4
「もしも」
万感の思いと決意を込めて発した声は、思いの外穏やかなものだった。こんな優しくていいのか、穏やかでいいのかと自分自身に問い掛ける。
「もしも……」
改めて発した声も変わらず穏やかだった。自分の声がくすぐったい。こんなに素直でいいのか、こんなに率直でいいのか。
バラバラに砕けていた優しさが一つになっていく。
嫌な思い出、怖い思い出、苦しかったこと、惨めだったこと、それらが折り重なって傘になり、光を拡散させていく。楽しい思い出だって、その傘がなければ、ただ明るいだけの光。でもその傘に通せば優しい光になる。怖い思い出だけを寄せ集めたら、それはもちろん怖いけど、楽しい思い出だけでも、それはどこか空恐ろしい。
「……父と母の思い出が元で、あんたがそうしてそこにいるのなら、私はただ……、いや僕は感謝するよ」
それを聞いて、サンタクロースは面食らったような顔を浮かべた。
「感謝? 急に手の平を返しすぎじゃないか? 憤った方がいいんじゃないのか? 恨んだ方がいいんじゃないか? お前の心の傷を抉らんとするこの俺を、お前は怒鳴るべきなんじゃないか? それにお前は、あんなに早くに死んだ父親を、あんなに喚いてお前を怖がらせた母親を、まだ恨んでいるべきなんじゃないか?」
「周りと比べたら、短い付き合いだったかもしれないし、何で自分だけこんな目に遭わなくちゃいけないんだって思ったりもした。だから恨んだ。
それでもやっぱりさ、好きだったんだよ、あの2人が。そして分かったんだ、2人はそれ以上に僕のことを愛してくれていたって。
親になってみて少し分かったんだ。親から子供への愛は、日増しに大きくなっていくって。昨日までの愛なんて、まるで愛じゃないみたいに。
子供はいつだって、またその日から愛されるんだ。子供はそうして、少しずつ愛し方を学んでいくんだ。誰かに愛されなければ、愛し方なんて分かるはずもない。
だけど、愛は素直にあげられなくて、要らないものも混ざっていて、愛とは知らず、後になってそうと分かる。濁った水が、石や砂に濾過されていくように、可笑しいけれど、透明に澄んで、ようやく目に見えるものなんだ。
そうやって人は一生かけて愛を学んでいく。それは本当に大変なことだ。人は、いろんな人を愛せるようになっていかなきゃいけなくて。
だからさ、親を愛するのなんて、別に親の死後でも遅くはないはず。親はいつだって子供に片想い。だけど、だからこそ可愛いんだ。
ずっと夢に包んで抱いていたいけど、そんなことはできない。ずっと恨んできたけれど、もうそれもおしまいなんだ」
サンタはしばらく何も言わず、ただ、ソファーの背凭れに両腕を乗せながら、私を繁々と眺めつづけた。そして突然、一つ咳払いをした。
「……よく、まあ、そう、愛だなんだと語れるもんだな」
「どうも」
「どうもと来たか……。すっかり白けたよ。萎えちまった。
降参だよ。
どんなお喋りも、萎えてまで喋っていられない。黙るしかないさ。
……ああ、死ぬ時には何も言えないなんてな。今まで散々べらべらと喋ってきたのに、最後の最後に、何も言えないなんて、声も出せなくなるなんて……。
……ああ、せめて手話でも使えたら。俺は覚えが悪くてね。多分、今からじゃあ何年も掛かるだろうな。俺にできるのは精々これくらい……」
サンタは胸の前で十字を切り、声には出さずに何かを呟いた。その口の動きを追って頭に浮かんだ言葉が、そのまま口に衝いて出た。
「……アーメン」
「……正解」
サンタは脱力してソファーに身体を預けた、かと思うと比喩でも何でもなく、ソファーに呑み込まれるように沈んでいった。
「……お前は……惚けてるから……魔法が……まるで通じない……だけどな……惚けたままじゃ……きっと……お前は……本当に……誰かを殺すぜ……まるで無邪気な子供みたいにな……気を付けろ……せいぜいな……惚けたままじゃ……いけないぜ……」
サンタクロースは、風にさらわれた風船のように呆気なく、だけれどゆっくりと消えていく。空に落ちていくように音もなく。
残されたのは、サンタが着ていたその衣装だけ。この間買った、サンタクロースの衣装。
それはクリスマスにだけ使える魔法の外套。
羽織った人間の輪郭は、クリスマスに少しだけ溶けて滲む。木の葉を隠すなら森の中へ。森を隠すなら地球へ。地球を隠すなら星々の中に。サンタクロースが潜むのはクリスマスの中。
聖夜の星はいつもより、ほんのりと明るい気さえして。
もしかしてその中に、クリスマスだけの星が紛れてる? そしらぬ風に輝いて、クリスマスが終われば、流れもしないで消えていく。まるで、いなくなってしまった人たちのように、薄く微笑みながら。
ズボンを履き、上着に両腕を通す。
すると何故か、子供の頃のことを思い出した。
それは記憶というには漠然としすぎた、イメージのようなものだった。時期も場所も定かじゃなくて、だからそこには何もなくて、ただ暖かい日の光が射していて、空間中が優しく光っている。
そんな中に、私は立っていた。何をするでもなく佇んでいると、前触れもなく突然、何かが上から降ってきた。それは何だか温かくて、地面に落ちることなく、私の肩と背中に留まった。
