第534話 依桜がいない生活、そして――

 何が起こったのかわからなかった。


 私は、その光景を茫然と見ることしかできなかった。


「依桜……?」


 突然走って行った依桜を追いかけ、その途中でガシャァァン! という大きな音が聞こえた。


 私たちは嫌な予感がして、さらに走る速度を上げた。


 そして、そこで見てしまった。目にしてしまった。


『おねえちゃん! おきてよおねえちゃん!』


 血だまりに倒れるボロボロになった依桜の姿を。


「ねぇ、嘘でしょ……? ねぇ、ねぇ!」


 私は大慌てで倒れている依桜に駆け寄る。


「依桜! 起きて! ねぇ、起きてよっ……!」


 自身の手が血で汚れるのを厭わず、私は依桜を揺さぶりながら声をかけ続けた。


 本来なら、大怪我をしている人間を揺さぶるのはダメなことだろう。


 だけど、そんなこと、この時の私の頭の中にはなかった。


「ねぇ、ねぇ! 起きてよ! 起きてってばぁ!」


 返事は……ない。


 目は開いている、口も、小さくだが呼吸をしている。


 だけど、体はボロボロだ。


 ところどころ骨が折れているのだろう、見るのも痛々しいほどに、曲がってはいけない方向に曲がっていた。


 服も破けている個所があり、そこからも血がどくどくと流れていた。


「やめてよ……依桜、起きてよ、起きてよぉっ……!」


 ぼろぼろと、熱い物が私の瞳から流れ出す。


 ぽたり、ぽたり、と涙が零れ、汚れてしまった依桜の頬に落ちる。


 なんで、なんでなんでなんで……!


「依桜っ……!」


 嫌だ。嫌だ、嫌だ!


 大事な幼馴染を失いたくない、大好きな人を失いたくない、そんな気持ちが私の胸中を支配する。


 なんでこんなことになったのか、わからない……。


 原因は、車だろう。


 それはわかる。


 でも、それだけしかわからない。


 近くでは、泣きそうになっている子供がいた。


 依桜はきっと、あの子供が車に轢かれそうになっていると理解して、飛び出したんだろう。


 依桜らしいと思う反面、どうしてそれを私たちに言わなかったのか。


 ……ううん、わかってる。


 依桜は、話している暇なんてないと思ったからああしたんだ。


 だけど、いきなりこんなことになるなんて思わないわよっ……!


「ついさっきまで、一緒にアイスを食べてたじゃない! みんなと一緒に話してたじゃない!! なのになんで……なんで!!!」

「未果、落ち着け!」


 突然のことに取り乱す私を、晶が嗜める。


「でもっ!」


 振り返ると、そこには晶たちがいた。


 晶は必死に気持ちを落ち着かせようとして、失敗したような表情で。


 女委はいつになく真剣で、同時に今にも泣きそうになっている表情で。


 態徒は必死に泣きそうになるのを堪えた様な表情で。


 エナは、涙を溢れさせながらも冷静になろうとしている表情で。


 鈴音は、ぼろぼろと涙をとめどなく溢れさせつつも、真っ直ぐにこちらを見る顔で。


 全員が全員、この惨状を見て、冷静になろうとしていた。


「今さっき、女委が救急車を呼んだ。あと、俺の方でもミオさんに連絡をした。だから多分――」

「おいおい、どういうことだよこれは……」


 晶の言葉を遮るようにして、この場に別の声が聞こえてきた。


「なぁ、おい、なんでイオがこんなことになってんだよ? 何があったんだよ!?」

「ミオさん……」

「おいバカ弟子! お前まさか危険なことに首を突っ込んだってのか!? クソッ、こんなことならあんなことは放置して……いや、落ち着け、落ち着けあたし……。まずはこいつの治療、そうだ。治療だ。……ふぅ……見られても消す」


