(単話)夜明けを待つ

蓬葉 yomoginoha

夜明けを待つ

 真夏。埼玉某ぼう市の喫茶店に呼び出された僕は、じめじめした空気とくもり空にうんざりしながら駅前を離れ、その店に向かった。


 まだ高校生だった時分には毎日歩いた街並みだが、今も当時と大して変わっていない。卒業してからまだ三年くらいしか経っていないからそれは当然ではあるが、容赦ようしゃなく変わってしまうこともある。


 横断歩道を渡り、川沿いの遊歩道を歩いて十分ほど、ようやく僕はその店に到着する。

 道行く人の顔半分を覆うものは僕の顔にもついている。最近出かけるときにはいつも着けているそれは、いつの間にか安全確保のものというよりただの義務のようになった。


 店の扉を開けると、まず目につくのは消毒液とビニールカーテンで仕切られたカウンターだ。

 普段ならカウンター席は六つくらい椅子が置いてあるはずだが、今は二つしかない。

 テーブル席にもビニールの仕切りがあり、二つ対二つの椅子の配置も、今は一対一になっていた。


「すみません、検温にご協力ください」

 同じくマスクをつけた男性店員が体温計をかざす。ニュースでは今やよく見る光景だが、実際にそれを受けるのは初めてだった。

「はい、大丈夫ですね」

 そう言って笑ったらしい若い男性店員の、かろうじてのぞひとみには明らかに疲労の色が浮かんでいた。

 目は口程に物を言う、というけれど、こんな状況になって初めてそれを実感する。


「お席のほう……」

「あっ、先に来てる人がいると思うんですけど」

「あぁ。奥の席ですね」

 案内されてそこに向かうと、日の当たる席に彼女は座っていた。


「おう」

「お、久しぶり」

 白いコードレスイヤホンを外して彼女は笑う。

 彼女は後輩であり、二歳年下の従妹いとこでもあった。


(ああ)


 心の中、さっきと同じ呟きをもらしてしまう。


(お前もなのか)


「どうしたの?」

「いや。元気だったか?」

「うん。まぁ」

 そういう従妹の瞳には疲弊の跡がある。

「カナ兄はすごい疲れてそうだね」

 カナ兄というのは金村かなむら叶斗かなとという名前の僕のあだ名だった。なぜ兄がついているかというと、僕が彼女、速水はやみ夢奏ゆかなの、二歳上の従兄だからだ。

「そんなことないよ」と僕は返す。しかし、無論彼女の言は正しい。


「お冷、セルフなんだって」

「あぁ、そうなんだ」

 しかたがない。座ったばかりだが立ち上がってカウンターわきの給水機からコップに水をそそぐ。そのレバーに触れることでさえ一瞬ためらってしまうのは、もう病気かもしれない。


 水を持って席に戻る。夢叶は携帯の画面を眺めるでもなく、ぼーっと机の模様を眺めていた。

 しかし、僕の気配に気づくや、顔を上げて「ちゃんとめた?」と言った。

 普通に考えたらあおりのようにも聞こえるセリフだが、そうではないのはわかっていた。だからといって、本気で彼女がそれを心配しているわけではないということも。

「汲めた」と僕は僕で覇気はきのない答えを返す。お互い様だ。




 適当な昼食とコーヒーを頼み、店員にメニューを渡す。裏ではきっと消毒作業に追われているのだろう。その労苦ろうくを思うと、腹が立つどころか、申し訳なくなってくる。


 何も問題がなければ、夢奏に「大学生生活はどうだい」とでも聞いていただろう。しかし、今それを言うのはデリカシーがないにもほどがある。

伯父おじさんたちは元気?」

 ミルクのたくさん入ったコーヒーを口元に運んで、夢奏が言った。

「うん。東京に行くような仕事じゃなくてよかったって言ってたよ」

「そう」

 夢奏は小さく笑んだ。

「叔母さんたちも」

「ん……」

「……叔母さんたちも、元気だといいな」

「うん」

「親は元気か」などとは聞けない。この地で、高校時代からずっと一人暮らしをしている彼女には。


 今年の夏、郷里きょうりに彼女は帰れなかった。

 栃木とちぎ県の奥にある彼女の故郷は、ここから決して遠くはない。

 大学には、それこそ東北や九州や、沖縄など、気の遠くなるほど遠くからやってきた学生もいる。そんな彼らよりはるかに近くの距離にいる夢奏にも、帰郷は許されなかった。法令で決まったことではないが、社会がそう要請した。


