第30話 無知もまた風情
時刻は八時半。
夜風に
耳を撫でるような葉擦れの音楽は、さわさわと、静寂の闇を彩る。
僕を見守る満月でさえ、歌うように輝いている。
砂丘のような緩やかな起伏を超えて、目的地へと足を急がせる。
約束の時間ギリギリだ。
約束を守れないのは人として恥じるべき事ではあるが何より、
そうして、額に流す汗で風を感じながら到着した目的地。
小高い丘の上にある岩の上に、腰を掛ける一人の麗人を発見する。
一陣の風にすら物怖じせず不動の姿。
風に流れる赤髪は、夜闇を明るく照らす真紅の炎。
彼女の容姿も相まって、思わず駆け寄るのを忘れ見惚れる程に、美しい光景だった。
それは額に収めて飾っておきたいほどに──
「あら、来たのね」
静寂に美声が囁かれる。
髪を掻き上げて、アヤメ・フレイムクラフトはその紅蓮の瞳を向けてきた。
吸い込まれるような
静かな夜の雰囲気の所為か、いつもより綺麗に感じていた。
「ご、ごめんなさい。時間ぴったしに来てしまいました……」
「別にいいわ。私も
……なんだろう。
凄く、言ってやった感を醸し出して満足げな表情を浮かべている。
「そ、それは良かったです……はは」
おかげで凄く雑な返しになってしまった。
アヤメも少しムッとした気がするが、どういう反応が正解だったのだろう。
「それより」
と、さっきまでの満足度はどこに消えたのか。
苛立ちまじりの声音でアヤメは言う。
「その敬語やめなさい。ティアにだって、敬語を使っていないでしょう?」
「え? えっと、よろしいので……いいの??」
「二度は言わないわ」
突然の申し出に困惑するが、本人が問題ないと言うのであれば、僕が無理して守る事はない。
ティアとの会話で王族を前にするプレッシャーにも慣れて来た。
何より彼女の言うことを聞かなかった場合が怖い。
「分かった。改めてよろしく、アヤメ」
「ええ。そっちの方が、私としてもやりやすいわ」
「それはそれとして、どうして今日はこんな時間に……僕を?」
それは素朴な疑問ではあったが、答えの見つからないものだった。
アヤメと僕は同じチームメイトではあるものの、僕に対する彼女の印象は良くないと思っていた。
少なくとも、弟フラムを倒した憎き仇という認識でも、おかしくないと考えていたのだが。
僕のその質問に、何がおかしいのかクスリとアヤメは笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいわ。単純に、貴方にお礼がしたかっただけよ」
「お礼……?」
「私を、魔人から助けてくれたじゃない」
「あ……」
アヤメに言われて初めて気付く。
そういえば僕は彼女の窮地を救っていたのだ。
であればここに呼び出されるのも理解出来るというもの。
しかし、今更気付いた僕の反応が余程おかしいのか、アヤメはくすくす笑っている。
「何、忘れていたの? 面白いわね。本当」
「しょ、しょうがないじゃないか。僕だってあの時は、必死で……戦っていたから……」
自分で言葉にして、思い出す。
あの時、助けなければと必死で戦った。
知恵を絞って、魔人と真正面から相対した。
しかし勝てたのは僕ではなく、“闇”だ。
十年も前から息を潜める闇。
奴はいつも狙っている。
僕と入れ替わる事を。
僕とすげ替わり、新たなエイト・クラールハイトになる事を。
そして一度入れ替わると、抜け出すのは非常に困難だった。
ぬるま湯で泥のような闇に包まれて、四肢を動かす力から思考まで奪われてしまう。
次、彼と入れ替わってしまったなら、いったいどうなってしまうのだろうか。
僕には、てんで予想がつかない。
それがとても──恐ろしい。
「どうかしたの? 顔色、悪いわよ?」
アヤメの言葉で我を取り戻す。
記憶が蘇るだけでこれだ。
闇……奴の事に関しては、あまり考えない方が良いのかもしれない。
とりあえず、心配させないように無理矢理笑みを作る。
「い、いや……なんでもないよ」
「そう。なら、良いけど」
「それで、アヤメはお礼を言う為だけに僕を呼んだの?」
「そうよ」
「え?」
衝撃のあまり聞き返してしまった。
訓練場の解放は申請が必要だ。
いつでもお気軽にどうぞ、という仕様ではない為、必ず管理している教師にメールを送り、受諾される必要がある。
ただお礼を言う為だけに、この壮大な景観を作ったと思うとなんだか大袈裟すぎる気もした。
「お礼をするだけ、とは言うけどねエイト。王族が命を助けられたのよ。大したもてなしなんてここでは出来ないけれど、私が好きな風景を共有するくらいはしても良いじゃない」
「好きな……風景?」
「ええ。月が雲に邪魔されず、夜の世界を照らしているこの風景が、私が最も好むものよ」
確かに眼前に広がる世界は美しい。
月と草原のみが存在し、邪魔なもの全てを隔離した世界。
「確かに、心が洗われるよう。最近落ち着く事があんまり無かったから、こういうのは久しぶりかもしれない」
「そう。それなら良かったわ」
満足したのか、アヤメは岩の上から降りてスタスタと帰り始めた。
本当にお礼を言うつもりだけだったらしい。
「あ、そういえば」
と、顔だけをこちらに向かせて言う。
「ツツリって言う子に伝えておいて。次、三十件もメール送ってきたら焼くって」
その眼はいつか僕に向けて来た冷えた瞳に戻っていた。
この忠告は嘘でも冗談でもなく、本当に焼き殺しかねない本物だ。
「よ、よく伝えておきます……」
止め処ない殺気のオーラに怖気付き、約束も忘れて敬語に戻った僕だったが、アヤメはまた小さく笑い帰っていった。
その時、鈴の音のような声が鼓膜を打つ。
「
突然の名前呼びにドキりとした。
ティアとはまた違い、美人から呼び捨てにされるのもまた心臓に悪い──と、深呼吸をする。
「本当に、ありがとね」
と、振り返る彼女の微笑みが、網膜に焼き付いて離れない。
火照る身体は冷たい夜風をいつもより意識させる。
顔が、沸騰するように熱い事に、僕はまだ気付かない。
--
そして、その夜の自室。
ドッ、と押し寄せる疲れはシュヘル先生との訓練が主な原因だ。
本能の赴くままに身体を倒してベッドにダイブする。
「ん…………んぅ」
身体が熱い。
なんだか戦闘の火照りとはまた違う、心の奥底から生まれる熱。
身体を支配する、その熱の正体が掴めない。
初めての感覚だ。
鼓動は早鐘を打ち、意識はグルグル回っている。
それと言うのも、アヤメにあってからだ。
見目麗しい容姿、燃え盛る炎のような赤髪に、紅蓮の瞳の熱い視線は火傷さえ引き起こしそうだ。
と……、ずっと頭の中で彼女のことだけを考えてしまっている。
こんな事は初めてだ。
色々な人達と接して来たが、大した出来事もなく、ある特定の人物が脳内で巡り廻るなど──。
しかし、大した出来事があるといえばあった。
夜闇の草原にただ一人待つ少女。
その姿を額に収めて飾りたいという感情が、大したものでないというのなら嘘だ。
「これは……もしか、すると……」
急激な眠気が襲う。
ここに来て疲れが僕の熱を凌駕した。
思考回路が次々と停止していく中、心の片隅で思う。
この感覚はもしかすると、今まで感じたことの無かった──新しい感情かもしれないと。
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