 今まで一度も見たことがない、酷く狼狽えた様子のミオさんの姿。だけど、ミオさんはすぐにクールダウンすると、依桜に白く温かい光を当てていた。


 それは依桜の体に深く入り込んでいき、次第に折れた腕や足が徐々に元に戻っていく。


 だけど、その光景は途中で止まることになる。


「ミオさん?」

「……とりあえず、こんな大事だ。完璧に治したら厄介だ。とりあえず、死は回避できたと思うが……」

「じゃあ、依桜は助かるの……?」

「……あくまでも、命は、な」

「え……」

「とりあえず、救急車は呼んでるんだろう? まずは、それを待つ」

「……わかったわ」


 ミオさんがなぜ完璧に治さなかったのか、それは簡単なことだった。


 つまるところ、依桜の気持ちを尊重し、尚且つ魔法がバレるのを防ごうとしたんだろう。


 これほど大きな事故。


 無傷なんて絶対にありえない。


 そうなると、依桜に望まない状況を与えてしまうと考えたんだろう。


 依桜なら間違いなくそうするかもしれないけど……。


「……完璧に治すのは、病院に行ってからだ」


 それでも、治すとそう告げたミオさんの表情は……どこか険しかった。



 その後、依桜は現場に駆け付けた救急隊員によって救急車で緊急搬送されていった。


 場所は近くの病院だ。


 付き添いとして、私とミオさんが同行することになった。


 救急隊員の人も言っていたけど、あの規模の事故で命に別条がないほどに抑えられていたのは奇跡だと言っていた。


 本当はミオさんが魔法か何かで治したのだけど、それを言う気はない。


 ほどなくして病院に到着し、すぐに手術室に依桜は運び込まれていった。


 しばらく待っていると、晶たちも合流。


 手術室の前で私たちは待った。


 数時間以上経過した頃、ふと手術室のランプが消え、中から医師が出てきた。


「……あの、依桜は、依桜は大丈夫なんですか……?」

「はい。無事に手術は成功しました」


 医師のその言葉に、私たちは揃って安堵した。


 だけど、その後に続く言葉に、私たちの気持ちは再び降下する。


「ですが……意識が戻らず……」

「ど、どうして、ですか?」


 意識が戻らない。


 その言葉に、私はそう尋ねることしかできなかった。


「原因は不明で……脳に異常はないはず、なのですが……」

「……それは本当か?」

「はい。脳波についても正常であり、体の機能も問題はない、のですが……どういうわけか、意識だけが戻らず……正直に申し上げますと、このまま意識が戻らない可能性も考えられます」