 理解はできる。納得もできる。けれど、一人きり、しかも外出することさえはばかられるような風潮ふうちょうの中で過ごす大学一年の夏は、どんなに息苦しいだろう。


 親や弟とともに住む僕には、大学に通えない状況に困惑するのは同じでも、講義の履修りしゅうの方法や授業の受け方などにはもう慣れている。

 そんな僕には、テーブルの上にどうにもならない現実を見る彼女の気持ちをわかってやれない。

 「お前の気持ちはよくわかる」なんて、軽々しく言うことはできない。入試の時以来、一度もキャンパスに足を運ぶことすらできていない彼女には、決して言えない。

 

 言ってはいけない。


「授業とか、ちゃんと受けれた?」

「うん」

「どうだった?」

「うん、まぁ、結構楽し、かったよ」

「そうか」

「でも、やっぱり、学校行きたいよ。せっかく入試受かったんだもん。学校行くために一人暮らし始めたのに、これじゃなんでここにいるんだって話だし」

「うん……」

「まぁ、あたしだけじゃないけどさ。こうなってるの。カナ兄もそうだし」

 彼女たちからしたら、きっとそうして自分を納得させるしかないのだろう。誰が悪いという話ではないのだから。

「そう、だな」

 何の脈絡みゃくらくもなく、ふと思い出す。今年の正月親族で集まったとき、夢奏は大学に入れたら赤のインナーカラーを入れたいと言っていた。それさえ、立ち消えになってっしまったのか。あるいは、忘れてしまったのか。

 もしくは、今そうしたって何の意味もない、と半ば無気力になっているのかもしれない。


「友だち、作りたかったな」


 ぼそっと、彼女は呟いた。


 大学は、それまでとは違って、自分で動かないと友人を作りづらい場所だ。裏を返せば、ずっと一人でいることもできるということでもある。

 僕はどちらかというと後者の人間だが、それでも多少話せる人間はいる。テスト対策をしたり、レポートの相談をしあうような友人くらいはいる。彼らは生涯しょうがいの友とまでは呼べないかもしれない。しかし、それでも友人は友人だ。


 夢奏たちにはそれがない。初めて同級生と会うことになる諸々もろもろの説明会や、講義やゼミでのふれあいがない。三次元での、サークルの勧誘がない。そんな状況でしかし、一年の春学期は進み、山のような課題とともに終了していった。


