドがなぜ男の子を逃してくれたのかは分からないが、完全に標的は僕へと移った。
熱い眼差しは烈火の如く煌々と輝いている。
あれほど感情が読めない白い眼が嘘のようだ。
間違いなく、人を焼き殺す憤怒の炎だろうが。
「エイト・クラールハイト」
「
しかしスッと、水をかけて鎮火したようにヴァリッドから怒りの感情が消えた。
僕の名前を反芻しながら、
「ふふ……フーハッハッハッハッ!!!」
盛大に哄笑した。
「な、何がおかしい……」
「ハハハ……いや、コレがおかしくなくて何という。あぁ……そうか、貴様が」
大きな身体を揺らしながら、こみ上げてくる笑いを抑えるように顔を手のひらで覆う大司教。
僕は訳もわからずその場で硬直し、
「我らが天使を誑かした……エイト・クラールハイトかァァァァァァァッッッ!!!
腹部を貫く衝撃に吹き飛ばされた。
「グェッ──」
その力になす術もなく宙を舞う。
勢いのまま地面を転がり、内側から破裂するような苦しみに腹を抱え悶えた。
「クァッ……ぁぁぁ!」
呼吸が出来ない。
息を吸おうとする度に胃からの液体が口内を酸味で満たし、辺り一帯にぶちまけた惨状は汚臭を蔓延させる。
肉眼では捉えきれない速度で迫ったのは、恐らく彼の爪先だ。
高速で実行された蹴りが僕の鳩尾を貫いたのだ。
本で防御する暇もなく、魔法で回避する間もなかった。
それがしかも──魔術を行使していない状態での体技だ。
恐るべき速度と
感心してる暇はなかったか。
痛みに歯噛みしながら、身体を押し上げようと手をつくが力が全く入らない。
意識に反して身体が痛みに麻痺していた。
「我は運が良い。今日は神が与えたもうた吉日であったようだ」
悠然とカツカツ足音を鳴らしながら、接近するヴァリッド。
その顔は再び笑んでいたが、どことなく、喜悦の感情が垣間見える笑みだった。
「ヴァ……ヴァリッド……大司教……」
「貴様のような寄生虫には地面で這い
変装をしているつもりではなかったが、貴族の扮装が彼のエイトとしての認識を阻害していたようだ。
にしても動きにくい。
戦闘用に作られた物ではないから仕方ないが、地面に擦過した影響でボロボロなのも相まって、身体の節々が凍り付けられたように行動が制限されてしまっている。
にしても、天使を誑かしたとは一体なんだ。
なぜ一度も会ったことのない僕が大司教に目を付けられているのだ。
疑問だけが降り積もる中、状況は動き出す。
先程まで祈祷を行っていた信徒達が僕の周りを囲み込み、逃げ場をなくす。
「我らが天使に仇なす暴徒に救済を」
「「「救済を」」」
まるで幽鬼のようにふらふらと、覚束ない足取りで、僕を囲み、ヴァリッドの言葉を復唱する。
「我らが道程を汚す暴徒に救済を」
「「「救済を」」」
実際、彼らに意思があるようには見えなかった。
瞳は何処か遠くを見つめ、確固たる意思を感じさせない。
「我らにこそ正義あり、この世を悪に染める逆徒に救済を」
「「「救済を」」」
彼らは共通して右目に光る十字を宿らせていた。
まるで十字を描いた布を貼った魔術正教の過激派のように。
しかし、あれはあくまで自発的に起こした行動だ。
今回の信徒達には自立する意思が感じられない。
そう、ヴァリッドを除いて。
「あらぁ。こんなところで会えるなんて本当に幸運ねぇ。私達本気で捜してたのにぃ見つからなかったのよぉ? 学園内で」
信徒達の群衆から姿を表すのは妖艶な女だ。
修道着を纏っているが、彼女の豊満な身体の線はヴァリッド同様隠し切れていない。
白い眼帯で両眼を覆っているが、眼帯には魔術正教の象徴たる十字が描かれている。
先端に大きな目玉の装飾がされた錫杖を持ち、頭三つ分はありそうな巨大な帽子を被った不思議な様相。
