32

「約束のキス、口と口だよ」

 西安にしやすは美佐姫先輩と向かいあい、そう言うと、美佐姫先輩の両肩を掴み、顔を近づけ、美佐姫先輩の唇に自分の唇を無作法に押しつけた。

 …………。

 …………。

 まだ、西安は止めない。口を離そうとしない。

 西安は目を開け、様子をうかがうように目線を俺達の方に向けた。美佐姫先輩の唇とくっついたままの唇の端がニヤリとつり上がった。

 刹那、美佐姫先輩が、西安を突き放した。

「もういいだろ! ……なげーんだよ……」

 美佐姫先輩の声は、いつもの明るい美佐姫先輩の声ではなかった。怒りのこもった、低く、ドスの利いた声だった。

「おお、怖っ!」

 笑いながら言って西安が肩をすくめる。

「……約束守ってよね。勝負はしたんだから……」

「スパイのことだっけ? いいよ。もともと人に言う気なんてないし……」

 西安の返事に美佐姫先輩は眉をひそめ、厳しい表情を浮かべる。その時……

「シーアン!」

 うしろから女性の声が聞こえた。俺達はそちらを振り返る。

 体操服姿の女子がこちらへ向かって小走りでやってくる。

「なんでこんなところにいるの? 先輩達怒ってたよ! 早く! 行くよ!」

 その女子は西安を捕まえに来たようだ。

「ああ、いや、こいつら俺の友達なんすよ。せっかく来てくれたから、一緒に遊んでたんすよ。すぐ、練習行きますよ」

 西安は彼女にそう告げたあと、俺達に対してその人を紹介する。

「この人、マネージャーのクワバラさん」

 秀煌のマネージャー。さっき西安が「ブスしかいない」と言っていたマネージャーの一人か。赤いほっぺたが愛らしく、別にブスという感じではない。さっき、こいつ、あなたのことをブスって言ってましたよと告げ口しようかとも思ったが、そんな心境でもない。

「そういうことなんで、じゃあね!」

 と西安はダッシュで走って去って行った。

 西安を見送ったあと、その場に残ったマネージャーのクワバラさんが俺達に、

「あの……西安が何か失礼なことしませんでしたか? あいつうちでも手を焼いてるんです。本当にすみません」

 と言ってから、失礼しますと一礼して、西安を追いかけるように走り去った。

 そのセリフからして、西安が何をしたかわかっているようだった。ここに現れる前、様子を見ていたのかもしれない。


 そこに残ったのが俺達だけになってから、美佐姫先輩が謝った。

「みんな、ごめんね、なんか…………。私のことは全然気にしなくていいから……大したことじゃないから」

 俺達を安心させんとする、明るい声だった。

「……すいません、勝てなくて」

 俺は何を言っていいかわからなくて、つまらないことを言ってしまった。

「いいの、全然、全然……。みんな頑張ってくれたし……」

 そのあとも、美佐姫先輩は「ごめんね」と繰り返した。変なことに巻き込んでごめんと。

 小谷が……泣いていた。背中を向けて、タオルで汗を拭くフリをして、涙を見せないようにして、何ごともないフリをしようとしているようだったが、それでも泣いていることがわかった。

 竹内は使った靴などを片付けはじめた。そして、置きっぱなしのホワイトボードを少し見てから、そこに書かれた数字を手で拭って消した。


 俺たちは帰ることにした。バス停に戻る間も、みんな無言だった。バスに乗ってからも、誰も口を開かなかった。

 美佐姫先輩も、ミハイル君も、竹内も、何かをするわけでもなく、行儀よく座席に座り、ただバスの揺れに身を任せている。

 小谷はヘッドレストに頭を乗せ、折りたたんだタオルを顔の上半分に乗せたまま動かない。タオルをアイマスクに寝ているようにも見えるが、そう見せかけているだけだろうと思った。

 バスに揺られながら、何度も美佐姫先輩と西安のキスが頭に蘇った。

 美佐姫先輩とあいつの唇が重なったこと。あいつがこちらに目を向けて俺達の様子を伺ったこと……。

 その度、乱れそうになる呼吸を落ち着けた。

 キスくらい大したことない。美佐姫先輩も自分でそう言っていたじゃないか。

 パーティーのゲームか何かですることもあるかもしれないし、女優さんなどはキスシーンを演じたりすることもある。別に大したことじゃない。

 そうだ。大したことじゃない。大したことじゃないとも思える。だからこそ、止めることもできなかった。見ているだけだった。「その程度のことで何ムキになってるの?」「意識しすぎだろ」と誰かに笑われるような気がして……。もっとはっきりした犯罪的セクハラ行為なら、迷いなく止められた。でもキスというのは微妙なラインだ。西安がキスを提案したのはそれも計算してのことではないかと思えてくる。

 でも……こんな気持ちになるくらいなら……あの時、割って入って止めるべきだったのかもしれない。「約束違い? 知ったことか!」と美佐姫先輩の手を引いて逃げればよかったのかもしれない。それはそれで、あとあと楽しい思い出になっていたかもしれない。竹内も小谷もミハイル君も礼儀正しくて、優しいやつだ。一番それができる可能性があったのは俺だったはずだ。「引き分けでしたね」とおどけて、ごまかして……今回こそ、それをすればよかったんじゃないのか? なぜ俺はそうしなかった?


――『やりたいことはやりたい時にやれ、言いたいことは言いたい時に言え。それを逃せばもうチャンスは来ない』


 浩次郎先輩の言葉が急に蘇る。

 俺はまた黙って見ていた。稗田さんの時と同じだ。もっとできることがあったかもしれないのに……。

 そもそも、勝負に勝っていれば……。

 美佐姫先輩が謝っていた時のことを思い出す。

 なんで、美佐姫先輩が……一番辛いはずのあなたが謝るんですか。謝らないでくれよ……。美佐姫先輩にぶつけたい怒りにも似た気持ちは、何度投げようとしても、放つ瞬間大きくなって自分に跳ね返ってくる。

 俺のせいです。

 すみません守れなくて……。すみません勝てなくて……。

「お、雨……」

 竹内の声が聞こえた。見ると竹内の言うとおり、バスのガラス窓に、線を引くような水滴が次々と出現し始めていた。

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