第93話 組手をしたはずなのに……

「おーっし、じゃあまずは、軽く準備運動からだな」


 師匠の機嫌が、すごくよさそうなのは、気のせいだと思いたい。


「じゅ、準備運動とは……?」

「あー、そうだな……ま、とりあえず走り込みするか」

「……どれくらいですか?」


 普通、走り込みは準備運動とは言わない気がするけど、師匠の中では準備運動なんでしょう。多分。

 ……嫌な準備運動。


「ま、とりあえず、あの円一周を全力ダッシュだな」

「し、師匠、全力ダッシュはまずいです」

「あ? なんでだよ?」

「いや、その……今のボクが全力で走ったら、誰かにぶつかった際、その人が死んでしまいます」

「んなもん、気を付けりゃいいだろ」

「そ、それに、ボクはこっちの世界ではあまり目立ちたくないんです! 全力で走ったら、300メートルの世界記録を更新しちゃいますよ!」


 塗り替えられているのかどうかは知らないけど、たしか……30秒81だったはず。

 ボクの場合、それの三分の一以下で走れそうだもん。

 そんなことをしたら、変に注目が集まっちゃうし、熱伊先生辺りが報告しちゃいそうで怖いんだよ。


「ふむ……だから何だと言うんだ?」


 師匠には、ボクの気持ちが伝わらないようです。

 ……ボクと師匠のこの価値観の違いですよ。


「いいですか、師匠。この世界において、目立つと言うのは、向こうとは全く違うんですよ」

「ほう? 例えば?」

「まず、下手に目立つと、特定班と呼ばれる人たちによって、住所などが特定されます」

「それで?」

「住所が特定されると、わけのわからない人たちが家に押しかけてきます。それは結果的に、師匠のところにも来ますし、父さんや母さんにも迷惑が掛かります」


 さすがにこれは言い過ぎかもしれないけど、炎上した人とかは、この特定によってかなり精神的に追い詰められる人も多い。

 と言っても、ほとんどは悪いことをしたことに対する代償だけどね。


 でも、有名な人なんかは、異常な執着心を持ったファンが、執念だけで住所を特定してきて、最終的にストーカーになるって言う、恐ろしい事件もあるし。

 ……さ、さすがに、有名人じゃないボクがバレることはない……と思いたいなぁ……。

 ボクの写真が世間に出回っちゃってるし……。

 で、でもまあ、まだ完全に特定されたわけじゃないですし? 大丈夫……だよね?


「なるほど。たしかに、それは困るな……。しかたない。軽い打ち込み程度にしておくか」

「……うーん、それはそれで問題があるような気がしますけど……大丈夫、かな?」

「おっし、そうと決まれば、さっそくやるぞ」

「わ、わかりました。それで、打ち込みって何をすれば?」

「ああ。とりあえず、一発殴ってこい」

「……え、師匠をですか?」

「当然だろう? ほかに誰がいるんだ?」


 す、すごく嫌だ……。

 攻撃すること自体が嫌だというより、師匠が何かしらの手段で反撃してきそうで怖いんだもん。


 打ち込みとか言うけど、一般的な人が思う打ち込みというのは、サンドバッグに拳打を入れたり、ムエタイなどのミット打ちのようなものをイメージすると思うけど、師匠の場合は違う。