「そ、そんなっ……」


 そう言われて、私はその場に崩れ落ちた。


 意識が遠のくような感覚が私を襲う。


 周囲の音が消え、私だけがそこにいるような気さえする。


 依桜の意識がない。


 その状況が、今の私にとって最悪の状況だった……。



 それからというもの、依桜は手術後直ぐに入院する運びとなった。


 事故から一週間経っているけど、全く起きる気配はない。


 ちなみに、依桜の体は既にミオさんの手によって問題ないくらいに完治している。


 ただ、意識だけはなぜか戻らないと、ミオさんも険しい顔をしていた。


 私たちは毎日のように病室を訪れては、依桜の様子を確認する。


 この事故は、依桜の家に多大な影響を及ぼした。


 まず、おじさんやおばさん。


 おじさんよりもおばさんが酷かった。


 病室で眠る依桜を見て、縋りつくように声を上げて泣いていた。


 おじさんは私たちの前だったからか、涙を堪えようとして、だけど堪えられなくて、静かに泣いていた。


 中でも一番酷かったのはメルちゃんたちだ。


 異世界での出会いで、依桜はメルちゃんたちから心底慕われていた。


 毎日ちょこちょこついてきては、依桜と嬉しそうに接する姿は私たちから見てもとても微笑ましいものだったし、依桜の笑顔もすごくよかった。


 特に、ニアちゃんたちなんて依桜が命の恩人である以上、依桜に対する愛情は人一倍だろう。


 それはもう、泣き喚いた。


 小さな女の子たちが依桜のすぐそばで泣いている姿が、私たちには胸が痛くなる光景だったし、私たちも釣られて泣いてしまった。


 メルちゃんたちが近くで泣いているのに、依桜は起きなかった。


 普段からドシスコンだとからかわれるほどに、妹大好きな依桜が起きなかった。


 いよいよもって、これはまずい状況であると、私たちは知らしめられた。


 このまま起きない可能性がある、そう医師に言われたが、それが現実になってしまうのではないか、そんな気持ちばかりが先行してしまう。


 マイナスなことを考えちゃいけない、とはわかっている。


 だけど、そんなことはあくまでも考えだけだ。


 感情はそうもいかない。


 ひたすらに辛いだけだ。


 依桜がいない生活は、そこにぽっかりと穴が空いたような虚しさがあった。


 以前の並行世界へ巻き込まれた時とは違う、そんな状況。


 あの時ですら私たちの精神は摩耗して行ったのに、いつ意識が戻るかもわからない状況に、私たちの精神はさらに酷く摩耗していく。


 そんな中、一番強かったのは女委だろう。


 女委だけは、普段通りに明るく振舞った。


 いつものように、ふざけた言動をし、ふざけた行動を取り、私たちを元気づけようとしていた。


 そんな女委が、私たちにとってはありがたかった。


 本当なら、今すぐにでも泣き出したいはずなのに、私たちを気遣って色々してくれている。


 それがたまらなく嬉しかった。


 おかげで、全員の精神は壊れずに済んでいる。


 そして、学園でも色々と影響が出ている。


 依桜は生徒会長。


 仕事が滞ってしまっているが、そこは副会長がなんとか頑張っているらしい。


 だが、依桜の交通事故による意識が戻らない状況というのは、生徒会の士気に影響したようで、従来よりもかなりスピードが落ちているとのことだった。


 あとは、他の生徒たちのやる気が落ちたこともあるかもしれない。


 依桜の存在は、本人が思っている以上に大きい。


 正直、たった一人が与える影響じゃない、なんて思って思わず苦笑いを浮かべてしまうが、依桜らしいとも納得してしまう。


 でも、次第にこの状況も少しは落ち着くと思う。


 依桜が美少女になってからは、かなり濃い日常だった。


 依桜はひたすら目立ったし、学園で一番の有名人でもある。


 世間でかなりの有名人が亡くなったとしても、割とすぐに何もなかったようになる。


 それと同じことになるのは目に見えてるし、何よりそうなってほしい。


 意識を失っている状況でさえ、目立っているのは可哀そうだし、あの娘は自分が理由で他の人たちに落ち込んでほしいとは思わないから。


 小さい頃からの付き合いな私だから、そう思える。


 そして、今日も今日とてお見舞い。


「入るわよ、依桜」


 そう声をかけてから、私は中に入る。


 もちろん、返事はない。


 病室に入ると、そこには静かに寝息を立てている依桜の姿があった。


「今日も来たわ。なんというか、あなたはまだ寝てるのね」


 今日のお見舞いは私だけだ。


 他のみんなは用事があるようで、そちらを優先している。


 本当はこちらに来たがったそうだけど、どうしても外せないそうだ。


 なら、代わりにと私がみんなを代表して来ている。


 寝ている依桜の顔にかかる前髪を少し払い、眠っている依桜の顔を見つめる。


 傷はない。


 どこにも、事故があったと思わせるような怪我もない。


 だけど、なぜか意識は戻っていない。


 理由はわからない。


「……あなたはいつ、起きるのかしら。みんな、待ってるのに……」


 苦笑いを浮かべながら、依桜の頭を撫でる。


 しかし、何も反応がない。


 いつもだったら、顔を赤くして恥ずかしがるのに、今は表情が何一つ変わらない。


 そこにあるのは、眠る依桜の顔だけ。


 身じろぎや寝返りさえない。


 ただただ、深い眠りについているだけだ。


「……私は、いつまでも待つわ。みんなだって……あなたがいないなんて、退屈だもの。女委風に言うなら、そうね……二次元みたいな最高のTS美少女がいないなんて、世の損失だぜ! ってところかしら」


