朝はあんなに冷えていたが、午後は太陽に照らされて、少しだけ暖かくなった。

 葉のない雑木林の中の小路を歩く。

 隣にはヨシヤがいる。そのまた隣にはユミコが並んで歩いている。3人で手を繋いだり、と思うとヨシヤが何かを見付けて、駆け出して行ったり。そうして3人でのんびりと小路を進んでいく。


 聞こえるのは私たちの足音だけ。風が吹いたところで、擦れる葉がなければ音は鳴らない。こんなに静かだから、私たちの足音や話し声も、さぞ大きく響くだろうと思ったが、却って何かに染み入るように先細っていく。

 しばらく小路を歩くと、少し開けた場所に出た。道はまだまだ続いているが、先に進んでも、知っている人は誰もいない。


 ここが私たちの目的地。

 辺りには墓石が立ち並んでいる。冷たい風も、照りつける太陽も意に介さず、ただ立ち尽くし、中で眠る人々の名前を示しつづけている。その中の1つの前で、私たちは立ち止まった。


 父と母の眠る、墓。

 今日は父親の命日。

 毎年、ここに来て墓参りをしてきた。でも実際にはそれは形だけのものだったんだろう。

 死を受け入れなければ、弔いを進めることはできない。

 死者を心の中で生かしつづけるには代償が必要で、それは決して簡単に差し出していいものじゃない。

 私たちは機械じゃない。だからすべてを覚えて置くことはできない。それを受け入れて初めて、心の中で、もう会えない人の、本当の面影を感じられるようになる。


 例年になく、心が軽くて晴れやかだった。

 水場で水を汲み、墓石の前に立ち、心の中で、よしと呟く。

 お墓の周りを掃除し、墓石を磨いていく。墓石の表面は一見すると綺麗だか、磨いてみると汚れているのがよく分かる。

 掃除を終えて、水場で改めて水を汲む。

 浄水をお供えして、花瓶に花を生ける。この花は、先日街の花屋で選んでもらったものだ。最近はずっと、同じ店員さんに選んでもらっていた。花の選択や組み合わせも、去年までとはそう変わらないはずだ。なのに今年の花は、どこか明るく映えているように感じる。


 私の見る目が変わったのか、それともあの店員さんの方で、何か思うところがあったのだろうか。僅かの間に、私の心の変化を察したのだろうか。そんな馬鹿なと思うが、どうだろう。

 物言わぬ植物と日々向き合っているんだ。お喋りな人間の心の変化を感じとれたって、不思議じゃない。


 墓石の前に屈み、持ってきた包みを広げ、お供え物を取り出す。蝋燭、お線香、洋菓子。それぞれをお供えしていく。

 見た目には、大した変化ではないないはずなのに、場が調ったように感じるから不思議だ。


 3人で順番にお参りをしていく。

 ゆるやかに流れていた風さえやみ、陽光だけが場を占める。線香は煙をまっすぐ立ち上らせ、永遠の命を得たかのように燃えている。こんなに暖かな太陽の光よりも、ゆるやかな風が線香を燃やすというのが、何だか不思議だった。

 お参りを終えて、屈み込んでぼんやり線香の燃えるのを見ていると、すぐ隣にユミコが屈み込んできて、


「全然燃えないね」


 と話し掛けてきた。ユミコはこちらを向くでもなく、私と同じようにぼんやり線香を眺めている。


「すまん、早く片付けなきゃな」


「いいのよ、時間はいくらでもあるんだから」


「のんびり屋さんだね。のんびりお一つ下さいな」


「いいよ。じゃあ代わりに、あなたの心配事をちょうだいな」


「あいにく、ちょうど売り切れ中なんだ」


「ふーん。だから、のんびりしているのね」


「そうなの」


「そうなのね」


 午後の陽射しは舞い落ちるように優しくて、穏やかな眠気を誘う。

 