 まず、ボクが右ストレートを繰り出して攻撃したとします。

 その際の師匠がとる行動は、大きく分けて二つ。


 一つは、単純に避けるだけの場合。

 この場合は、ボク自身に何のダメージもないので、気にする必要性がない。


 でも、二つ目は場合によってはかなり危ない。

 避けつつ反撃してくるからね。


 避けると同時に、裏回し蹴りを背中に入れてくるか、避けると同時に攻撃を繰り出していた右腕を掴まれて、そのまま回転させられ、投げ飛ばされるの二つがある。


 この場合、背中に裏回し蹴りを入れられた方が、まだマシかもしれない。

 普通の人だったら、軽く即死するレベルの蹴りだけど、ボクの場合は死なない程度に済ませることができる。

 ……まあ、本気の裏回し蹴りが来たら、普通に心肺停止に陥っちゃうけど……。


 もう一方の、回転させられてからの投げ飛ばしは……本当に死ぬかと思いました。


 イメージ的には……範馬〇次郎の人間ヌンチャクが近いです。


 本当に残像が見えるレベルの速さで回転させられ、その勢いを保持したまま投げ飛ばされるのは、恐怖でしかなかったです。


 あと、その……胃の中が、ね。限界を迎えて、逆走しそうになっちゃう……というか、修業時代、本当に逆走しちゃいましたけどね……。


 師匠は手加減を知らないんじゃないか、って疑っちゃうけど、なぜか相手に合わせた攻撃ができるんだよね……。


 ちゃんと相手の防御力に合わせた攻撃をしてくれるので、死んでしまうことはない。


 なので、ボクが師匠の攻撃を喰らっても死なない……なんてことがあるわけではなく、何度も殺されています。※ 具体例は、第86話を参照。


 どうやら師匠は、ボクにだけは手加減してくれないようです。

 依頼された場合は違うけど、どんな悪人でも、殺すことはないんです。師匠って。

 あくまでも、瀕死か半殺しのどちらかで納めている場合が多いです。

 無駄な殺生はしないと言っているけど、ボク、普通に殺されてるんですけどね……。


「さあ来い!」


 うわぁ、バッチリ身構えちゃってるよぉ……。

 これ、どう考えてもやらないといけないやつだよね。


「わ、わかりました。……行きますよ!」


 そう言って、ボクは地を蹴り、師匠に肉薄。流れる様な動作で、右手で拳打を放つ。

 師匠は避けるそぶりを一つも見せず、ただ左手を前に突き出すだけだった。


 拳打と、手のひらが衝突した瞬間、バシィィィンッ! という音が、辺り一帯に鳴り響いた。

字面だけ見たら、ハイタッチか何かをしたかのような効果音かもしれないけど、直接聞いているボクからしたら、そんな生易しいものではない。

 明らかに音量が桁違いだ。

 衝撃波が出ているんじゃないかと思えるほどの音。

 そしてはたと気付いた。

 ……あれ、力の制御を間違えてしまったような……?


「ふむ。目立ちたくない、と言ったのは……どこのどいつだったかな?」


 ……あ、終わった。

 師匠はお説教(という名の、お叱りモード)に入ると、なぜか口調が柔らかくなります。

 そして今回。その師匠の口調が出ているということは……。


「しかも、なかなかにいい一撃だったぞ? 弟子」

「あ、あは、あははは……あ、ありがとう、ございます……」

「これくらいの一撃を入れられるなら……準備運動は、いいよな?」

「……え?」

「よーし、久しぶりに組み手と行こうか」

「いやいやいやいや! 組み手なんてしたら、死んじゃいますって!」


 主にボクが!

 それと、師匠と組手なんてしたら、それを見ている周りにいるであろう、格闘大会に出場する人の心を折りかねないよ!

 同じ西軍とはいえ、さすがに心を折るのは不本意だよ。


「あ? あたしの言うことが聞けないって言うのか?」


 ……誰か助けてぇ……。


「お前が、あたしに勝てるものがあるか?」

「生活力ですね」


 即答した。


 師匠のおかげで、あの一年間でかなり家事スキルが高くなりましたよ。料理とか、無駄な動きが減って、洗練されましたよ。同時並行で複数の料理を作ることもできますよ。

 あと、掃除だって、無駄な知識ばかりがついてますよ。洗濯もです。


 仮に、100人単位でお世話しないと! ってなった時でも、今のボクなら対応できるんじゃないか、と思えるような状況ですよ!


