蒲萄酒

姫百合しふぉん

蒲萄酒

春の夜のこと。隴公朱麗月は邸の広間にて荀令と二人だけの宴を開いていた。令が鍾陰から盧湖挟んで向かいの山の麓の邸に籠り切りになり、そしてまだ霍紅珠や亜瑠和が邸に居なかった頃は麗月は毎日のように美しい歌伎を呼んでは左右に侍らせ酒を飲み歌い淫らな事をしたものだが、今となっては慎ましく令と二人でこうして静かに飲んでばかりだ。尤も、令の美しさは夜空の星々を稀にし美花を恥じらわせるほどのものだから麗月は何ら今を不満に思うことはなかった。紅国の諸郡を荒らし周った夷狄の軍勢を打ち払うために韓の遠征軍が興されたのは韓始五百二十三年の春のことだったが、勝利を得て隴の国に麗月が帰ってくる頃には一年が過ぎていた。「蒲萄。夏の終わりから秋にかけて、まだ暑さも残りし頃、眠りから目を覚ますとまだ昨晩の酔いが残っている。露に覆われたその果実を食べれば、甘くともべたつかず、酸いがそれも厳しからず、冷ややかな味わいは美味でその滴る汁が酔いの辛さを除き、渇きを癒す。これを醸せば麹米よりも甘く、善く酔うが決して残らない。こうして語れば涎が喉を鳴らす、どうして蒲萄を食べずにいられるだろうか、他にも果物は沢山あるが、これに匹するものは有るだろうか」とふと麗月は令に対して語りかけた。蒲萄はもともと韓の地にはなく、東方との交易で齎されたものであった。四百余年前、武帝の代の大遠征によって東方への交易路が開拓され、それにより持ち込まれた蒲萄はその甘さを以てして多くの者を魅了し以後、韓の各地で育てられるようになった。「瑜の文王の言葉だったかしら」と令はこれに言葉を返し「そう言えば、紅龍はあの者と親しかったらしいわね」と続けると杯を満たす白酒を飲み干す。「孤はかつて、しばしば文王と蒲萄を摘まみて酒を飲みながら学問や詩について語らったものだ、懐かしいな」と麗月は百年ほど前のことを思い出し自らの杯に蒲萄酒を注ぐ。瑜の文王、周霖は学問の才を持ち、詩歌に親しみ、筆を下ろせばすぐに文章となり、それでいて撃剣の達人であったため才藝兼該と讃えられた。しかしながら好悪が激しいところがあり、正妻であった美妃を自死に追いやったり、降伏した将を罵り憤死させたり、親しかった将と仲違いして之を死に追いやったりと、その度量については多くの歴史家から非難されている。高慢な性を持つ麗月と仲違いせず親しいままであったのは奇跡と言っても良い。「それで珍しく蒲萄酒を飲んでいるのね。それとも去年の秋に蒲萄が食べられなかった事を恨めしく思っているのかしら」と令は麗月を揶揄った。何かもの言いたげな憂いを湛えた令の艶めかしい唇、如何なるときも図画に描かれた非業の死を遂げる麗人の顔をしたままの令。表情を一切変えずに話すその言葉が冗談であるのかそうでないのかを人は判断することが出来ないため、令は過去より多くの人の不興を買った。ただ、麗月はもう百年近くも臥起を共にした仲であるため、令の言葉に対して小さく笑い「戦というものは憎むべきものだ」とだけ言った。杯に満たされた蒲萄酒、飲めば心地よくその身体を酔わせてくれ、そして昨年は遠征に出ていたため食べることのできなかった蒲萄の甘さを時を超えて味合わせてくれる。膳に並ぶのは麗月と令が肉食を好まないため穀物の粥や味噌に漬けた野菜や川魚と言った質素なものである。塩味の強い味噌漬けを齧り、粥を啜り、そして蒲萄酒を流し込む、古代の暴君のような豪華な宴ではないが麗月は夜にこうして酒を酌み交わす今このときを大いに楽しんでいた。ただ少しばかりは物足りなく感じるのか麗月は「膾が食べたいものだ」と言う、これに対して「海で採れたばかりのもの以外は食べられたものではないわ、どうしても食べたいのならば鍾陽にでも都を移したらいい」と木簡片手に冷たく返した。この二人の宴は、宴と呼ぶのが憚られるほど静かである、何しろ令はその横に書物や木簡を積み重ね、そのうちの一つを手に取り読みながら酒を飲んでいるからである。麗月はただ春風が蕭瑟するのに耳を傾け、令の顔を見ながら蒲萄酒に酔いしれるのであった。

何刻か過ぎると、令は俄かに立ち上がり麗月に歩み寄る。令の身体を飾る綴られた真珠や形のいいその頭に戴く金の首飾が揺れて軽やかな音を夜に響かせる。令が麗月の隣に座すとその美しく黒い髪を撫で、そしてその小さな唇を吸った。麗月の小さな身体は令の纏う瑞々しくも奥深い神秘的な芳香に包まれ蒲萄酒の酔いが強く回った。麗月も香を好み戦場にあっても欠かさず衣に炊き付けているが、令の放つ香りはそれよりも更に強い、書物に座した処三日香ると残されるほどである。着崩された羅衣から覗く皓質は炎に照らされ燦爛と輝き、その揺れる瓊の如き双眸は麗月を悩ませた。首から肩にかけてはよく削り取られ、溢れんばかりの柔らかい胸が作り出す谷間に思わず麗月の手は誘われる、それでいて腰つきは白絹を束ねたが如く嫋やか。ただ、麗月は今宵は淫らな行いをする気分になれず「詩でも聞かせようか」と令の身体を撫でながら問いかけた。瑟を取り出してきた麗月は、その白く細い指を弦にかける。瑾瑜の如き瑟の音が夜の闇を彩ると令は麗月の細い身体を満足げに撫で始めた、二妃が戯れ愛を歓ぶその様は比びて春の風に揺れる桃の花のようであった。麗月は自ら奏でる瑟の音に合わせて高く儚い声で歌い始めた。


飲蒲萄酒弾鳴琴。

念征東胡愁我心、奇士病臥涙沾枕、雖桀哭泣況婦人。


戦に征きて帰らぬは国殤となった者ばかりではない、延江を越えて東に行けば慣れぬ風土で病を得て斃れる者達も多い。麗月は故郷より遠く離れた地で病を得て若くして薨れた鬼謀の士を哀れみこう吟じたのだ。弦を鳴らす手を止めて蒲萄酒を呷り喉を潤すと麗月は再び何か歌おうとしたが、意外にも令がこう歌った、博聞にして彊識、百を越える書を記した才人ではあるが一編の詩も残さなかった荀瓏華が。令が蒲萄酒を口に含み、麗月に口移しで与え自らも余りを飲み込むと俄かにその口を開く。


対蒲萄酒当歓愛。

渡星漢流久滞在、比翼翱翔可忘㤥、牽牛織女不欲回。


麗月は令の歌を聞いて笑みを浮かべ「そうだな、孤が歌ったような哀しい詩は蒲萄酒の甘さには相応しくない」と言い、彼女の頬を撫でた。できることならば、令がこのまま邸に居ついてくれれば嬉しい、と麗月は心の内でそう呟いたがそれは叶わぬだろう、何しろそれは鷙を小さな鳥籠で飼うようなものだから。二人の宴はまだまだ続く、月が明るく輝く夜に歌声を響かせながら。

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蒲萄酒 姫百合しふぉん @Chiffon_Himeyuri

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