28

 偶然だった。

 公園を通りかかったとき、ブランコに見慣れたうしろ姿があった。

 初めて会った日から、昨日も一日ずっと見ていたうしろ姿。

 俺は公園に入り、美佐姫先輩の右隣のブランコに座った。そして「こんちは」と頭を下げた。先輩はこちらを見て微笑んでくれた。

「……どうだね、タカハシ君、靴飛ばしは楽しいかね?」

 変な声色で美佐姫先輩が聞いてきた。

「なんでそんな年寄りみたいなしゃべり方なんですか……。楽しいです。おかげさまで」

「うん。これから、もっと楽しくなるよ。好きだからやるんじゃなくてやるから好きになる。物事も、人も、自分から関わっていくほど、どんどん好きになって、好きなものがどんどん増えていくんだよ……」

 美佐姫先輩の声はいつもより静かで優しかった。

「この公園ね……。子供の頃、よく兄と一緒に遊んでたんだ。このブランコで……。私がここで、兄がそっちで……」

 美佐姫先輩が俺のブランコを指し示す。俺の座っているちょうどこのブランコだ。

「ちょうどこんな感じで並んで…………」

 ここにまだ幼い美佐姫先輩と少年時代の浩次郎先輩が並んでブランコを漕ぐ姿が思い浮かぶ。

「靴飛ばしもやったんだよ」

 声のトーンが少し明るくなってきた。

「兄はね。中学から靴飛ばしを始めたの。お母さんに『なんで靴飛ばし部にしたの?』って聞かれて『美佐姫とやった靴飛ばしが楽しかったから』って言ったんだ……」

 美佐姫先輩は正面を向いて懐かしむような表情を浮かべている。

「兄が靴飛ばしを始めた原因は私でした」

 こちらを向きながらおどけたように笑う美佐姫先輩につられて、俺は笑顔で頷いた。

「兄が高校で部長になってからは、部活終わりとか、休みの日とか、よく部員をうちに連れてきて、どうやったら秀煌に勝てるか、あれこれ話し合ってた。私はまだ小学生だったんだけど、その話がおもしろくて、部屋にお邪魔して一緒に聞いてたんだ。話が終わってゲームとかで遊び始めたら混ぜてもらったりして、楽しかったな。……遊んでもらえるのが楽しくて兄のところに押しかけちゃうのはちっちゃい頃からずっとそうだったんだけどね……。そのうち私は『靴飛ばし部の小さな応援団長』なんて呼ばれて……」

 ブランコを足で小さく揺らしながら、こちらを見ず独り言のように、美佐姫先輩は話し続けた。俺はその足元を見ながら、話を聞いていた。

「そしたら、いつも一緒に遊んでたその人達が、本当に勝っちゃた。……すごかったよ!」

 全国大会に行ったメンバー。俺はよく知らない。けれど、美佐姫先輩にとっては大好きな人達だったことがその口ぶりからわかる。

 スポーツエリートの集まる秀煌学園に、ノーマークの公立校が勝つ。新聞にも載るほどの事件だ。その番狂わせを演じたのが自分の兄であり、普段から顔を見合わせていたその友人達だった。美佐姫先輩にとって大きな出来事だったのだろう。

「あの頃、楽しかった……。たまに稗田コーチも、うちに来て、一緒にご飯食べたりして……。みんな家族みたいだったから、稗田コーチは絶対私の味方になってくれるって思ってた…………。コーチを断られたことより、上川と関係ないって言われたことのほうが辛かったな。今思えば、私が勝手に思い込んでただけなんだよね。稗田コーチからしたら、あの頃の私なんてただの小学生だもんね。そりゃそうだよね……恥ずかしいよ」

 それから「現実はままならないね」とつぶやいた。

 美佐姫先輩はうつむきながら、両手で髪をかき上げるような仕草をして、しばらく黙ってしまった。やはり、昨日の稗田コーチの一件が美佐姫先輩にとって辛かったようだ。思い出の場所であるここに来て、物思いにふけっていたのかもしれない。

 俺の方から何か言おうと言葉を探していると、美佐姫先輩が、ちょっと昔の話していい? と言うので、ぜひ聞かせてくださいと答えた。美佐姫先輩はブランコのチェーンを両手で抱え込むように引き寄せ、もたれるような姿勢で話し始める。

「私、兄がうらやましかったんだよ。近くで見てるだけの私がこんなに楽しくて嬉しいんだから、いつもその中心にいる兄はどんだけ? って。だから私も、今度は自分の仲間と一緒にやりたいなあって。……女子の部を作って、稗田コーチも巻き込んで、秀煌に勝つみたいな……。映画とか、アニメとかでよくあるじゃん? 部員を一から集めて、強豪に挑むサクセスストーリーみたいなの。きっと私にもできるって思ってた。それで、声かけまくって、女子の靴飛ばし部、作ろうとしたんだ。結局ダメだったけど……」

 以前に竹内から聞いた通りのエピソードだ。映画やアニメなら都合よく人が集まる。でも、それを現実にやろうとすると、美佐姫先輩のような魅力的で行動力の塊みたいな人でさえ難しいらしい。美佐姫先輩は再び「現実はままならないね」とつぶやく。

「何人か一緒にやろうって言ってくれた子もいたんだけどね……なかなか部ができないから、みんな別の部に入っちゃって、部ができたら掛け持ちで入るよみたいに言ってくれてたんだけどね……」