 彼女たちに救いはないのだろうか。


「カナ兄」

 パソコンの画面を眺めすぎた疲れた瞳で、夢奏は言った。さっきの体温測定と一緒で、ニュースでは何度も聞いたが、現実には初めて聞く言葉だった。

「あたし、ほんとに大学生になったんかな」

 大学生活に希望があったとしてもなかったとしても、この時期の学生が発するには、あまりに重たい声だった。




「レポート多くて大変だったよ。大学って結構きついとこだったんだね」

 オムライスをすくったスプーンを口にくわえて彼女は言った。

「普通だったらこんなに重くないんだよ。テストの科目も多いだろうし」

「テストってどうやるの? 高校の時みたいな?」

「いや、結局レポートみたいな感じだよ。その場で書くか、時間かけて後で提出するかの違いで」

「ふぅん……」

「そういや、お前の大学も一年と二年は語学の授業あるらしいけど、どうなったの?」

「英語は、片方は配信動画見て、小テスト答えて提出する授業で、もう片方はプリント印刷して勉強するやつ」

「第二外国語は?」

「んと、ドイツ語はどっちも配信動画だったよ」

「お前もドイツ語だったか。どう? ちょっと話せるようになった?」

 すると彼女は「うーん」と中空を眺めて、やがて言った。

「アイネクライネナハトムジークってドイツ語なんだってね」

「意味は?」

「何とかの音楽」

「小さな夜の音楽な」

「あぁ、それそれ。てかさ、カナ兄、グラタン食べないの?」

 これ以上話すと危ういと思ったか、彼女は話をそらした。

「冷めるまで待ってんだよ」

「熱いのがうまいのに」と夢奏が笑った。


 久々に会ってから二時間弱、ようやくマスクのない普通の笑みが見れた。

「でも、そんなんじゃ語学のテスト大変だったろ」

「え? テストはなかったよ」

「えっ? じゃあレポートか」

「いや、なんか、小テストとかコメントの評価で成績決めるんだって」

「そうなん? じゃあ、その点は楽だったんだな」

「そうなのかな?」

「いや楽だよお前。テストってなったら結構勉強しなきゃいけないし。他の授業もあるってのに」

 既に語学授業を終えた身としては、それがどれだけ楽なのかわかる。もちろん、だからといってオンライン授業で終わらせたいかというと、必ずしもそうではないが。

「次の学期もこんななのかな」

「うーん、どうだろう。収まれば対面もあるかもしれないけど」

「収まらないよねきっと。どうせまた、増えて減ってを繰り返すんだよ」

 その言を悲観的過ぎると言うことはできなかった。きっともう、一年前までの生活に戻ることなどできないから。


 しばらく沈黙が続いた。カウンターの向こうのエプロン姿の老店主と、レジ前の店員の話し声が聞こえるだけだ。

「お客さん、全然来ないね」

 夢奏が言った。ちいさなお店の音楽に隠れてしまうくらい小さな声だった。

「潰れ《つぶれ》ないでほしいな」

「うん……」

 そう応えてようやく冷めたグラタンを口に入れる。半年ぶりに食べる外食の味は、どこか感動的ですらあった。




 食事を終えた僕たちは、ゆっくり歩いて駅前に戻った。

「暑い……」

 タオルを頭にかけて歩く夢奏は辛そうだった。

「マスク外せば?」

「いやぁいいよ。迷惑だろうし」

「でも倒れたら元も子もないだろ」

「大丈夫だよ」

 瞳には再び疲れが宿っているように見える。

「家で、ちゃんと冷房つけてるか?」

「つけてるよ」

「我慢とかするなよ」

「わかってる」

 そうこうしているうちに駅に着いた。思ったより人が多い。


 電車が来るまではまだ少しだけ時間がある。

「電車、普通に運転してるの?」

「まぁ普通だな」

「そっか。ならよかったね」


 下り電車の終点は彼女の故郷の近くだ。

 帰ろうと思えば帰れるのに、故郷に帰れないこの従妹いとこ不憫ふびんでならない。


 学校に行かないならここにいる意味はないと夢奏は言っていた。普通なら意味を探すこともできる。なのに、外出が制限される中でそれすらもまともにできない。無気力になってしまっても仕方がないだろう。


「カナ兄」

「ん?」

「また今度誘ったら来てね」

「ああ。絶対来るよ」

「ありがと」

 一番線、急行電車が入ってくる。もう行かなければ。

「じゃあな。がんばれよ」

「うん」

 力なく微笑む従妹の頭を、昔のように撫でてやりたかった。

 しかし、伸ばしかけたその手を握り、もう片方の手を軽く上げるに留めた。


 それは社会の風潮のせいだったのか、ただ自分が臆病なだけだったのか、どっちだったろう。

「ばいばい」

 手を振る彼女に僕は同様にして返し、改札を通った。

 振り返ると、彼女は僕の方に、今にも泣き出しそうな眼差しを向けていた。


 やめてくれ、といいたくなる。背後、電車の扉の開く音、僕はその眼差しの色に気付かないふりをして手を振り、車両に入った。

 どこかに連れてってやると、軽はずみに言ったらよかったかもしれない。そうすれば、一瞬でも希望を与えられたかもしれない。しかし、言えなかった。逆に傷つけることになると、そう思った。


 窓の外、景色は絶えず変化する。一方で、遠くに見える入道雲や、ジリジリ響く蝉噪は、去年も今年も変わらない。

 鋭い日差しも夏の空気も、朝昼夜の循環も、何一つ、変わっていないことなのに、たったひとつのイレギュラーで、こんなに暮らしが変わるとは。

 


 それから少し経った八月の末、夢奏は休学を決めた。そして人目を避けながら、栃木に帰ったらしい。

 気休めのひと言もかけてやれなかった僕は激しく後悔したけれど、いまさら何の意味もなかった。

 それを聞いてからすぐに、「大丈夫か」と連絡すると、数秒後には返信が来た。

『今は、お母さんたちといるから、前より少しは楽になった』


 緩慢な、生ぬるい絶望の中で、彼女の唯一の幸いを見出すとしたら、それは、一人でいることの閉塞感がどんなに息苦しいかを知れたことかもしれなかった。


 しかしそれは、こんな形で思い知らされるものではないだろう。


 夢奏と同じような決断を迫られる人が他に山ほどいる。そう考えると背筋が寒くなる。

 一寸先どころか自分の立ち位置すらわからなくなってしまったような世界で、僕たちはこれからどうすればいいのか。

 煩悶しても答えなど出ない。夜明けを待つことしか、今はできない。

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