「何だか、時が止まっているみたいね」


「俺らだけが老け込んじゃうね」


「老け込む、その言葉、私、嫌い」


「どうして片言? もしかして君は未来人?」


「いいえ、まだです、未来になれば、そうなります」


「これはあれかな、未来人ジョーク?」


 それには答えず、ユミコは少し間を置き、話題を変えた。


「今日は何だか晴れ晴れしてるわね。それは心配事が消えたから? それとも天気のせい?」


「まぁ、どっちもだね」


「なるほどね」


「何だかさ……」


「どうしたの?」


「時が進んでるみたいなんだ」


「おかしいね、時間は止まらないから、時間なのに。でもあなたの時間は止まっていたのね? じゃあ、あなたにしてみたら、本当に私は未来人なのかもね」


「外套がさ、消えたんだ」


「外套?」


「なんて言えばいいんだろう……。親が早くに死んだ子供っていう外套、とでもいえばいいのかな」


「そういう外套か。分かるわよ」


「それがずっと念頭にあった。どんなときも常に」


「……人が苦しいのは、すべて外套のせい。でも服なんて、楽しいことがあれば着ていることも忘れちゃう」


「そうだね。たまに忘れることもできた。君と初めて会った時とかね」


「あら。おだてても何も出ないわよ。マッチの燃えさしでいいなら、あげるけど」


「いらないよ」


「貰ってよ」


「いらない」


「いいから貰ってよ」


 真剣な顔をして、私たちはマッチの燃えさしを押しつけあう。


「そんな大層なもの受けとれないよ」


「あなたに受けとってほしいのよ」


 私たちはどちらからともなく笑い出した。またどちらともなく笑い終え、お互いを呆れ顔でみる。そして、自然と線香の煙に視線が集まる。


「だけどさ、外套は消えずに残っていたんだ。忘れたと思っていたけど、それは間違いで、俺はずっと、その外套を肌身はなさず着ていた」


「着た切り雀だったのね」


「まさにね。その雀はずっと俺のそばにいたんだ」


「その雀はずっとあなたを見ていたのね。あなたに忘れられても、どんなに時が過ぎても、鳴き声の一つも上げないで」


「その雀は多分、舌切り雀でもあったんだ」


 舌を切られようが、腰が折れようが、私のそばで、ずっと私を見ていた。私へのプレゼントを用意して。


「姿が見えなくても、あなたはずっと、雀の気配を感じていたのね」


「ああ。そして、姿が見えないのをいいことに、気付かないふりをして、忘れようとした。でもそれじゃ駄目だったんだ。雀と向き合って、その目を見なきゃいけなかったんだ。やらなきゃいけないことなのに、ずっと先送りにしてきた」


「でもあなたは気がついたのね」


「ああ、ヨシヤのお陰でね」


「それはどうして?」


「昔はさ、クリスマスは恋人たちのものなんだって、そう思い込もうとしてたんだ。子供の頃のクリスマスなんて些末なことだって。子供の頃の思い出なんてくだらないって。そう思おうとした。

 弱い自分を認めたくなくて、ただ強がっていただけだったんだ。大人になるためには、子供の頃の思い出を捨てるしかない、なんてことを本気で信じてた。

 でもヨシヤが生まれて、それが変わった。間違いだって気がついた。

 なのに何もしなかった。気がついたのに。堪え忍ぶことが強さだって、自分に言い聞かせながら。

 でも、それは正確じゃなくて、そこに自主性が宿っていなければ、それは強さじゃなかったんだ。

 自主性こそが勇気の正体だったんだ。本当はただ、向き合う勇気がなかったんだ。

 ヨシヤと過ごす内に、大切にしていた思い出が蘇ってきた。そうする内に、恋人たちのためだけのクリスマスは、親子のクリスマスに、家族のクリスマスに変わっていた」


「本当のクリスマスを思い出したんだ」


「ああ。クリスマスは何かで独占できるほど、ちっぽけなものじゃなかったんだ。クリスマスはみんなのもので、誰のものでもない。太陽みたいにね。

 次々楽しかったことを思い出したよ。でもそれと同時に、怖い思い出まで顔を覗かせた。

 外套を着ていることを思い出したんだ。脱ごうとどんなに足掻いても、決して脱げなかった外套を」


「でもそれは昔の話」


「そう。昔々の」


「それにあなたは、誰かの父親という外套も着ていた。その外套が力をくれたのね。あなたに覚悟を決めさせた。それであなたの心に火が点いた。その火は燃え広がって、あなたの全身を焼いた。そして、燃えるものは綺麗に消えて、燃えなかったものには焦げ目さえなかった。

 心を病んでしまう人は、燃えないはずのものが燃えて、燃えるべきものが燃えなかった人なの。心の大事なところに火傷を負ってしまうの。火傷は本当に厄介で、治るのには時間がかかる。

 自分じゃどうにもできないもどかしさが、いつまでも続いて、悲しくて、それを信じたくなくて。だって、起こるはずのないことが起こったんだもの。そりゃあびっくりするし、悲しいはず。

 私も昔は、似たような外套を着ていた。でもあなたが、それを燃やしてくれた。人が苦しいのはみんな外套のせい。そして、人が嬉しくなれるのも外套のおかげ。

 親の外套は温かくて、何だかいい匂いがして、本当に愛おしい、少しばかり重たいけれどね。

 ヨシヤはだんだんと大人になっていく。1年毎に、1ヶ月毎に、1日毎に、それこそ1秒毎に。それが、嬉しいの。知らなかったわよ、世の中に、こんなに嬉しいことがあるなんて。

 でも寂しく感じることもある。そんなに焦って大きくならないで、って。嬉しさは寂しさと表裏一体? そこまでじゃないかな? ちょっとは関係してる、そんな感じ?

 あなたのお父さんもそれを感じてるかも。それは、あなたの夢を砕いてしまったことを悔いているかもしれないわ。あなたにもう少し子供でいてほしかった、そう思ったかもしれない。

 でもね、それで大人になったあなたを見て、喜ばしくも思ったかもしれない」


「どうなのかな」


「そう思ってみても、バチは当たらないわ。思うのは、ただ」


「ただより高いものはないって言うけどね」


「……せっかくいい話してるのに台無しじゃない。でも昔の人は凄いわね。まるで今の世の中を予想してたみたい」


「どういうこと?」


「初回無料です、とか、今だけ無料です、とか、そういうやり口多いでしょ?」


「まぁね、でもそういうのは昔からあるんじゃない? 昔も今も変わらないんじゃないかな」


「そうかもね。だとしたなら、今、あなたが感じてる気持ちを、お父様も感じていたはずよ」


「……」


「でしょ?」


「かもな」


「いい話聞いたでしょ?」


「ああ」


「受講料はただでいいよ」


「いや、後が怖いから何かプレゼントするよ」


「えぇー、なによそれ」


「そろそろ行こう」


「いつの間に……」


「えっ?」


 ユミコの見る先には、燃え尽きそうなお線香。あんなにゆっくり燃えていたのに、意識を外すと、こんなに早く燃えるのだから、不思議だ。

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