 冗談めかして言っても、依桜からの反応はない。


「はぁ……やっぱり今日もダメ、か。いつになったら、またあなたに会えるのかしら……」


 依桜の意識は未だ戻らず。



 それから依桜の意識が戻ることを願いつつも、どんどん月日は流れていく。


 気が付けば十一月も終盤に差し掛かり、その間に体育祭も終えている。


 なんだか盛り上がりに欠けていたが、それでも楽しくできてはいただろう。


 相変わらず依桜が起きる気配はない。


 一ヶ月も経ったと言うのに、気配すらないのだ。


「依桜ちゃん……」


 今日は、たまたまオフだったエナと一緒だ。


 エナはアイドルだから、スケジュールという物がある。


 しかも、数ヵ月前から予定があるなんてざらで、いきなり休むことなんてできない。


 だから、私たちのグループの中で、一番依桜に会いに行けない人物でもあった。


 だけど、そこへ来るたびにエナは毎回毎回花を持ってきて、それらを病室に飾る。


 病室に来る度に、エナは悲しそうな表情を浮かべる。


 私はほぼ毎日来ている。


 というか、依桜の病室には毎日人が来る。


 いつ起きてもいいように、そう言った配慮によるもの。


 全員で来るとさすがに申し訳ないので、一日に最大で三人は来るようにしている。


「エナ……」

「うち、依桜ちゃんとは出会ったばかりかもしれないけど、すっごく大切なお友達だよ。でも、そんなお友達がこうしてずっと眠ってるのは……辛いよ」


 いつもは天真爛漫なエナですら、こうして悲痛な面持ちになる。


 一ヶ月も経ったことにより、学園ではそこまで士気が落ちている、ということはなくなった。


 みんな、依桜がいない生活に慣れたのだろう。


 だけど、依桜と関係が深い人たちは……そうはならなかった。


 全員がどこか上の空になっていることが多くなった。


 私もそうだし、晶や態徒、女委に、エナ、鈴音もそうだし、学園長だって。


 メルちゃんたちも、普段はあんなに元気いっぱいなのに、今は元気が無くて、友達に心配されていると聞いた。


 ミオさんは……依桜があんなことになってからなのか、時たまふらりとどこかへいなくなる。


 あの人に限って、依桜を見捨てるようなことはしないと思うから、多分この世界や異世界を回って情報収集をしているんだろう。


 だけど、成果は芳しくないようで、苛立っている様子をよく見かける。


 なのに、授業は普段通りなんだからあの人は強いと思う。


 依桜は、まだ起きない。



 さらに月日は流れ、十二月。


 クリスマス、何か奇跡が起きて依桜が起きるのではないか、そう思ったけど、依桜が起きることはなかった。


 いつもなら、依桜の家でパーティーでもやっているところだけど、今の依桜は意識不明の状態。


 そんなこと、できるわけがない。


 日常に変化はなく、いつも通りと言えるのだが、同時に何も進んでいないとも言える。


 もし、このままだったらと思うと胸が張り裂けそうになる。


 あの時、なぜ動かなかったのか。


 自分でもわからない。


 みんなだって、動かなかった。いや、動けなかった。


 理由なんてわからない。


 いつものように、依桜なら大丈夫だと思ってしまったのかもしれない。


 傲慢だ。


 そう言えば、あの一件はかなり酷い事故という事で、地元どころかテレビや新聞に載った。


 原因は、法定速度を無視した男による危険運転だった。


 世間からは非難が上がったし、依桜の家、つまり男女家には多額の賠償金を払うことになって、かなり酷いことになっているようだ。


 私たちからすればざまぁみろとしか言えないし、思えない。


 悪いのはすべて向こうなのだ。


 私たちはその男に対してかなりの殺意が湧いた。


 車から出てきた男が、これと言って悪いと思うような様子が無かったからだ。


 ……ただ、その場にいたのがミオさんだったのが、男にとって最悪な状況だっただろう。


 その男は、出てくるなりどこかに電話していたのだ。


 しかも、大して悪いことをしたという自覚がなかった。


 相手からすれば、軽い間違いをしてしまった程度の認識だったに違いない。


 だが、その姿をミオさんの前で見せてしまったのはまずかった。


 男はミオさんの手によってかなりボロボロにされ、しかも呪いまでかけられていた。


 内容は……なかなか惨いので言わないでおく。


 それとは別に、依桜に助けられた男の子の両親が依桜の病室を訪れ、ずっと謝罪していた。


 しかし、そこは依桜の両親と言うべきか……依桜の性格をよく理解しており、むしろ男の子が無事だったことを喜んだほどだ。


 そもそも、悪いのは危険運転をしていた男の側。


 もともと、男の子の両親は非難される覚悟で来たそうだ。


 そうならなかったことに、そして、子供の無事を喜んだことに、涙を流して感謝し、謝罪していた姿は、こちらも嬉しいと思う反面、ちくりと胸に棘が刺さったような気分になった。


