バッグパッカー・オブ・ザ・デッド
挨拶表現
第1話 死者の夜明け
Z氏は、一週間に渡る、上級者向けの断食合宿に参加していた。
本来なら、1日2日の、入門者向けのものから、順を追うべきであった。
そういう慣習を無視して、つまりは、経験者だと嘘をついての参加であった。
なぜ、そんな無茶をしたかって、大した理由はない。
合宿申し込みの前日の、食い過ぎによる体調不良が、業腹だったのかも知れない。
ただ、Z氏には、断食以上に、多少、否、大いに不安な要素があった。
他人と寝食を共にせねばならない、という煩わしさである。
それだけは、億劫極まりなかった。
体調は良くなっても、今度は、精神が不調を来すかも知れない。
そんな馬鹿な冗談を独語しながら、合宿地である四国の地を踏んだのだった。
いざ合宿所に到着すると、全ては杞憂に終わった。
何の気まぐれか、運命のいたずらか、その回の参加者は、Z氏一人だったのだ。
指導員の女性も「こんなことは合宿始まって以来の珍事ね」と苦笑いしていた。
その合宿所は、人里離れた、ある寂れた農村の山の奥にあった。
よく言えば、風光明媚な深山幽谷の内にあった。
人とのやりとりに煩わしさを感じていたZ氏にとっては、まさに天国だった。
指導員と顔を合わせるのも、初日の講習会と、定刻の健康診断だけだった。
合宿史上始まって以来の、参加者一人という閑散たる講習会は、1時間で終了した。
指導員の女性は「お気の毒様」と済まなそうな顔をした。
「むしろ有難い」と思っていたZ氏だが、一応、心細そうな表情は作っておいた。
これから一週間、この広い合宿所が、自分一人の城になるわけだ。
人間嫌いのZ氏にとって、心細いはずがなかった。
つまり、身体のみならず、精神も健康になるということが保証されたわけだ。
Z氏は、元来、それほど食い意地が張っていたわけではなかった。
そのため、食事を抜くことは、さほど苦にはならなかった。
合宿所にはテレビやラジオの類はなかったが、消閑の具にも事欠くことはなかった。
普段なかなか開く機会のない、分厚い長編小説を数冊ばかり携帯して来たからだ。
「これで長年の積読が一気に片付く」と、Z氏は内心喜んでいた。
それは、5日目、つまり、合宿も終わりに近づいた日の朝のことである。
断食とは言っても、全く食事を取らないというわけではない。
毎日定刻に、山菜を中心とした軽い食事と、水分補給だけはあったのだ。
それが、その日の朝は、いつもの時間を過ぎても、指導員がやって来ない。
Z氏は、特に気にすることもなく、自分の腹の鳴る音を聞きながら、読書を始めた。
その日読んでいたのは、大江健三郎の「水死」だった。
主人公である長江古義人が、宿願であった「水死小説」を完成させるという長編だ。
「古義人」という名前が、デカルトの名言に由来していると考える人は多い。
例の「われ思う、ゆえにわれ在り」という一句だ。
実際には、江戸の儒学者である伊藤仁斎の書斎名「古義堂」に由来するものらしい。
紛らわしい話だ。
著者が東大仏文科の出であることを知っている者ほど、勘違いするだろう。
大江の作品は、ぐだぐだと理屈が長くて、話がなかなか展開しない。
ゆえに、血湧き肉躍るようなスリルを求める読者には、全く人気がない。
著者も「文体改造に成功して以来、誰も私の作品を読まなくなった」と嘆いていた。
しかし、世の中には、スリルを求めていない、珍奇な読者もいるものだ。
Z氏も、その珍客の一人だ。
「事件は、起こらないで済むなら、起こらない方がよい」と考えていた。
ミステリー小説のような目まぐるしい展開には、いい加減、食傷気味だった。
独り言を書き連ねたような、冗長な大江作品は、ちょうどおあつらえ向きだった。
「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」という珍妙な命名に、Z氏は覚えず苦笑した。
