第19話

「これは……」

 ドアを開けたあらたは、真っ先にある違和感をとらえた。

「どう?大丈夫そう?」

 背中からあかりの不安げな声が飛んできた。

「……寒い」

「え?」

「この部屋、空調が効いてる」

 それもかなり極端に、だった。


 ドアを開けた瞬間に新を出迎えたもの。

 それは保健室とくゆうじゅうまんしたアルコールの臭い。

 そしてまるでアイスでも作ろうかと言わんばかりに、エアコンによって極端に冷やされた室内の空気だった。

 じっとりと肌ににじむようななまあたたかい校内とは一転した環境。

 その異物感はお世辞にも心地よいとはがたい。

「保健室の先生が消し忘れてた、とか?」

 明がすいそくする。

「その可能性もあるかもしれないけど……」

 そう、可能性はある。

 だが、理由はもちろん気になるが、それを深く推測することにあまり意味はないように新は思えた。

 むしろ、今重要なのはただ一つ。

 一刻も早く出前を終えて、無事に帰ることだ。

 それさえ終えてしまえば、どんな理由があろうと関係はなくなる。


 それに――


 何か、思いがけない方向に事態が進んでいる。

そんなれぬ不安感をあらたは先ほどからぬぐえずにいた。

 だからこそ、そうきゅうに事を終えるべく、新は懐中電灯にスイッチを入れ、目の前の暗闇に光を注ぎ込む。



「うう~っ、寒っ」

 保健室の中に足を踏み入れると、その冷え具合の異常さが身をもって感じられた。

 まるで、肌に直接氷のかたまりを押し付けられているかのようだ。

 懐中電灯であちこちを照らしながら数歩前進したところで、新は足をめた。

 そして前を向いたまま、少しずつ――


 新は入り口まで後退した。


 ムーンウォークよろしく、ゆっくりと入り口まで歩を進める。

 そして、辿たどり着いたところで後ろを振り返って明をまねきした。

「どうだった?お、お客さん、いた?」

 ぱたぱたと駆け寄ってきた明の言葉は、確認、というよりも彼女自身の願望の表れのようだった。

「お客さん、というか……まぁ、できれば『ちゃんとしたお客さん』だとは思いたいけど……」

「な、なんなのその曖昧あいまいな答え!?いるの?いないの!?」

 いたずらに不安をあおるようなあらたの言葉に、あかりはじれったそうに明快な回答を求めた。

 だが、それも仕方のないこと。

 当の本人さえ、今しがたそうぐうした状況を、どう解釈すればいいのか分かりかねていたのだから。

 だから新はとにかく、見た事実だけを伝えた。


「ベッドのところに誰かいる」


 その言葉に、明は息をみ、恐る恐る保健室の中をのぞき込んだ。

 新もちらりと明と同じ方向に視線を送る。

 二人してじっと目をらすが、真っ暗な室内の様子は入り口からでは見えそうもない。

 それでも、確かにそこにいる『何か』。

 それに対する覚悟をそなえようとするかのように二人は視線を暗闇から動かそうとはしなかった。

「……大丈夫か?」

「大丈夫……ではないかな」

 一瞬の強がりは不発に終わり、次いで出てきたのはどこか観念したようなかすかな笑い。

 自嘲じちょうともとれるそれを、どうフォローすべきかと新は言葉を探す。


「それでも……」


 それをさきんじたのも、また、あかりだった。

「それでも、やらなきゃね……」

 声のトーンとは裏腹に芯の通ったハッキリとした言葉。

 相変わらず明の視線は目の前の闇に注がれている。

 それでも、その瞳にはたぎるような思いが込められていた。

 明はかがんだ姿勢からすっくと立ちあがると、廊下に置きっぱなしにしていた岡持ちを持ちあげ、再び新の下に戻ってきた。

 それこそは何よりも明確な意思表示。

 もはやどんな言葉をかけるまでもない。

「よし、行こう」

 あらたのやるべきことは、あかりの選択を尊重するだけだ。

 懐中電灯のスイッチを入れて、二人は目の前の暗闇に足を踏み入れた。

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