 こちらは、大事な幼馴染の意識が戻っていないから。


「……やっぱ、ダメか」

「そうだな……」


 今日は晶と態徒が一緒だった。


 二人は、未だ眠る依桜を見て、まだ起きそうにないことに落胆の色を見せる。


「……まさか、こんなことになるなんてよ」

「まったくだ……」


 二人は言葉少なに依桜見つめる。


 一考に起きる気配がないその状況が、私たちの心に大きなダメージを与える。


 辛い。


 もしも変わってあげられるのなら変わってあげたい……。


 依桜は、散々向こうで苦しんだはずなのに、未だにこんな目に遭わなきゃいけないなんて、酷すぎる……。


 依桜が何をしたと言うのか。


 なんで、依桜がこんな目に遭わなきゃいけないのか。


 思わず世界を憎みそうになるが、なんとか心を元に戻す。


「……未果から見ても、特に変化はないのか?」

「えぇ……ほぼ毎日来てるけど、一向に変化はないわ……。強いて言えば、髪が伸びてきたことくらい、かしら」


 依桜が事故に遭ってから二ヵ月。


 毎日寝た切りの生活をしていた依桜の髪は気が付けばそれなりに伸びていた。


 もともと目元に軽くかかるくらいだった前髪が、今では顔の半分以上を隠せるほどに伸びていた。


 それだけ寝ているという現実を否が応でも突きつけられる。


「……ミオさんはどうよ?」

「家を空けることが多くなったって。それと、お酒を飲まなくなったとも」

「そこまで、なのか」

「えぇ……」


 依桜が与えた影響は大きい。


 今日も今日とて、依桜が起きる気配はない……。



 そうして、遂には一年が終わり、新しい一年がやってきた。


 今日は元日。


 本来なら初詣をするところだけど、そんな気分にはなれなかった。


 だから、私と女委、エナで依桜のお見舞いにやってきた。


「……あれ?」


 病室の扉に手をかけると、何かに気付き動きが止まる。


「どうしたの? 未果ちゃん」

「いえ、なんか、中から物音が聞こえたような気がしたんだけど……」

「え、ほんとっ!?」

「聞き間違いかも知れないけど……」


 でもなんだろう、今の音は。


 そう疑問に思いながらも、私たちは病室に入った。


 そこでは、相変わらず依桜が寝ていた。


 だけど、どこか変化があったように思える。


「……あれれ? ねぇ、依桜君のかけ布団、少しずれてないかな?」

「「え?」」


 女委に言われて、依桜が眠るベッドを見つめる。


 すると、確かに布団の位置がずれている気がした。


 意識がない状態の依桜は、仰向けに寝ており、身じろぎ一つすらなかった。


 なのに、なぜか布団がずれている……これは、どういうことだろうか?


 そう思った直後。


 ごそごそ……。


「「「え!?」」」


 不意に、依桜の体が動いた。


 もぞもぞと動き、そして依桜の上半身が起き上がる。


「「「依桜(君)(ちゃん)!?」」」


 いきなり動き出した依桜に、私たちは思わず名前を叫びながら依桜に近づく。


 近づくと、依桜は目を閉じたままじっとしていた。


 もしや、夢遊病に似た何かが? と思ったのも束の間、徐々に、徐々に依桜の瞼が開く。


 その先に覗くのは蒼の瞳だった。


「依桜……? 私よ、未果よ? わかる……?」

「女委ちゃんだぜ! わかるかい、依桜君!?」

「エナだよ! うちのこと、わかるかな?」


 瞳を開いた依桜に、私たちは思い思いに声をかける。


 自分のことがわかるか、と。


 そして、依桜がこちらを向き、口を開く。


 依桜の口から零れた言葉は――


「申し訳ありません。あなた方は、どちら様でしょうか……?」


 ――私たちのことがわからないことを意味する、そんな言葉だった。



 一月一日、元日。


 その日、依桜は意識が戻ったものの、同時に記憶を喪っていた……。

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