24

 次の日、グラウンドにはまだ誰もいないと思ったが、いつもの練習場のベンチに美佐姫先輩のデイパックが置いてあるのを見て、嬉しくなった。美佐姫先輩は今日も来ているらしい。隣に竹内とミハイル君のバッグもある。先に来て部室に練習道具を取りに行っているのだろう。

 などと考えている間に部室から練習用の荷物を持った竹内と、ミハイル君と、美佐姫先輩が戻ってきた。「やあ」「ちわー」などとお互いに挨拶を交わす。来ていないメンバーはあと一人だ。

小谷こたには? まだ?」

 小谷こたにと同じクラスの竹内に聞いてみる。

「ああ、小谷こたには今週、週番だから」

「そうなんだ。それで今週ずっとあいつだけ来るの遅いのか。やる気なくて遅いのかと思ってた」

「いやあ、それは小谷こたにに失礼だよ。と言いたいけど……」

 竹内が美佐姫先輩の方を見る。

「うん、小谷こたに君、勝手にパン買いに行ってたりして遅れること多いよね」

「牛丼食べに行ってたりとかね……」

 ほんとにマイペースだな、あいつ……。

 まあ、そろそろ来るでしょ、と世間話をしながら小谷こたにを待っていたが、次にやってきたのは小谷こたにではなかった。

「ハローエブリワン」

 やってきたのは女性教師。

「あ~、先生~~」

 美佐姫先輩がその先生に抱きつく。

「きゃ~美佐姫ちゃん! ああ~かわいい」

 先生も美佐姫先輩の頭をなでつつ頬をすり寄せる。

「みんな、顧問の関根先生だよ」

 美佐姫先輩は先生と肩を組んだまま俺たちに紹介する。知っている。関根マリ先生だ。

 英語の先生で、俺のクラスの授業も受け持っている。親しみやすい先生というイメージだ。昨日、授業の最後、プリントを提出するとき、俺に「高幡たかはた君、靴飛ばし部に入ったんでしょ? 私、顧問だから、よろしくね」と声をかけてくれた。

 関根マリ。マリがどういう字を書くのか忘れてしまった。「真里」か「真理」だった気がする。まあ……聞いたことがあるような名前だが、そういう名前なのだから仕方ない。

「どうしたんですか先生、差し入れですか?」

 竹内が手のひらを差し出して何かくれポーズを取る。

「ごめんね~。差し入れはまた今度。今日は挨拶。次の大会に出る部員がそろったって聞いたから……。え~っと、竹内君と、高幡君と、ミハイル君……あ、ミハイル君、部活どう?」

「はい。部活できて、とても楽しいです」

「よかった。……で、あと一人、小谷こや君がいないけど……」

「先生……小谷こやはもう…………」

 竹内が深刻そうに切り出す。

「え? まさか辞めちゃったの?」

 ここで、タイミングよく小谷がやってくるのが見えた。偶然だが、このタイミングで来るところが小谷らしい。

小谷こやはもう…………」

 竹内がもう一度そう言って、下を向く。先生がこちらに顔を向けたので、俺も深刻そうな表情を作って下を向いた。

「訳あって、昨日からコタニになりました」

「ひゃ! びっくりした!」

 関根先生がひっくり返らんばかりのリアクションを披露する。うしろから急に声をかけたのは小谷だった。関根先生はうしろからの接近に気付いていなかったようだ。

小谷こや君?」

「こんにちは~コタニです……」

「え? どういうこと?」

「僕にはもう、コヤを名乗る資格はないんです……。僕なんて、せいぜいコタニ止まりです」

「よくわからないけど、小谷こや君は小谷こや君じゃないの?」

「さあ、先生『このコタニが!』って罵ってつばをひっかけてください」

「……え、やだよ……」

 関根先生が引いている。

「じゃあ、罵らなくていいので、唾だけお願いします」

 小谷こたにが気持ち悪いお願いを始めた。

「ああ……じゃあ、私、用事を思い出したから……みんな練習頑張ってね。じゃあね、美佐姫ちゃん、また来るから!」

 言い残して、逃げるように関根先生は帰っていった。


 その日の練習で事件は起こった。小谷こたに、いや小谷こやが再び40メートルを飛ばしたのである。俺も、その事件現場を目撃してしまった。

 いつも通り、小谷の靴飛ばしを何の期待もなく見ていた。その時の動きも何がいつもと違うのかはわからなかった。おそらく、靴が足から離れるタイミングが偶然、バッチリ合ってしまったのだろう。

 靴は勢いよく、永遠に落ちないのではないかと思われるくらい長い滞空時間で飛行したのち、前回り受け身を取るように着地した。記録は40メートル40だった。自己ベストを40センチ更新したことになる。もちろん、全国区の好記録である。

 俺がこの部に来て、生で見た靴飛ばしの中で、一番かっこいい飛び方だった。

 俺も素直にそれを小谷に伝えたし、みんなで絶賛し、祝福した。この快挙に、大いに盛り上がった。それがよくなかった。

 そのあとの、小谷こやの調子に乗りようはひどかった。

「な! これが俺の実力だ! 見ただろ?」

 と散々はしゃいだ挙げ句、美佐姫先輩に、

「俺、必ず、先輩を全国に連れて行きます。全国大会の景色を見せるって誓います」

 と、いつになく真剣な顔で言い放った。その表情や言い方から察するに、本気で口説いているつもりなのかもしれない。

 さすがに美佐姫先輩もこれには対応に困っていたようだった。「うん。全国行こうね」と、興奮するペットでもなだめるような言い方で、小谷を……小谷の中の何かを鎮めようとしていた。

 まあ、とにかく、いつも斜に構えている小谷も、いい記録が出て嬉しかったようだ。完全に自分に酔っているのがわかる。ものすごく嬉しいことがあると人間こんな風になっちゃうのかと……気をつけなきゃと思うほど、いつにも増して変な小谷だった。

「これを『小谷こやキャノン』と名付ける!」

 小谷は宣言した。確かにキャノンと呼ぶにふさわしい勢いのある靴の射出ではあった。

 ところが……。忘れないうちにもう一度と勇んでブランコに向かった小谷だったが、足を振り抜いた瞬間、靴はブランコの真下に突き刺さるように放たれ、大きくバウンドしてから自身の足元でパタッとたおれた。

 その後、何度やっても、やはり「小谷キャノン」は発動することなく、同じように、靴が真下に落ちるか、近くに突き刺さるか、真上に上がる。

 しまいには、なぜそうなるのか、頭を大きく振った勢いでメガネが前に飛んで、そのままオーバーヘッドキック的な体勢になったあと靴がうしろに飛ぶという有様。メガネの方がいい記録を出してしまうという小谷にしかできない芸当を披露した。

 そこからは、繰り返すほどだんだん、射出角度に神経質になっていき、勢いがなくなり、大して飛ばないという、いつもの小谷に戻ってしまった。

 その様子を見ていた俺達の輪の中で竹内がつぶやく。

「う~ん……続けば、すごい選手なんだけどなあ」

「うん。ポテンシャルがあることは確かだよね」

 美佐姫先輩も同意する。

 小谷はなおも、ぎこちない動きで、ときおり首をかしげながら、靴飛ばしの実験を続けている。

 すごいのか、すごくないのか……。本当に小谷という男はわけがわからない。

 とにもかくにも、こうして、わずか一日で、「小谷こたに」は「小谷こや」に戻ったのだった。

 翌日、小谷こやの本当の恐ろしさを知ることになろうとは、思いもよらなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る