食前酒が効いたのか、夕食の片付けを終えると、ユミコは早々に眠ってしまった。

 夜更かしをすると息巻いていたヨシヤも健闘したものの、潔く諦めて2階に自ら上がっていった。去年まではリビングで寝てしまって、私が担いでベッドまで運んだものだ。そんな些細なことでもヨシヤの成長が感じられる。


 私は自室のクローゼットから紙袋を取り出し、リビングに向かった。紙袋の中身をソファーの上に広げそれを見下ろす。

 真っ赤な生地に、白い綿、そして茶色いボタン。隣には包装されたプレゼントボックス。

 今夜だけこの服に、魔法が宿る。リボンに彩られた箱も、今夜はいっそう煌めく。

 この箱をヨシヤの枕元に置くのは、サンタクロースの仕事。だからこの外套を着なくちゃいけない。万一姿を見られたときの用心。もし、私のままの姿を見られてしまえば、ヨシヤの夢はたちまち霧散する。


 喉の渇きを覚えた。

 何か飲もうと台所に向かう。

 視線を感じてふり向けば、そこにいるのはブレッドマン。

 ジンジャーブレッドマンがそこにいた。

 食器棚の硝子戸の中の、綺麗な器に鎮座している。昨日までいた相方はもういない。独りでポツンと座っている。

 最後の1人になってしまったというように寂しそうな顔。憐れみを誘うような、同情を買うような。


 後ろで突然、物音がした。驚きふりかえる。誰の姿もない。身を固めているとまた音が鳴った。音の正体は、シンクの蛇口から落ちた水滴だった。

 安堵して向きなおる。再び目を合わせたブレッドマンは、笑っているような気がした。何処か曖昧な微笑。挑発ともとれるような笑み。真っ直ぐにこちらを見て、僅かに変化させた表情を、僅かも動かさずに固めている。


 私は食器棚の硝子戸を引いた。

 手を伸ばし、ブレッドマンを手にとって、それを口の中に放り込んだ。

 すぐさま広がる生姜の香り。噛む前からこんなに香るなら、噛んだならさぞかし香ることだろう。

 ボソ、ボリ。

 不思議なことに、生姜の香りは変わらぬどころか消えてしまった。代わりとばかりに広がるのは砂糖の甘味と香ばしさ。

 ボリ、ボソ、という音が鳴る。噛む度に、ボリボリと、ボソボソと。遺骨を噛むとこんな音がするんじゃないかしらんというような、そんな音。

 咀嚼すればするほどに、音は小さく湿っていく。ボソボソがゴニョゴニョに、ボリボリがブツブツに。独り言のような音に変わっていく。


 小麦だった頃の思い出が消えていく、私は子牛への愛だったはず、私のきょうだいたちはみんな砂糖にされちゃったの、私たちを混ぜ合わせて重曹にしたのは誰、僕は鶏になるはずだったのに。


 私たちを乗せる道。たくさんの分岐に枝分かれした道。その道を舗装するのに使われている材料は、他の誰かの選択の結果だ。誰かが選んだ、誰かが選ばされた、何となく、あるいは無理矢理に。西から東から、遠くから近くから、連れてこられて溶かされて、境もなんにもなくなるまで、ぐるぐると掻き回されて。

 足下の冷たい道は、墓石でできている。

 暗い過去と明るい未来をつなぐ道。

 現在は時のくびれ。

 過ぎ去った時間は暗すぎて、やって来る時間は眩しすぎて、目を凝らしてもよく見えない。むしろそうするほどに、輪郭はぼやけていく。

 唯一見えるのは現在だけ。今この時。そしてその現在でさえ、やるべきことを知るのは容易じゃない。

 それが理解できるのは、過去と未来が繋がったとき。過去での絶望と、未来への希望が一繋ぎになったそのときだ。


 シンクで口をすすぎ、水を飲む。

 水は、胃に降りていくのが分かるほど冷たかった。まるで背骨に芯を通されたように感じ、気分がすっきりした。

 台所を後にしてリビングに戻る。


 ソファーには誰かが座っていた。

 脚を投げ出しくつろいで、気配を殺すようなこともなく、当たり前のようにそこに座っていた。部屋に灯るのは豆電球だけだった。だから当然、顔はよく見えない。でも、ユミコやヨシヤではないことは一目で分かる。寝巻きじゃないし、そもそも体型が違う。

 恰幅のいいそいつは、サンタクロースの格好をしていた。

 こんばんはと言い掛けて、それを呑み込む。もっと相応しい挨拶があるじゃないか、と思ったからだ。


「メリークリスマス」


「よう」


 そいつはふてぶてしい声で、言った。

 ソファーの肘かけに左肘を乗せ、その先の手の甲に頬をあて、だらしなくソファーに身を沈めている。


「お前は誰だ?」


「本当は分かってんだろう?」


 私が返事をしないでいると、そいつは隣に置かれたプレゼントボックスを、右手でいじくりはじめた。私はそいつに数歩近づいた。やはり知らない顔だ。色白の顔に、白い髭を蓄えている。プレゼントを触る手つきは、猫でも撫でるかのように優しい。しかし対照的に目付きは鋭い。


「泥棒か?」


「お気楽だな」


「なんだと?」


「俺が誰かって? 決まってるだろう?」


 今までそいつはだらしない声で喋っていたが、急に声色を変えてこう続けた。


「サンタクロースだよ」 


 腹の底からうねり上げるような低音は、残酷な王のような威厳と好奇心に満ちていた。

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