10・蝶々
三神はなにが起こっているのか把握できずに呆然としていた。さっきまであったはずの講堂が消え去ったかとおもうと、なぜか生徒たちが暴動を起こしていたのだ。
少なくとも彼女にはそう見えた。
なぜ、暴動が起きるのか。いったいだれとだれとか喧嘩しているのか。
なぜ、こんなことが起こっているのか、彼女にはまったく理解できなかった。
「おのれええ」
「はあ? なに言ってやがるんだよ。てめえ」
三神が朝矢の声のするほうを見る。
「きゃあああああ」
三神は朝矢の向こう側にいる巨大な蝶に思わず悲鳴を上げながら腰をぬかした。
大人のよりも大きな身体と大きな羽根。
その胴体の胸あたりには女性の歪んだ顔が見える。その顔には見覚えがあった。
コンクールを控えていた三神にピアノを教えてくれていた同世代の少女の顔そのものだ。
“教えてあげるわ。必ず弾けるようになる。コンクールに優勝だってできるわ”
そういって微笑んでいた彼女。だれなのかと最初こそ疑問に思ったがいつの間にかなにも考えなくなっていた。
けれど、三神がいま思い返すと奇妙すぎた。いつも彼女は音楽室にいた。それ以外の場所で逢うこともなかった。ここの生徒だとも取れるが、この学校の制服をきていなかった。
セーラー服とモンペ姿はいかにも戦時中の女学生といった感じであったことにいまさら気づく。
そして、彼女はそこにいる。巨大蝶の中に身体を埋め、青白い顔だけをこちらへ覗かせているのだ。
「なに? なんなのよ」
三神はヒステリックを起こした。
「お前」
三神に背を向けていた朝矢が突然振り向くすぐに、腕を掴み立ち上がらせる。
「さっさとここを離れろ。芦屋さん。頼む」
そう叫ぶなり、三神の身体をステージの下へ向かって投げ落とした。
抵抗する暇もなく。彼女の体は投下していく。朝矢はすでに彼女に背を向けて、巨大蝶を向いている。
「おい」
地面に叩きつけられるかと思ったそのとき、なにかが三神のクッションとなってくれた。かすかなぬくもりが感じる。
「朝矢。強引だぞ」
三神の身体とともに上半身を起こしながら、その誰かがステージへと向かって叫んでいる。
三神は顔を上げた。
男性だ。
三神よりも十個は年上の男性が自分を助けてくれたようだ。
「大丈夫か?」
その珍しい紫の瞳がこちらを向く。
「はい」
「立てるか?」
三神はうなずき、立ち上がった。
「君はこの場を離れなさい」
どういう意味だろうかと首を傾げたとき、なにかが三神の腕をものすごい力でつかんできた。
ハッと振り返る。そこにいたのは、三神と同じバンド仲間の一人だった。その顔には血の気がない。
口を大きく開けると三神を噛みつこうとした。その前に、男がその腕を三神から強引に引きはがすと、彼女を地面に叩きつけた。
一瞬呻いたように見えたが、何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がり始める。
「走れ」
「え?」
「とにかく、グランドの外へ走れ」
意味がよくわからない。けれど、ここにいてはいけないことは自覚した。
三神はステージのほうを見る。そこには弓矢を構える青年と黒くて大きな蝶の姿があった。
三神のピアノを指導してくれていた蝶子の姿はどこにもない。
蝶子?
蝶子とはだれだったのだろうか。
三神は首をかしげていた。
「早く」
男の叫びでハッとすると、グランドの外へ向かって走り出した。
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