33

 なんでこんなことになってしまったのだろう。

 俺は家に帰ってから、ずっと上の空のままだ。そのせいで食事の時、母親と多少もめたりもしたが、それはどうでもいい。言うほどのことじゃない。

 あまりに長い夜の時間をやり過ごそうと、テスト勉強でもしようと思ったが、やはり手に付かず、諦めて早々にベッドに潜り込んだ。

 あれから雨は徐々に強まり、外からはずっと雨音が鳴り続いている。

 ベッドの中で、今日のことを思い出す。


 上川高校近くのバス停まで戻ってきた俺達は、バスを降りて、いったん輪を作った。お互いに暗い顔を見せないように自然な表情を作りながら向かい合っているような感じだった。小谷もいつもの無表情に戻っていた。

「雨降ってきたから、気をつけて帰ってね」

 という美佐姫先輩の一言で、解散の流れになった。そして美佐姫先輩は言った。

「勝手に連れ回してごめんね。先週も今週も……。現実はままならないね……なんか、やること全部裏目だったね。……私のことは大丈夫だから……。もう引退なのに出しゃばって……ちょっと一人相撲だったかなって、反省してる…………」

「……いや、そんなことないですよ。先輩には本当に感謝してます」

 竹内が少し焦ったように言うと、ミハイル君も大きく頷く。

「うん。……これからは、もっと竹内君を信じて、任せなくちゃいけないよね……。みんなだったら、自分達で考えて練習して、強くなるもんね。応援してるから」

 それは、もうこれからは部活に顔を出さないという意味だと俺は悟った。

 次の十月の大会までは一緒にやれると思っていた。その日が早まっただけだ。でも、俺には、それは美佐姫先輩からの決別宣言に聞こえた。

 もっとはっきりと言ってしまえば、見限られたと思った。

 見捨てられたと思った。

 じゃあねと手を振って、美佐姫先輩は帰ろうとする。

「美佐姫先輩!」

 竹内が美佐姫先輩を呼び止める。

 美佐姫先輩が振り返る。

「俺たち、秀煌を倒しますよ」

 竹内が言った。竹内らしい声だったと思う。

「……うん。頑張ってね」

 美佐姫先輩は、小さく微笑んで静かに答えた。そして、前に向き直り振り返ることなく歩いて帰っていった。

「タカハシ」

 竹内に呼ばれて「ん?」と返事をした。

「悪い。雨、強くなるといけないから、俺先に走って帰るわ」

「ん? ああ……」

 竹内は走り去っていった。前傾姿勢で、追いかけたくもなくなる程の大きなストライドで、足音を響かせながら……。

 ミハイル君や小谷ともそこで別れ、俺も歩いて家に帰った。


 現実は決してわかりやすくない。

「大切な人の命が奪われた」とか「失恋した」とか、そういうわかりやすい、誰がどう見ても悲しく辛い出来事だって世の中にはごまんとある。

 でも、俺のはそうじゃない。

 とても悲しくて辛くて悔しいのに、何が悲しくて辛くて悔しいのか、誰かに話しても「それってそんなに悲しいこと?」という質問一発で簡単にないものにされてしまうように思える。

 キスが大したことなのか、大したことじゃないのかということもそうだ。どうとでも考えられる。「大したことなんて何も起きていないじゃない」と言われたらそれまでだ。

 美佐姫先輩が部活に来なくなることもそうだ。引退していて、本来は来ないのが当たり前だ。いままでが異常だった。

 美佐姫先輩の言ったことは正しい。部長の竹内に任せてとっとといなくなるのがあるべき道だし、俺達もそれに協力するべきなのだ。受験生である美佐姫先輩を部活に引き留めることはすべきではない。それでやっと普通になる。それでいいはずなのだ。

 だけど……どうしても、これでいいとは思えない。いいはずがない。

 次から次へと頭の中に今日一日の出来事が浮かんでくる。いろいろな思いが頭を駆け巡る。

 学校に集合して、みんなでファミレスで食事をして……。途中までは、あんなに楽しかった……。

 そこへあいつが現れた。あいつも子供の頃からずっと靴飛ばしをやっているんだろう。練習量が違う、経験が違う……。

 勝てなかった。4対3というハンデがあったのに勝てなかった。

 あいつは最後、20メートルラインを狙って靴を落とした。なめられた。だが、調節して20メートルを飛ばせるということ一つとっても、経験の差を認めざるを得なかった。

 小谷を責める気にはなれない。もともと小谷がやらかすことなんて、練習中には何度もある。それが本番で出たとしても、それはいつも通りのことが本番でも起きたというだけだ。本番ではベストだけが出るなんて都合よくいかない。当たり前だ。

 小谷だけじゃない。俺も、竹内も、ミハイル君も、今日の結果は自己ベストには大きく届かなかった。それは、失敗のようにも思えるが、珍しい程の大失敗ではない。練習の時よくある、ちょっと上手くいかなかった時の記録が出ただけだ。練習ではもっと大きな失敗もすることだってある。それが出なかっただけよかったとも考えられる。つまり、みんないつもの練習の成果が普通に出ただけなのだ。今回たまたま悪かったわけじゃない。これが今の俺達の実力だ。

 そしてまた、西安と美佐姫先輩のキスが脳裏に浮かび上がる。

 美佐姫先輩とそれほど身長差のない西安の手が、美佐姫先輩の肩を引き寄せ、顔を近づけ唇を重ね合わせる。

 もし、それが俺だったら……? 美佐姫先輩とキスをするのが俺だったら……どんな感触だろう……。美佐姫先輩の身体を抱き寄せて、あのかわいい顔を見ながら俺の唇をそっと合わせる……。

 掌で感じる肩や背中の柔らかさと温かさ……。

 匂い……吐息……。

 そして唇の柔らかな感触……。

 体の一部が熱くなる……。


「だあぁぁぁ!」

 ガッ!!

 妄想を打ち砕くために振るった左の拳が、ベッド横の壁を思い切り殴りつけていた。拳に痛みが広がる。

 何を考えているんだ! 俺は! 負けたくせに!!

 美佐姫先輩をさんざん矢面に立たせて……

 自分は安全な場所から見てるだけで……

 それで望まないキスをさせておいて……まさかそれをおかずにでもするつもりか?

 最低だな! そんなの、人間として終わってんぞ!

いてえ。痛え!」

 何を痛がっている!!

 負けたくせに!!

 止めることもできなかったくせに!!

 お前に痛がる資格なんてないだろ!

 さあ……もっと大きな痛みを味わえよ!

 その手でもう一度壁を殴りつけた。

 望み通り、激しい痛みが走る。

「ちくしょぉ……」

 涙が止めどなく流れてくる。

 浩次郎先輩に似ているって言ってもらったじゃないか……。

 最高のメンバーだって……秀煌に勝てるとしたら、俺達だって言ってくれたじゃないか…………。

 やりたいことはそのときやれ、言いたいことは言えって、教えてもらったじゃないか……。

「ちくしょぉ……」

 なのに……。

 俺は……。

「何やってんだよ……ちくしょぉ……痛ぇよ……。痛ぇよ……」

 拳の痛みで明け方まで眠れなかった。

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