第24話

 だが、廊下の途中で一つの人影に気づき、新は足を止めた。

 見るとそれは、まるで成すすべもないとばかりにぺたんと座り込んだ少女の姿。

 あかりだった。

「お前っ――!バカ!なんで逃げてないんだよ!?」

 頭上から降ってきた声に、びくんと明は肩を跳ね上げる。

 いつの間にか雨は上がり、廊下の窓からは月の薄白い光が差し込んでいた。

 ゆっくりとあらたの顔を見上げた明の顔。

 窓から差し込む月光に照らされ、瞳にたたえられた大粒の涙は皮肉なほどキラキラと輝いていた。


「だって……だって、私が逃げても、新が帰ってこなかったら意味ないじゃない――!」

 表情をくしゃくしゃにして訴える。

 震える声の向こう側にかいえたのは、痛々しくひらいた明の心の傷だ。

「――っ!」

 新は唇をぎっと噛みしめる。

 加減もせず、自戒の念を込めて。

 自分自身に思い知らせるように。

 明の傷を開いたのは他でもない、自分だと。

 想い人にこんな辛い思いをさせているのは自分だと。

 心に渦巻くどす黒い罪悪感と果てしないまでの自責感。

 暴風のように内側であばくるうそれらの感情は、油断すれば自分の身体さえバラバラに引き裂いてしまうのではないかと思えた。


「このまま走っていって……。もし、あの時みたいに、新まで帰ってこなかったら……私っ――!」

 まぶたの上で踏みとどまるかのように湛えられていた大粒の涙がうつむいた拍子にこぼれ落ちた。

 


 不意に、いつかの光景が脳裏をかすめた。

 けるようなだいだい色の空。黒い建物と、黒い服に身を包んだ、たくさんの大人たち。

 同じだ。

 その日も、彼女は……あかりは、泣いていた。



「……大丈夫、大丈夫だ! 俺はちゃんとここにいる!」

 あらたは腰をかがめ、目線をあかりの高さに合わせる。ちょうど、幼い子供に言い聞かせるかのような姿勢で、明の両肩を力強くつかんでなだめた。



 ――言いながら、あらたは自分の良心がきしむようだった。

 何が大丈夫なものか。

 この顛末てんまつを作り上げたのは、他ならぬ自分だというのに――。



 明を必死になぐさめる自分を、天井からもう一人の自分が見下ろしているかのような感覚。

 それは欺瞞ぎまんだと、もう一人の自分がささやく。

 それでも新は慰めの言葉を口にした。

 たとえそれが、どれだけ白々しくとも。

 今それを放棄することは、明を危険にさらすことになる。

(せめて、ここから先は間違えるな――!)


「とにかく、今は早く学校の外まで逃げよう。あのものがいつ追ってくるかもわからねぇし……。」

 明は、その言葉にうんうんと頷き、自分の目元を手の甲でゴシゴシとぬぐった。

「――ごめん、もう大丈夫そう」

 ズズッと明は鼻をすすり上げる。

「えへへ、カッコ悪いところ見られちゃったね」

 明は照れ臭そうに笑う。

 だが新は返事もせず、ただ無言で明の手を引いて立ち上がらせる。

「行こう」

 返事を待たずに、新は明を連れてした。

 明が少しだけバランスを崩したかのような声を上げたが、すぐに何事もなく後に続く。

 廊下には静寂せいじゃくが横たわっていた。

 耳をませても、あの怪物の叫び声は聞こえなかった。

 それでも新の心には、ピカピカのガラスにべっとりと油が付いたように、不快な感情がいつまでも心に残り続けていた。

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