「……ふむ。たしかに、お前の生活能力は高い。だが、それがあんさ――んんっ! 戦闘に何の役に立つというんだ?」


 また、暗殺って言いかけてたよね? しかも、言い直したのが、戦闘って言うのもどうかと思うんです、ボク。


 現代で、戦闘なんて言う人はなかなかいないよ。

 いても、それは映画の中とかアニメの中とかだけだよ。大体は、『戦闘』じゃなくて、『試合』だよ。


「体を作るなら、バランスのいい食事が必要ですし、清潔な空間で快適な生活を送って、疲れを癒すことですね」

「……んなもん、気合で何とかするんだよっ!」

「え、えぇぇ……?」


 もうこの人はわけわからないよぉ……。


「御託はいいから、さっさとやるぞ!」

「ほ、本気ですか……?」

「ああ? やるからには本気……と行きたいが、あたしたちの場合の本気ってのは、身体強化を最大限にまで施した状態のことを言うからな。まあ……3、4割くらいでいいだろ」

「……それでも、それなりに問題があるような?」

「いちいち細かいこと気にするんじゃねえ。ほら、構えろ」

「わ、わかりましたよぉ……」


 こうなってしまったら、ボクが拒否し続けるのは無理です。

 仮に、ここで拒否し続けた場合……最悪、遺体が一つ増えることになります。

 渋々……嫌々ながらも、ボクは構えた。



「おっし。それじゃあ行くぞ。……始め!」


 ミオの合図で、依桜とミオの組手が始まった。

 ミオを相手にする場合、まずとるべき行動は先手を打つこと。

 後手に回ると、一瞬で負けてしまうからだ。


「はぁ!」


 それを痛いほど理解している依桜は、開始の合図とともに、ミオに肉薄し、右回し蹴りを側頭部めがけて放つ。

 が、


「甘い、甘いぞ弟子よ!」


 それをいともたやすく、左腕で受け止める。


「師匠が受け止めるのはわかってますよ!」


 依桜は蹴った勢いを使って、空中で回転。そのまま、左足での蹴りに移行し、今度は頭頂部に入れる。


「おっと。ほぅ、以前のテストの時はあれだったが……今回はいい動きをするな」


 が、その蹴りは空を切り、師匠は後方に飛びずさって回避。

 以前の時よりは、まともな動きをしていると、依桜を褒める。


「……前回は、師匠が変なスキルを使ってきたから、動揺しちゃったんですよ!」


 次に動いたのも、依桜だ。


 攻撃の隙は与えないと言わんばかりに、ミオに接近し、攻撃を仕掛ける。

 依桜が右手で掌底を入れようとすれば、ミオはそれを受け止めずに、後方に逸らし、背中に回し蹴りを叩き込みに来る。

 もちろん、依桜もそれが来るのを理解しているので、すぐにバク中で躱し、すれ違いざまに首めがけて手刀を入れる……が、これも受け止められる。


 だが、それでも依桜は攻撃を緩めることはしない。

 受け止められた直後には、すでに蹴りを放とうとしていた。

 もちろん、これは受け止められることを前提としたものだ。


 師匠ならこう来る、という今までの経験からの予測をし、ミオが依桜の予想通りに動く――かに見えた。

 ミオは受け止めるのではなく、一瞬だけ軽いバックステップで回避した後、振り終わりを見計らって、再度接近。

 そのまま、


「やはり、甘いぞ」

「――うぐッ!」


 素早くも鋭い掌底を依桜の腹部に叩き込んでいた。

 動きが速すぎて、防御が間に合わず、もろにダメージを受け、後方に吹き飛ばされる。


 まあ、そこは一年、地獄の修業を耐え抜いた依桜である。

 ミオの宣言通り、4割程度威力に抑えられていたため、何とか思考を乱されずに済み、受け身を取りつつ地面に着地。


「ふむ。おそらく、あたしが受け止めるのを予想したのだろうが、まあ、弟子の考えを読めないあたしじゃない。どうせ、蹴りの勢いを利用して、距離をとろうとしたんだろ?」

「……まあ、師匠じゃバレますよね」

「そりゃそうだ。一年とは言え、毎日お前を鍛えてやってたんだぞ? 分からないわけないだろ」

「はぁっ、はぁっ……4割くらいとはいえ、かなり痛いですよ、師匠」


 事実、依桜の額には痛みによる脂汗が出ていた。

 そもそも、ミオの4割は、大体直径半径10メートルほどの岩を砕けるほどである。

