第2話 静かなる逃走

Z氏は、考えるよりも先に、バッグパックを置いている寝室に向かっていた。

そして、部屋に入るや、バッグパックを手に取り、無駄のない動作で背負った。

さて、寝室の窓から外に出ようとして、Z氏は、ふと立ち止まった。


読みかけの大江健三郎の「水死」を、大広間の机の上に置いたままだ。


その絶望的な事実に気づいて、Z氏は葛藤のために頭を抱えた。

その本は講談社文庫版で、別段、絶版にもなっていない。

放置して逃げたところで、また購入することも可能だ。

平常時の判断力なら、当然、そうしたはずである。

ただ、今は異常事態のさなかである。

異常な状況は、異常な決断を招いた。


Z氏は、窓枠から片足を下ろすと、急いで廊下に出た。

正気を失った女性指導員の姿は見えない。

よし、今だ。

Z氏は、出来るだけ靴の音をさせないように、静かに廊下を移動する。

そして、何の問題もなく、大広間に着いた。

机の上には、大江健三郎の「水死」(講談社文庫)が載っている。

人間の血液を思わせる、暗褐色の表紙が、この異常事態裏では不気味に見える。


Z氏は、バッグパックを肩から下ろし、丁寧に文庫を収納した。

そして、再びバッグパックを背負うや、凍ったように動かなくなった。

大広間の入り口に、口の周りを血だらけに汚した女性指導員が立っていたからだ。

その灰色に濁った両目は、確実にZ氏の姿をとらえている。

静かな唸り声が、その喉から漏れ聞こえる。

大広間の出入り口は、今、女性指導員が立っているそこだけである。

窓はない。


しばらく慄然と佇立していたZ氏だが、あることに気づいた。

さっきは凄い剣幕で襲い掛かって来た女性が、今は対峙したまま、ただ揺れている。

もしかして、音に反応するのか?

そうだ、さっきは大声で話しかけたはずだ。

発狂した女性は、私の突然の呼びかけに、パニックになっただけなのだ。


そもそも、私は、一体、何から逃げようとしているのか?


落ち着いて考えてみると、自分の行動には、不審な点が多い。

なぜ、血だらけの女性が近寄って来たら、逃げねばならないのか?

尋常ならざる絶叫に、命の危険を感じたのは、こっちの勝手である。

彼女は怪我人じゃないか?

ガラス戸を突き破って入って来るくらい、彼女はパニックに陥っているのだ。

そうだ、やるべきことは逃走ではなく、救急車を呼ぶことだ。


冷静さを取り戻したZ氏は、これまでの自分の滑稽な態度を反省した。

そして、苦しそうに呻いている女性指導員に、優しく語りかけた。

「大変失礼しました。何だか、私も、突然のことで慌ててしまって・・・」


その声を聞いた瞬間、女性の表情が再び獰悪になった。

そして、灰色に濁った両目を見開いて、絶叫しながら、こっちへやって来る。

判断する余裕もなく、Z氏も、気づけば、叫びながら走り出していた。

「うわああああああああああ!!!」


Z氏は体重をかけながら、女性にタックルをかけた。

女性は、大きく跳ね飛ばされて、廊下の壁に凄い勢いで激突した。

Z氏は、すぐに起き上がると、玄関に向かって疾走した。

合宿所の外に出て、天を仰ぎ見ると、雲一つない青空が広がっている。

背後から、絶叫が近づいて来る。

Z氏は、後ろを振り向くこともせず、石段を数段飛ばしに駆け降りた。


道の両側の樹木からは、時々、野鳥の鳴き声が聞こえてくる。

谷川の、コロコロという、清らかな水の音もする。

樹々の梢を揺らしながら、心地よい風が吹き抜ける。

そして、女性の断末魔のような絶叫が、背後から響き渡る。


「私は高校時代、陸上で全国大会まで行ったことがあるの」

Z氏は、初日の講習会で、そう自己紹介した女性指導員の言葉を思い出した。

道理で、距離が縮まらないわけだ。


実は、断食中ということもあってか、さっきから、すでに体力も限界に達していた。

意識は朦朧として、拳にも力が入らない。

しかし、足の回転だけは、なぜか落ちない。

火事場の馬鹿力だろう。

背後に迫る女性の絶叫を聞きながら、Z氏は、ひたすら走り続けた。

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