ヴァリッドを真似しているのか、語尾を伸ばす特徴的な喋り方が何より耳についた。
「メアルタハ……教典を」
「はぁーい」
メアルタハと呼ばれた女から分厚い教典を受け取り、安心するように胸に抱えるヴァリッド。
「にしてもアル……いや、ヴァリッド様ぁ? どうしますぅ、この子」
「慈悲などないィ。学園内では自身で防御術式を施しているのかァ、或いは他者からの干渉かァ、発見が困難ならばこの場で消すのが吉という物」
「確かにぃ、そうですねぇ」
女は口元を獲物を前にした獣のように舐め、口角を上げた。
どうやら僕の結末が決まったらしい。
「この場で裁決を下せる幸運。神に感謝いたしますゥ」
カツリ、カツリと、高く靴音を鳴らし、僕の前に立つとその足を高く上げた。
どうやら踏み潰す算段のようだ。
しかし、甘い。
体力も回復した。
今でも無様に地べたに寝ているのは身体が動かないからではなく、逃げる準備をしていたからだ。
“
「観念することだな。貴方の逃げ場はない」
「な、何を」
「私に触れた者は皆、例外なく魔法魔術が封じられる。貴方の奸計もここまで、ということだ」
僕に馬乗りになったのは白金の髪をした美丈夫だった。
しかし彼も同じく白い修道着を着用している敵だ。
両腕を掴まれ、逃げられないように押さえ付けられる。
彼の言葉が真実か、嘘かはすぐに理解出来た。
「ま、魔法が使えない……!」
「嘘だと思ったか? それではさすがに私が考え無し過ぎる」
マズい……!
行動を制限され、しかも魔術も魔法も使えない。
いつヴァリッドの
信徒に逃走先は断たれ、絶体絶命。
僕の身体を数十メートル魔術無しで蹴り飛ばした脚力を持つヴァリッドだ。
人の頭蓋を踏み潰すなど造作もないだろう。
「我が正義によって、この者の邪悪が払われん事を」
「く、くそっ! 離せっ!」
打開策を模索するが何も良い手は浮かばない。
白金の男の束縛も慣れているのか、関節をキメられているので、
なんだ。あと試していない方法はないか。
ティアに連絡を……いや、そもそも腕が拘束されているのに、精密な生徒手帳の操作など出来ないし、巻き込みたくない。
誰かに助けを求め……ようとしても周りは完全に信徒によって封鎖されている。
僕を逃さないだけではなく、周囲からの援助を与えない為の囲いか。
他に──他に試していないことはないのか!?
──狙われる理由もわからず、僕は死ぬのか? こんなところで?
嫌だ。
僕は僕の夢を果たす為、ここまで来た。
それが勇者を決める争いは関係なく、志半ばで
でも僕には、反撃する策も力もない。
だから僕は死にたくないと願いながら、強く目を瞑る。
「
「「「
神に従う者らに殺される最中、神に願うことしか出来ないとは、なんて皮肉だ。
復唱が終わり、ヴァリッドの
その想像を脳裏に浮かべながら、涙を流したその時、
──ドゥルンドゥルルルン
と、聴き慣れない爆音が頭上で鳴り響いた。
「な、なんだ! 君は──がはぁっ!!」
凄まじい風が頭上を走り抜けて、同時僕の拘束が外される。
目を瞑っていたせいで状況が何も分からない。
聞こえてくるのは群衆の喧騒と、ドゥルンドゥルンという奇怪な爆音。
「──大丈夫っすか。クラールハイトさん」
どこかで聞いた声がした。
声に導かれるように、恐る恐る目を開ける。
眼前にあるのは全駆動素体を魔物の骨格により形成した二輪車。
しかし、二輪車といっても馬車のような横二輪ではなく、縦二輪の一人乗り車。
見たことがない車に驚愕を覚え、騎乗者へと視線を変える。
そこにはあの七十二訓練場の生き残りだった、陰湿気質の赤みがかった金髪男が乗っていた。
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