「ほら」
それは父親の声だった。降ってきたと思ったのは上着で、後ろにいた父親が、私に羽織らせてくれたようだ。私は袖に両腕を通す。すると父親は私の肩に両手をおき、
「あとは自分で着れるだろ?」
これだけは覚えてる。確か、自分で服のボタンを留められるようになった頃だ。とはいっても成功率は半分くらい。まるで地滑りしたみたいに、綺麗に掛けちがえたり、ボタンや穴を一つ飛ばして、服に洞窟やお山を作ったりしていた。
だけれど父親の問い掛けに、尻込みすることはなくなっていたはずだ。
確かにそれは、自分自身でできること。
この頃は何もかもが誇らしかったように思う。覚えたてのことが、できるようになったことが、誇らしくて堪らなかった。今では、あの頃とは比べられないほど、たくさんのことができるのに、ああは強く感じない。誇らしさは心の奥底に鳴りを潜め、私たちはそれをすっかり忘れてしまっている。たまには、それを思い出してみるのも悪くない。なにせ今夜はクリスマス。子供はハッピーにしなきゃ。心の中ですやすや眠る、昔の自分にもプレゼントを送ろう。
子供の時は何でもしてもらっていた。それが自分でできるようになり、今じゃしてあげる側になっている。人に優しくできるのは、周りの人に優しくしてもらったから。そして、あの時の誇らしさがあったから。
着替え終わり、プレゼントを小脇に抱える。部屋を出て階段に向かう。家の中は本当に静か。呟きや囁きさえも無粋とばかりに、静まり返っている。
階段を昇る。音を立てないよう一段ずつ慎重に。
家はただ静かに、じっと朝が来るのを待っている。
朝が待ち遠しいからと気を早らせて、夜更かしをしても朝は遠退くばかり。朝には近づけない、朝が来るのを待つしかない。
朝は待ってくれないけれど、急かしもしない。ただ、ゆっくり大きく流れていく。雲よりものんびりと進み、空よりもずっと大きい。そして誰をも裏切らない。
だから焦らなくていい。
2階に上がり、ヨシヤの部屋の前に着いた。
息を整えて、そっとドアノブを捻り、ドアを少しだけ開け、部屋を覗きこむ。
常夜灯に照らされた室内には、静かに影が落ちている。淡い橙と、静かな紺は、無邪気な子供のようにじゃれあっている。
ヨシヤの眠るベットに近づく。起きているかもしれないという心配は、数歩で消えた。安らかな寝息はまるで、夢の中でも微睡んでいるよう。
更に近づいて枕元に立つ。ヨシヤは寝息に劣らずの、安らかな寝顔を浮かべている。安らかすぎて、見ていると無性に不安になる。
他の誰かのうっかりじゃ、この寝顔は歪みすらしないだろう。
だけど私のうっかりが、この寝顔をすっかり消してしまうかもしれないんだ。
こんなに薄暗いのに、何故だかヨシヤの顔の輪郭が、やけにはっきりしていた。
何を当たり前のことをと自分自身思うが、こう感じた。
――確かに自分の子供なんだ――
何を今更と思う。そうじゃないと思ったことはなかったし、疑ったことすらない。
でも、強く感じた。
目の前のこの子は、確かに自分の子供なんだって。
頭の中で何かがピタリと音を立てて、はまった気がした。まるで皆既日食のように。
月と太陽が。朝と夜が。重なり合う。
今までの違和感や悪夢、懐かしい思い出や楽しい出来事。それらすべてが重なっていく。太陽がすぐそこにいるのに、星さえ薄っすら煌めいて。何もかもが集成していく。
この思いに至るために今までがあったなら、まんざら私の人生も捨てたものじゃない。
そして今日で終わりでもない。この思いがあれば生きていける。まるで、決して折れない杖を得たようだ。重なったものはやがて解けていく。物事は集散を繰り返していく。集まっては散って、近付いては遠退いて。
日食の後に見る太陽は、何だかなおさら輝いて、月だってひときわ美しい。星とだって何だかお近づき。
ヨシヤは身動ぎして何かを呟き、また寝息を立てはじめた。
愛おしくて、頬にキスさえしたくなる。揺り起こして、私が君のパパだと伝えたいくらい。
そんな独り善がりよりも、今はもっといい方法がある。
私はそっと、枕元にプレゼントを置いた。
するとヨシヤは、それに呼応するように寝言を呟いた。
「……ママ、大好き」
二の句を待つが、聞こえてくるのは寝息ばかり。ヨシヤは夢の中に帰ってしまったようだ。
クリスマスといえど、そう上手くはいかない。この寝顔が見れただけで充分だ。そう思い踵を返す。するとまた、夢の中から声がした。
「……ついでにパパも」
これでは、あまりに出来すぎだろうか?
いや、これくらいが丁度いいのかもしれない。何てったって今夜はクリスマス。これくらいの出来すぎは許してほしい。
いったいどんな夢を見ているんだろう?
その問いが浮かぶだけで、自然と笑みが零れた。
いつまでも寝顔を見ていたいくらいだが、そうも言っていられない。明日が待ち遠しいのも、また事実なのだから。
ベッドから離れドアに向かい、部屋の外に出る。
ドアを閉める前に私はこう呟いた。
「メリークリスマス」
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