37
合宿当日。大きな荷物を持った俺達は早朝学校に集合して、電車を乗り継いで
稗田のおっさんのことは、「稗田コーチ」と呼ぶことにした。名目上はコーチではないということだが、俺達にとってはもうコーチだからだ。
稗田コーチの家から、稗田コーチの運転する車で「ここからそう遠くない」という合宿所に移動する。ミハイルを助手席に乗せて、残り三人はうしろだ。
「インターハイ、青森吉田が三連覇を達成したな。
車内で稗田コーチが先日行われたインターハイの話を始める。
47メートル53……。その数字に圧倒される。青森吉田高校の
「
竹内が尋ねる。
「ああ、秀煌は二位だ。総合力じゃあ秀煌が上だった。けど、谷沢が化け物過ぎたな、一人で47メートル稼いだ。そんなのが高校生なんだから恐ろしいなあ。そりゃ、他の奴がよほど弱くなきゃ勝てる」
稗田コーチの言葉に胸がざわついた。団体戦はみんなの力を合わせる競技だから、全体の力が強い方が勝つと思いがちだ。しかし、全員が強く、隙がないと思われた秀煌を、青森吉田の谷沢は一人の力でねじ伏せてしまった。もちろん、青森吉田は、他のメンバーも十分強いはずだが、高校靴飛ばしは、30メートル後半、よくて40メートル前半の世界だ。その中で一人47メートルの飛び抜けた記録を出す。一気に勝負が決まる程のインパクトがあったに違いない。そういう勝ち方もあるのだ。
「スカイツリーが見えますね」
ミハイルの発言で現実に引き戻された。
確かに、左前方に存在感を持ってスカイツリーが立っている。
道はのどかな雰囲気だった。田んぼや畑や家ばかり。たまにコンビニがあるくらいだ。
車は橋を渡って、多くの家がひしめく住宅地に入る。その民家だらけの場所の隅にやや大きめの建物があった。
「よし、着いたぞ」
と稗田コーチがそこに車を停めた。地域の寄り合い所みたいな雰囲気の建物だった。
「ここが合宿所ですか?」
竹内が聞く。
「そうだ。浩次郎たちもここに連れてきて練習させた」
「どこに練習する場所があるんですか? ああ、あの奥かな?」
竹内が建物の向こう側に運動場らしき物を発見し指さした。
「ああ、ちゃんと奥にあるが、まずは荷物を降ろそう」
コーチに言われたとおり、俺達は荷物を持って建物に入る。玄関があって、正面にすぐふすまがあって、その先に畳の部屋があるのが見える。
外観だけでなく中も寄り合い所みたいだ。
靴を脱いで上がる。
とりあえず荷物を置いて、俺達はそれぞれ、中をチェックして回った。
トイレと台所がある。洗面所兼脱衣所、そして風呂もある。風呂は大浴場とかではなく、普通の家庭にあるような小さな浴室だ。一人ずつ順番に入ることになりそうだった。
トイレにトイレットペーパーこそあるが、他に備え付けの物はほとんどない。風呂場の石鹸やシャンプーなどもないし、台所にはやかんと蓋付きの鍋があるのみ。食器もない。引っ越し前の家みたいだ。
「合宿所」と呼ぶには小さな規模だが、少人数なら寝泊まりできそうだ。
「一週間貸し切ってある。自由に使えばいい。俺は一緒に寝泊まりするわけじゃない。ヒマなとき見に来てやる」と稗田コーチは言う。
「隣がここの管理人の家だ。ちょっと挨拶してくる。何か困ったら管理人に言えばいいから」
と稗田コーチは出て行った。
メインの和室の広さは十二畳。部屋の隅っこに座布団が八枚重ねで積まれている以外に何もない。
案の定、竹内が「いえーい」とその八枚重ね座布団に飛び乗り、笑点気分を楽しみ出す。小谷が「おら、どけー。そこは俺の場所だ」と竹内を引きずり降ろそうとして、竹内を座布団ごと崩して畳の上にばらまく。
俺は押し入れを開ける。上の段に布団が畳まれてたくさん入っている。下の段には折りたたみテーブルと枕があった。枕を一つ取り出して転がっている竹内に投げてぶつける。竹内から反撃の座布団が飛んでくる。来たとき綺麗だった部屋は一瞬で座布団と枕で散らかった。
