第27話

「なぜ、こんなことになってしまったのだろう……」

 ぽつりとつぶやいた言葉は誰に届くこともなく、中空に消える。

 天井を見上げれば、温かなオレンジ色のリビング照明が眩しく目に降り注ぐ。

 自宅に帰るや否やソファに身を沈めると、これまでの疲労感が一気に身体を覆い、立ち上がることさえも億劫おっくうにさせていた。

 目を閉じれば、それはそれは深い眠りに落ちることさえ容易なように思えた。

 ただ一点、いつもと違う状況さえ存在していなければ。

「は~っ、この部屋涼し~っ!やっぱ、お風呂上りにエアコンの効いた部屋に入るの、最高だね!」

 扉を開けてリビングに入ってきたあかりが至福の声を上げた。

 あらたは慎重に身を起こし、少しだけ明の方に視線を向ける。

 夏用制服のシャツ姿に赤色チェック主体のプリーツスカート。

 なんてことはない、学校でいつも目にする姿。

 だが、シャワーを浴びた直後という状況一つで、それらは大きく違ったものに感じられた。

 まだ少し汗をかいているからか、肌にシャツが張り付き、程よい肉付きの身体のラインが現れていた。

 髪は先ほどまでのハーフアップから通常モードのポニーテールに戻っている。ただその髪はまだ濡れていて、ちょっとだけ、どきりとさせられる。明が新の寝そべるソファーの後ろを通り過ぎただけでも、なんだかよく分からない良い匂いがした。使っているのは、家にあったシャンプーのはずなのにだ。

「ね~、ね~。新はシャワー浴びないの?」

「ふえっ!?」

 ソファーの背もたれのてっぺんにあごを乗せるようにして、明が尋ねる。

 驚いて思い切り息を吸い込んだ拍子に、明の風呂上がりの匂いが一気に鼻腔びくうへと流れ込んできた。

 めいていでも起こしたように頭がクラっと来たが、かろうじて意識を保つ。

 それでもまだ、目を合わせるには至らない。

「お、俺はいいよ。どうせ、明が帰った後に風呂入るから」

「私、今日ここに泊まるつもりだけど?」

「はぁっ!?」

 寝耳に水だった。だがそんなあらたの反応に、あかりはにやりと笑みを浮かべる。

「嘘に決まってるじゃん。あのね、ろくに準備もしないで外泊できるほど、女の子はお気楽じゃないんだよ?」

「男の家にお気楽に上がり込むのは女の子としてどうなんだ?」

「それはホラ、童貞の男の子ならセーフ」

「イヤなところでライン引きするな!?」

「事実でしょ?」

「事実じゃ……いや、じじつ、ですけど……」

「まぁそんなことはどうでもいいね」

「あれ?今、言うだけ損したか、俺?」

「はいはい、バカなこと言ってないでさ、はやくシャワー浴びてきなよ。童貞の上にくさいとか、新、ホントにモテなくなるよ?」

「シャワー浴びるのためらっただけだろ!?さっきからちょっと言葉が辛辣しんらつすぎない!?」

「決めたっ!今日の夕食はあかり特製、激辛チャーシュー麺にしよう!」

「『辛辣』の文字づらだけで決めたな!?変なアレンジいらないから!普通のでお願いします!」

 何やら凶悪なメニューを生み出そうとする明を残し、新は促されるままにリビングを後にした。



 事の発端は、出前からの帰り道、明が発した一言だった。

「そういえばさ、新、夕食はもう食べたの?」

「ん?いや、まだだな。さっきの騒ぎで完全に空腹を忘れてた」

 言葉にした瞬間に、新の腹がぎゅうううっとうなり声をあげた。

 まるで腹の中の住人が、ようやく思いだしてくれたか、と声を上げたかのようだ。

 明は可笑おかしそうに笑ったが、新は別段恥じる気もなかった。こればっかりは生理現象だ。恥じてもどうしようもない。

 というか、自分で思っていた以上に空腹だったらしく、その感覚を思いだした途端とたん、猛烈におなかが空いてきた。

 明も一しきり笑って、それでも堂々とした新に「いさぎよし」と取ったのか、

「それなら、私が晩御飯ばんごはん作ってあげる!」

 と自信満々に宣言した。

 新も一人で自炊することは、今では支障はなくなった。だが、やはり自分の味というものはどうしても飽きが来るものだ。

 なので、明の申し出は正直ありがたい話で、新はそれを承諾することにした。



「あ~っ、あっつ~い……。あらた~、玄関にもクーラーつけようよ~」

「こんなところにまでクーラー付けたら、温暖化推奨してますって言ってるようなもんだろ」

「地球環境と幼馴染の体調、どっちが大切なわけ?」

「そんなアホなこと言える元気があるうちは、地球だな」

 蒸し風呂のような熱さと化していた玄関で明は不満の声を上げる。

 そそくさと通学用の黒のローファーを脱いで家に上がり込むとそのまま廊下を小走りで駆けて行った。

「ったく、靴ぐらい揃えてから行けよ――って、ちょっと待て!何しようとしてんだ、お前は!」

 明が脱いだローファーを玄関口でそろえて顔を上げると、明はリビングではなく、なぜか浴室の引き戸に手をかけていた。

「何って……シャワー浴びようかと」

「それならせめて、一声掛けていけ!ビックリするわ!」

「ゴメンゴメン。え~っと……のぞいちゃ、ダメだぞ?」

「いや、なんで今その言葉を選択した……」

「え~っ。だってホラ、漫画とかだとこういうお決まりでしょ?」

「漫画の常識より先に、世間一般の常識を引用しろ!」

「えっ……そ、そう。新がそこまで言うなら。さ、先にシャワー、浴びてくるね……」

「謝れ!良識ある世間一般の皆様に謝れ!」

 何を間違えたのか、明の一般常識は一部ピンク色らしかった。

 一つ一つ訂正していくと本当に夜が明けそうだったので、仕方なくそのままシャワーを貸すことにした。

 じっとりと無駄にかいた汗を吹き飛ばすべく、新も急ぎ足でリビングへと向かった。

あらた!」

 リビングの扉を開ける直前、背中越しに明が呼び止める。

 振り返ると、明は少しだけ顔だけ出していたが、その隙間からわずかに肌色の肩が見え、新は急いで正面に向き直った。

「その……本当に、覗いちゃダメだから……!」

 何を思ったのか、そう言って釘を刺してきた。

 まるで紅く染まった表情が見えるかのような声音に当てられ、新も自分の顔が上気するのが分かった。

 リビングに入れば、つけっぱなしだったクーラーによって冷えた空気は、ありがたいほどに冷たくなっていた。

 新はその涼しさの中、ひたすら無心で熱くなった顔を冷ますようにして、明がシャワーを浴び終わるのを待った。

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