紳士協定が夢のあと
1
「時は金なり」
呟くユミコの手には、換気扇のカバーが握られている。それを尻目に私とヨシヤは、せっせと食材を冷蔵庫にしまい込んでいく。
換気扇掃除の仕上げをしながら、ユミコは感慨深そうに、時は金なりと、頻りに呟いている。
時は金なり。
時間はお金と同じ価値がある、あるいはそれ以上に。そんな意味で使われているが本来の意味はそうじゃない。
本当は、選択の問題や重要さを説いているものだ。選ばなかった選択肢の利益を意識せよと。
もしだらけずにいたら、どれだけ稼げたか。もし眠らずにいたら、どれだけ稼げたか。
私たちはロボットではないし、神様でもない。休まずにはいられないし、選択なんて結局は運まかせ。
でも、もしもの自分を想像できるのは人間だけだ。動物だって日々選択しているし、人間にしても想像力が豊かすぎることの弊害は、少なからずある。
それでもやっぱり想像できるのは素敵なことだ。利益や稼ぎなんていうと聞こえが悪いけど、楽しいこと、誰かの嬉しそうな様子だって、利益には違いないんだから。
どんなクリスマスパーティーになるんだろう。
この人と生きていけたら、どんな人生になるんだろう。
この子はどんな大人になるんだろう。
そんな想像ができるだけで、本当は幸せなんだ。
「よし」
ユミコは満足げに換気扇を眺めていた。換気扇は新品同様で、見違えるようだ。
ユミコは換気扇の羽を指で弾いた。換気扇はやがてすぐに止まった。
「たわし」
ユミコは小さくそう呟くと、換気扇に蓋をつけ、夕食の準備にとりかかった。それを手伝っていると、見慣れないものが目についた。
「ワインだ」
「買ってみたの。食前酒にと思ってね」
普段ユミコは酒を飲まないのに珍しい、そう思っていると、ユミコは食器棚からグラスを2つ取り出し、それにワインを注ぎ入れた。
濃い赤色でグラスは満たされていく。そして僅かな葡萄の香り。
「ありがとう」
食前酒というには早すぎるな。という考えが、表情に出てしまったのか分からないが、ユミコは一瞬、照れたようにはにかんだ。
「食前酒じゃないわね。主婦の嗜み?」
悪癖ともいえるなという思いつきは、胸にしまっておくのが嗜みというものだろう。
私はワインに口をつけた。強い渋味と仄かな甘味。ラベルを見るとフルボディと記載されている。そして、ワインにしてはアルコール度数が高めだった。
グラスを置く固い音。ユミコはグラスを飲み干して、ワインボトルを手にとっていた。
「このワイン、かなり度数高いみたいだぞ」
「そう? 多分盛ってるのよ。販売戦略みたいな感じじゃない? クリスマスに酔っ払いたい人もいるでしょうし」
「いやいや、そんなはず」
「騙されてるのよ」
「いや、騙されてるのは君だよ」
「何に?」
「飲み口のよさに」
「自分の舌に騙されてるのね。でもなー、あんまりそういう数字を鵜呑みにしすぎるのも、どうかなーと思うよ? 飲み口がいいってことは、飲めっ、大丈夫だっ、ていうゴーサインだっていう考えもあるんじゃない?」
「まぁ一理くらいならあげるよ」
「感じわるー」
酔っ払ったわけではないのだろうが、ユミコは酔っ払いのような口調だ。回っているのは興なのだろう。
「今は何にでも数字をつけるわよね。でもね、つけているのは人間だもの、ちっとぐらい思惑の方へ傾くのは当然じゃない?」
「なるほどね。その通りだね」
「鵜呑みにしすぎよ。話が終わっちゃう!」
「飲みすぎなければいいよ」
「ええ、そうするわ、食前酒で眠り姫なんて、お子ちゃまのすることよ」
「お子ちゃまはそもそもお酒を飲まないよ」
「そういう話じゃないのよ!」
そんな話をしながらも、夕食の準備は着々と整っていった。楽しいことの準備はそれさえも楽しくて。そして、それを自覚すると、ますます楽しくなる。
いつだったか子供の頃に、オルゴールのネジを巻いていて、自分の顔がほころんでいることに気が付いて、オルゴールが特別に思えて、ネジを巻くのが好きで堪らなくなった。独特な音。不思議な反発。小さなネジの可愛らしさ。
だけど、そう感じるのも、この先に大好きな音色が待っていると、知っているからこそで。
楽しいと確信できるのは記憶のおかげで。
晩餐の準備が楽しいのも同じことで。
ネジはしっかり巻き終わり。
手を放せば、後はオルゴールの独擅場で。
年甲斐もなくはしゃぐ自分自身に驚いて。
それよりはしゃぐユミコにもっと驚いて。
大人びたヨシヤの言葉にさらに驚いて。
楽しい時間は、オルゴールのようにあっという間にすぎていく。
巻かれたネジは緩みながら解けていく。
メロディーの綻びはパーティーが終わる寂しさ。
メロディーは徐々に形を保てなくなっていき。
終わってしまえば最後の音の、音階さえ思い出せなくなる。
イブに、こんなにはしゃいでしまうのにはわけがあって、我が家では、クリスマスが少ししめやかになってしまうからだ。毎年、少し申し訳なく思っていた。でもそれも、今年から変わるんじゃないかなんて思う。
悲しいときに悲しい音楽を聴くと、気分が晴れるなんて話がある。だけれど、悲しいことがあったって、ずっと悲しんでなきゃいけないわけじゃない。とことん悲しんだなら、もう悲しい曲は止めてしまおう。
悲しいことも、悲しい音楽も、これからの人生をきっと明るくしてくれる。それらは私たちのネジを、いくらか巻いてくれたんだ。だったなら歌わない道理はない。幸せな音楽を。楽しい歌を。
人間は楽器みたいに複雑じゃないから、同時に2つの音は鳴らせない。
幸せな歌を唄うには、悲しい音楽を止めなくちゃいけない。
だから私は服を羽織り、袖に腕を通す。
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