 それを喰らってもかなり痛い、で済む依桜の頑丈さも大概である。


『は、何あれ……やばくね?』

『ヤバイってもんじゃねえだろ。どう見ても、人間の動きをしてない気がするんだが』

『というかよ、人が吹っ飛ぶレベルの攻撃喰らって、かなり痛いはおかしくね……?』

『依桜ちゃんすごいけど、ミオ先生もすごくない……?』

『……うん。動きが速くてほとんど見えてないけど、すごいってことだけはわかるよ』


 とまあ、依桜とミオによる組手を見ている、周囲の生徒はこんな反応だった。

 ちなみに、未果たちの場合は。


「依桜が全然敵わない、とか言っていたが……たしかに、あれはすごいな。本当に必要最小限の動きで躱して、攻撃してるぞ」

「さすが、武術の有段者。やっぱりわかるの?」

「そりゃまあ……。でもよ、あれを見てると、なぁ? オレ、出る必要ないんじゃね?」

「……そうだねぇ。人外じみた動きを平気でこなす依桜君だもんねぇ。あれ、学園祭の時よりも速くない?」

「一応、テロリストとはいえ、あくまでもちょっと強い一般人、くらいの認識になるからな、依桜は。確実に手加減していたんだろ」

「でも今、4割っつってたよな? てことは……まだ上があるのか」

「我が幼馴染ながら、末恐ろしいわね」


 以前のテロリスト襲撃事件を間近で見ていたこともあって、ほかの生徒よりは落ち着いている。

 だが、動きがそもそも、人間がするようなものじゃないレベルであるため、その辺りは驚いている様子である。


「まあ、これくらいなら合格点ってところだな。これをテストの時にやってればなぁ」

「そうは言いますけど、あくまでも何も使わない状態での組手だから、ここまでできているだけであって、全ての使用があり、なんてルールだったら、ボクなんて一瞬で負けてますよ」


 周囲からすれば、依桜が言う、名にも使わない状態、というのは武器のことを指していると思うのだろうが、ここで依桜が言っているのは、武器というより、能力やスキル、魔法と言ったものだ。


 前回は、それらもありだったため、ほとんど一瞬で勝負がついたが、今回は、純粋な身体能力だけのものなので、依桜でも、ある程度は張り合えているというわけである。

 ……もっとも、


「まあ別に、あたしは何も使わない、とは言ってないがな?」

「……え?」

「それじゃ……これであたしの勝ちな」


 そう宣言しながら、師匠は一瞬で依桜の目の前に現れ、上段から常人には見えないレベルの速度で手刀を繰り出してきた。


 先ほどの、ミオの言葉の意味を理解するのに反応が遅れた依桜は、焦って後ろに飛びずさった。

 その際、その手刀が依桜の体操着に掠り、

 ハラリ……


「……………………ふぇ?」


 一体何回に及ぶ手刀をあの一瞬で繰り出していたのだろう。

 その手刀は、見事に。本っっ当に見事に……依桜の体操着を切り刻んていた。


 しかも、最高(依桜にとっては最悪)なことに、まさかのブラジャーの方にまでそれが及んでしまい……。


「ぁ、え? …………き、ききき……きゃあああああああああああああああああっっっ!」


 まさかの上半身裸になってしまうという、思春期男子、並びに学園にいる同性愛者的な女子生徒たちにとっては、まさに嬉恥ずかしのハプニングが発生!


『『『ありがとうございますっ!』』』


 あらわになった、依桜のGカップの巨乳を下着越しではなく、生の状態で見たとあって、その場にいた生徒全員が、お礼を言いながら、鼻血を噴き出し倒れると言った事態が発生!


 唯一、この場でそんな状況に陥らなかったのは、すぐさま目をさらした晶と、ハプニングの原因となったミオだけだった。


 依桜は自分の服がバラバラになったと知覚した瞬間、自分の体を掻き抱くようにして隠した。

 ……もっとも、そこにはタイムラグがあったため、バッチリ、依桜の真っ白で柔らかそうで、大きな胸の中央にある、桃色のあれも見られてしまったわけだが……。


 そんな中、晶は、


「……あとで、フォローしないとな」


 と思い、諸悪の根源は、


「……あ、やべ」


 このとんでも事態に、冷や汗を滝のように流していた。

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