「準備ができたら外に出てこい」と外から稗田コーチに呼ばれ、俺達は外に出て、建物の裏に回る。
ブランコが見えた。紛れもない、靴飛ばしの練習場がそこにあった。
ブランコのそばまで行くと、練習場の全貌があらわになる。靴飛ばしの練習場としては、最低限の広さだ。
ブランコは、俺達が普段学校で使っている造り付けタイプではなく、実際の競技でも使われる、四方向からワイヤーで引っ張って固定するタイプのブランコだ。シーアンと戦った時の、秀煌学園のサブ練習場にあったのと同じものだ。このタイプのブランコは傾きを点検したりする必要があったりして面倒なのだが、前向きに考えれば、より本番に近い環境で練習ができる。
ブランコのそばには背もたれのないベンチも設置されている。
練習場は胸くらいの高さの金網のフェンスにぐるりと囲まれている。一見普通の公園のようだ。ブランコから見ると、左は宿泊施設の建物の壁、右は木が立ち並ぶ植え込み。正面の金網の前は草が伸び放題の草むら。しかし、ブランコから50メートル地点までは草もなく、きちんと距離が測れるようになっている。
何より特徴的だったのは、ブランコに座ったとき、真正面にスカイツリーが見えることだった。
金網のフェンスのさらに先に、はっきりとスカイツリーの姿が見える。
これだけ綺麗に見えるのだから、この場所は間違いなく、絶好のスカイツリービュースポットである。
稗田コーチは言った。
「お前達がこの合宿でやることは一つ。あのスカイツリーのてっぺんに靴を引っかけるんだ!」
俺達は顔を見合わせた。
何を言っている、いくら何でも遠すぎるだろ、どんだけ距離あると思ってんだ、とは誰も言わなかった。稗田コーチの言わんとしていることを察していたからだ。
つまり、本当に靴を引っかけるつもりでやれということだ。
「その練習のために、俺はスカイツリーが真正面に見えるところにブランコを作ったんだ。管理は人に任せているが、誰でも使えるわけじゃねえ。日本代表の選手が使うこともある靴飛ばし専用の練習施設だ。この環境を活かせ」
俺達は「おう」と頷いた。
これが噂に聞いた、浩次郎先輩達がやった秘密特訓か……。
それから、稗田コーチは俺達にイメージトレーニングを指示した。
「いいか、目を閉じて、イメージしてみろ」
稗田コーチに誘導され、俺達は目を閉じる。
「あの辺りには東京ソラマチがあるだろ?」
東京ソラマチの大型ショッピングモールの光景が頭に浮かぶ。
「ソラマチには観光客がいっぱいいるんだ……すごい数の人だ……」
「ワウ! ワウ!」
え?
突然の犬の鳴き声に目を開ける。
結構大きめの野良犬が練習場に迷い込んでいた。
「あの犬、また入り込んで来やがった……」
稗田コーチはいったんイメージトレーニングを中断して、犬を追い払いに行く。
戻ってきた稗田コーチは「なんだよせっかくいいところだったのに」と文句を言って、また最初から……。
――イメージしてみろ。
あの辺りには東京ソラマチがある。
東京ソラマチの観光客がいっぱいいる。
その観光客達の頭の上を、お前が放った靴が通過して、スカイツリーの上の方めがけて飛んでる。
観光客の中には靴が飛んでくるのに気付く奴もいるかもしれないなあ。「何か飛んできたぞ」なんてな。
靴はスカイツリーのてっぺんの鉄の柵のようなところまで飛んでいって、柵の尖ったところにスポッと引っかかって、くるっと回って止まるんだ。
そのイメージは楽しいなと思った。
「どうだ、やってみたくなったろう? じゃあ、俺はパチ……家に帰る。また明日来る。本格的な指導は明日からだ」
そう言って、稗田コーチは俺達を残して帰っていった。
こうして合宿がスタートした。
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