「ザ・ケイヴマン」ではなく「ザ・ケイヴ・マン」と3つに書き分けるのも面白い。
こういう、他人から見ればどうでもいいような拘泥りが、大江作品の魅力なのだ。
天井の高い、広い部屋に、自分の笑い声が響き渡って、Z氏は、ふと我に返った。
そうだ、朝食がまだだ。
時計を見ると、すでに正午近くになっている。
物事にこだわらぬ性質のZ氏も、さすがにおかしいと気づいた。
指導員の女性に何かあったのかも知れない。
山中ゆえ、野獣の被害に遭っていないとも言い切れない。
或いは、ここへ来る途中で、体調不良でも起こして倒れていないとも限らない。
Z氏は、読みかけの大江健三郎を机の上に置いて立ち上がった。
合宿所の玄関を出ると、陽は高く、雲もほとんどない快晴だった。
前には、麓へ向けて、幅の狭い石段が、うねうねと続いている。
道の両側からは、木々が青々と覆っていて、心地よい陰を作っている。
Z氏は、うんとひとつ伸びをすると、その石段をのんびりと下っていった。
少し行くと、片側から、谷川の涼し気な水音が聞こえて来た。
この自然に囲まれた生活も、今日を含め、残り3日か。
Z氏は、瞑目したまま、しばらく水音に耳を澄ませていた。
突然、ガサガサっと、何やら大きな物音がした。
それは、ある程度の重さのある物を、草むらに落としたような音だった。
Z氏は、ビクッと体を硬直させて、周囲を見回した。
谷川の水音が聞こえるだけだ。
気のせいかと思いかけた時、再び、同じような物音がした。
気のせいではない。
確かに、前方の、石段が左に折れている、その先から、物音が聞こえて来た。
Z氏は、恐る恐る、石段を下りていった。
野性のイノシシか何かかも知れないと思ったのだ。
石段を左折した瞬間、Z氏は安心すると同時に、新たな恐怖に襲われた。
そこには、口元を血だらけに汚した女性指導員の姿があった。
彼女が、両側に生える草木に、ガサゴソとぶつかりながら、フラフラと歩いて来る。
Z氏が「大丈夫ですか?」と、思わず大声で話しかけた一刹那。
女性指導員は、灰色に濁った両目をカッと見開いた。
そして、獣が這うような勢いで、叫びながら、こちらに向かって走り出した。
考える間もなく、反射的に、Z氏は踝を返して、石段を全力疾走で登り始めた。
後方からは、喉が破けるような叫び声を上げながら、女性が迫って来る。
「は、速いぞ・・・・」
ゼエゼエ言いながら、Z氏は吐き捨てるようにつぶやく。
「アアアアアアア!!!ガアアアアアア!!!」
女性は、狂ったように叫びながら、凄い勢いで距離を縮めて来る。
Z氏も、こんなに全力で走るのは、高校時代の部活以来だ。
玄関に到着するや、転げ込むように中に入り、戸を閉めた。
Z氏は、息を切らしながら、沓脱に倒れ込んだ。
戸外からは、女性の、緊急時のサイレンのような、長い叫び声が近づいて来る。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
その声が、すぐ玄関の前までやって来た時、Z氏は「あ、これはダメだ」と悟った。
その瞬間、ガラス張りの格子扉が、音を立てて、女性と一緒にガシャンと倒れた。
飛び散ったガラスの破片の中には、血だらけの女性が倒れている。
Z氏は、息をのんで、その信じがたい光景を凝視した。
やがて、女性は、静かに頭を起こした。
その灰色に濁った両目と目が合うや、Z氏はすぐに立ち上がった。
あの時、荷物のナップサックを取りに戻ったのは、我ながら賢明な判断だった。
後々、Z氏は、ことあるごとに、そう振り返ったものだ。
とりあえず、Z氏の断食合宿は、その日で終了した。
代わりに、いつ果てるとも知れぬ、放浪の旅が始まった。
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