 まあ、それはそうだろう。普通はできるかどうかもわからない部のために自分の高校生活を犠牲にできない。「裏切られた」みたいな話があったが、真相はそういうことらしい。

「兄はやっぱりすごかったってことだよね。大学行ってから死んじゃったけど……」

 浩次郎先輩の死が出てきて、ドキッとした。

「兄が死んだとき、いろんな人が泣いてた。登山中の転落事故だったらしいんだけど、その時一緒にいた兄の大学の友達の人なのかな? 泣きながら『自分があの時もっと気をつけていれば』って自分を責めてたの。私、なんか腹が立って……。そう言っておけば、『そんなことないよ』『君は悪くないよ』って誰かに慰めてもらえると思って言ってるように見えて仕方なかったんだよね。兄の死を自分のいい人アピールに利用してるみたいに見えてすごく嫌だった。なんなの? こっちは家族をなくしてるのに。泣くの我慢してるのに、自分だけ悲劇の主人公みたいな顔して泣いてるの? って……。『そうだよお前のせいだよ!』って言ってやりたかった。さすがに言わなかったけど……。私って嫌な奴だよね。……ごめんね。これ全然関係ない話だった。なんか急に思い出しちゃったから……」

「いえ……」

「言いたかったのは、昨日、稗田コーチに会って、やっぱり私は兄とは違うんだなって。兄みたいに上手くやれないのかもって……ちょっとへこんだ」

「俺から見たら、美佐姫先輩も十分すごいです」

「そうかな?」

「昨日も、稗田さんと話してて、大人とあんな風に話せるなんて、なかなかできないですよ」

「ああ、それはね。私は勝手に稗田コーチのこと家族みたいに思ってたから、怖くないんだよ。兄とコーチは親子とか兄弟みたいに仲良かったから、私もそういうつもりだったんだよね。でも、向こうはそう思ってなかったみたい……。『来るのをずっと待ってたよ』くらいの歓迎ぶりでコーチになってくれるって思ってたから……ちょっとショックだったな」

 俺は、言うべきことを間違ったかなと思って、慌てて別の例を挙げる。

「突然千葉に行こうっていう行動力とか……ミハイル君にもすぐ声をかけたって聞きましたし……」

 美佐姫先輩はうんと頷く。

「『やりたいことがあるなら、その時にやれ。言いたいことがあるなら、その時に言え。その時を逃したら、チャンスはもう来ないぞ!』」

「え?」

「って、兄がよく言ってた。本当にそうだなって思う。言いたいことがあっても、もう言えないんだもん。あいつ自分で証明しちゃった」

「…………」

 やりたいことは、やりたい時に、言いたいことは、言いたい時に……。その時を逃したらチャンスはもう来ない……。

 それがきっと美佐姫先輩の行動力を支えている。そうしないと、相手がいなくなってしまうこともある、永遠にチャンスを失ってしまうこともあると、身をもって知った美佐姫先輩だから、その言葉を大切にしているのだろう。

 それから、何か気持ちが切り替わったのか、「よし」と美佐姫先輩はブランコを漕ぎ出した。いつも通りの綺麗な漕ぎ方だ。

 徐々に高く上がるブランコ。かなりの高さまで上がったところで、今度はスムーズにブランコを止めてみせた。美佐姫先輩の高い技術が詰まったブランコさばき。

 公園にいる他の人達が見ているかどうかわからないけど、素人にはとてもできない美佐姫先輩の華麗な動きに、俺が誇らしくなる。

「タカハシ君」

「はい?」

「話聞いてくれてありがと。おかげでやるべきことが見えてきたよ」

 いつもの美佐姫先輩らしい元気なトーンだった。

「そうですか」

「タカハシ君はね。似てるんだよ。兄に」

「え?」

 俺が浩次郎先輩に似ている? 意外な言葉だ。写真を見たが、俺はあんなイケメンじゃない。

「顔は全然似てないよ」

「……ですよね」

「でも、背格好とか……タカハシ君左利きだよね?」

「はい」

「そんなところまで似てるんだもん。びっくりだよ。兄も左利きだったんだよ。たぶん、部活で使ってる左の靴、兄が使ってたやつじゃないかな?」

 知らなかった。浩次郎先輩も左利きだったとは。確かに、部室にもともと左利き用の靴がたくさんあって、サイズもちょうどいいから練習で使わせてもらっていた。あれは、浩次郎先輩が使ってたものだったのか……。

「ブランコに乗ってるうしろ姿とか、兄にそっくりで、たまに泣きそうになるんだよ。私、もう引退したはずなのに……タカハシ君を見て、もうちょっとだけ夢を見たくなっちゃたんだから。タカハシ君のせいだからね」

 知らなかった。美佐姫先輩がそんな風に俺を見ていたなんて。

「っていうかね。みんなどこか似てるんだよ。竹内君も、小谷君も、ミハ君も。兄とか、その代の人達に。個性があって面白いところとか……。だから、期待しちゃうんだよね。君たちだったらやってくれるんじゃないかって……」

 そして、そのあとこう続けた。

「もし秀煌に勝てるとしたら、今のこのメンバーだと私は思う!」

 美佐姫先輩は「じゃ、私いくね」と、ブランコから立ち上がる。

「私がみんなのためにできること、まだあるから、やりたいことはすぐやらなくちゃ。じゃ! そういうことで!」

 俺の前を走り過ぎながらそう言って、公園を出て行ってしまった。

 あっけにとられた。さっきまで落ち込んで、ここでたそがれていたんじゃなかったか? 泣いていたカラスがもう笑うじゃないけど、切り替えが早い。

『やりたいことはやりたい時に、言いたいことは言いたい時に。それを逃したら、チャンスはもう来ない』

 美佐姫先輩の……いや、浩次郎先輩の言葉が俺の心に残っていた。昨日、稗田さんに何も言えなかった自分を思い出す。あそこで、間違っていてもいいから、取り繕った言葉でもいいから、自分の気持ちをぶつけていたら、どうなっていたのだろう。後悔に似た思いが心の中を通り過ぎた。

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