2 黒蝶の男

Brenhines y Lleuad月の子よ


 祈りを捧げていると、後ろから急に声をかけられた。

 知らない言葉。知らない声。でも、柔らかくて優しくて、懐かしく感じる。


「なあ、君はいつもそんなことしてるのかい?」

 

 次に知っている言葉で話しかけられて、それが空耳では無いと気付く。

 驚いて、頭を上げた私は声の方を振り向いた。


「黒い髪……」


 耳にかかるくらいの長さで切りそろえられた黒髪は、緩い波を描いている。

 細身で背が高い見慣れないその男は、私の方へ近付いて来た。

 扉を開く音を聞き逃してしまったのだろうか。

 彼の、獣を思わせるような金色の瞳と目が合った。


「いつもそうして床に頭を擦りつけてるのかって聞いてるんだけど?」


 少しだけ吊り上がった目を細めて、彼は優しげに笑った。


「あの……はい」


「疲れるでしょ?」


 彼は私の前まで来ると、腰を落として手を差し出す。

 死人みたいに白い肌。

 思わず手を取って、目の前にいる彼の端正な顔立ちをまじまじと見る。

 人懐っこい笑みを浮かべている彼の口元には、鋭く細い犬歯が顔を覗かせている。

 胸元が派手に開かれた黒い服からは貧相ではないが、たくましすぎもしない胸板が見えていた。

 黒い脚衣から覗く華奢な腰部分には、熟れた太陽の実りんご色をした布が結ばれている。


「俺は、黒蝶ディエ


 ぴったりの名前。そう思った。

 彼の姿は、確かに木の陰や建物の影でひらひらと舞う美しい黒蝶クロアゲハを思わせる。

 軽く腕を引かれて驚く。そのまま彼が立ち上がるものだから、私も釣られて立ち上がってしまった。

 まだ祈りの途中だったのに……と、祈りの場を肩越しに振り返る。


「その、あの」


 輪飾りリースから目を逸らしてディエと名乗った彼を見る。


「あなたも、太陽神シウテ様へ祈りに来たんですよね?私が邪魔なのでしたら、外に出ますので」


「ああ……、なるほどね。そういうこと?」


 自分の髪を指先で摘まんで見せて、一瞬首を傾げてから笑う。


「輝く金色の髪、そして空のように青い瞳。それこそが太陽神シウテ様に愛された証……汚れた色を持つ者も、神に許しを請えば慈悲深き太陽神シウテ様は愛してくださるってやつかぁ」


 輪飾りリースを見た彼の柔らかい笑顔に、冷たい光が宿った気がした。


太陽神シウテの教えを君の口から聞くなんてな」

 

 すぐに、ディエは私へ目を戻した。彼の笑顔に冷たい光はもうない。


「サヘーラ、君と色々話したいのだけど」


「え……名前」


「君が教えてくれたんだろう?驚かないでくれよ」


 肩を竦めて、あまりにも朗らかに笑うものだから、多分そうなのだろうと思ってしまう。

 教えた覚えはないけれど、呼ばれた名前は正しかった。驚いて首を傾げている私の頭に、ディエの大きい手がそっと触れる。

 長い指が、私の灰色の髪に絡んで毛先までそっと通っていく。


「あの……ディエ、あなたは」


 どこかから村を追われて、ここに辿り着いたわけではなさそうだ。

 黒髪は太陽と遠い色。神から見放された色だから、大体の村では追い出されてしまう。酷い場合は、太陽神シウテ様が裁きを下すのを待たずに黒髪を持つ人を殺してしまうという話も聞いたことがある。

 この村に逃げてきた人を、何人か見た。彼らは、私と違って村に受け入れられなかった。太陽神シウテ様に祈りを捧げることを条件に、教会で一晩を過ごすことくらいしか許されない。

 だから、最初はディエも、他の村から追い出されるか、故郷を失ってここへ逃げてきたのだと思った。

 でも、彼の瞳には悲壮さが見えない。艶やかな肌とサラサラとした髪も疲弊も焦燥感、飢えなどとは縁遠い感じがした。


「あなたは、何故この村へ?どこかから逃げてきたわけではないでしょ?」


 彼の少し開かれた薄い唇の間から「ああ……」と小さな声が漏れる。

 腕が伸びてきて、大きな掌がそっと私の頬に触れた。

 殴られるのかと思って身体を強ばらせた私の目を、彼の金色の瞳が覗き込んでくる。


「大切なものを、引き取りに来たんだ」


 彼は、それ以上何も言ってくれなかった。

 頬に触れていた手が、スッと離れる。


「とても大切な宝物でね」


 優雅に胴衣の袖を揺らしながら私から離れた彼は、犬歯を見せてふふっと笑う。


「そうなんですか」


 なんのつもりだろう?

 こんな私と話してくれる理由がわからなくて、少しだけ身を強ばらせる。


「サヘーラ、俺が怖いかい?」


「……そういうわけじゃ」


 周りを歩き回っていたディエが、急に私の両方に手を置いた。吐息が耳にかかってくすぐったい。

 金色の瞳で見られていると、なんだか胸の奥がざわざわしてしまう。彼の顔とは反対の方を向いて私は言葉を濁した。


「じゃあ、神様が怖い?」


 慌てて彼の顔を見た。

 彼の声がじわじわと耳から染み入ってきて、私の頭の奥を冷やしていく。


「ダメ!」


 そんな言葉が太陽神シウテ様に届いてしまったら、真っ赤な空があの時みたいに降ってくるかもしれない。

 気が付いたら、私は両手で彼の唇を塞いでいた。

 失礼な真似をしてしまったと、慌てて手を離す。

 そんな私がしたことを怒った様子もない彼は、口の端を蛇のように舌で舐めてニヤリと笑った。


「君は優しいね」


 腰に手を回されて、私は急に抱き寄せられた。何をされるかわからなくて、頬を叩かれても痛くないように両手で自分の顔を隠す。

 ごめんなさいと言おうとしたところで、教会の扉が勢いよく開く音が聞こえた。


「なにをしてる!」


 褪せて白く見える乾いた金髪。

 皺だらけの顔を強ばらせている村長が、教会の入り口に立っている。

 村長の後ろには、農具を持った男の人達が何人もいるのが見えた。

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