紳士協定が夢のあと

「時は金なり」


 呟くユミコの手には、換気扇のカバーが握られている。それを尻目に私とヨシヤは、せっせと食材を冷蔵庫にしまい込んでいく。

 換気扇掃除の仕上げをしながら、ユミコは感慨深そうに、時は金なりと、頻りに呟いている。


 時は金なり。

 時間はお金と同じ価値がある、あるいはそれ以上に。そんな意味で使われているが本来の意味はそうじゃない。

 本当は、選択の問題や重要さを説いているものだ。選ばなかった選択肢の利益を意識せよと。

 もしだらけずにいたら、どれだけ稼げたか。もし眠らずにいたら、どれだけ稼げたか。

 私たちはロボットではないし、神様でもない。休まずにはいられないし、選択なんて結局は運まかせ。


 でも、もしもの自分を想像できるのは人間だけだ。動物だって日々選択しているし、人間にしても想像力が豊かすぎることの弊害は、少なからずある。

 それでもやっぱり想像できるのは素敵なことだ。利益や稼ぎなんていうと聞こえが悪いけど、楽しいこと、誰かの嬉しそうな様子だって、利益には違いないんだから。

 どんなクリスマスパーティーになるんだろう。

 この人と生きていけたら、どんな人生になるんだろう。

 この子はどんな大人になるんだろう。

 そんな想像ができるだけで、本当は幸せなんだ。


「よし」


 ユミコは満足げに換気扇を眺めていた。換気扇は新品同様で、見違えるようだ。

 ユミコは換気扇の羽を指で弾いた。換気扇はやがてすぐに止まった。


「たわし」


 ユミコは小さくそう呟くと、換気扇に蓋をつけ、夕食の準備にとりかかった。それを手伝っていると、見慣れないものが目についた。


「ワインだ」


「買ってみたの。食前酒にと思ってね」


 普段ユミコは酒を飲まないのに珍しい、そう思っていると、ユミコは食器棚からグラスを2つ取り出し、それにワインを注ぎ入れた。

 濃い赤色でグラスは満たされていく。そして僅かな葡萄の香り。


「ありがとう」


 食前酒というには早すぎるな。という考えが、表情に出てしまったのか分からないが、ユミコは一瞬、照れたようにはにかんだ。


「食前酒じゃないわね。主婦の嗜み?」


 悪癖ともいえるなという思いつきは、胸にしまっておくのが嗜みというものだろう。

 私はワインに口をつけた。強い渋味と仄かな甘味。ラベルを見るとフルボディと記載されている。そして、ワインにしてはアルコール度数が高めだった。

 グラスを置く固い音。ユミコはグラスを飲み干して、ワインボトルを手にとっていた。


「このワイン、かなり度数高いみたいだぞ」


「そう? 多分盛ってるのよ。販売戦略みたいな感じじゃない? クリスマスに酔っ払いたい人もいるでしょうし」


「いやいや、そんなはず」


「騙されてるのよ」


「いや、騙されてるのは君だよ」


「何に?」


「飲み口のよさに」


「自分の舌に騙されてるのね。でもなー、あんまりそういう数字を鵜呑みにしすぎるのも、どうかなーと思うよ? 飲み口がいいってことは、飲めっ、大丈夫だっ、ていうゴーサインだっていう考えもあるんじゃない?」


「まぁ一理くらいならあげるよ」


「感じわるー」


 酔っ払ったわけではないのだろうが、ユミコは酔っ払いのような口調だ。回っているのは興なのだろう。


「今は何にでも数字をつけるわよね。でもね、つけているのは人間だもの、ちっとぐらい思惑の方へ傾くのは当然じゃない?」


「なるほどね。その通りだね」


「鵜呑みにしすぎよ。話が終わっちゃう!」


「飲みすぎなければいいよ」


「ええ、そうするわ、食前酒で眠り姫なんて、お子ちゃまのすることよ」


「お子ちゃまはそもそもお酒を飲まないよ」


「そういう話じゃないのよ!」


 そんな話をしながらも、夕食の準備は着々と整っていった。楽しいことの準備はそれさえも楽しくて。そして、それを自覚すると、ますます楽しくなる。

 いつだったか子供の頃に、オルゴールのネジを巻いていて、自分の顔がほころんでいることに気が付いて、オルゴールが特別に思えて、ネジを巻くのが好きで堪らなくなった。独特な音。不思議な反発。小さなネジの可愛らしさ。

 だけど、そう感じるのも、この先に大好きな音色が待っていると、知っているからこそで。


 楽しいと確信できるのは記憶のおかげで。

 晩餐の準備が楽しいのも同じことで。

 ネジはしっかり巻き終わり。

 手を放せば、後はオルゴールの独擅場で。

 年甲斐もなくはしゃぐ自分自身に驚いて。

 それよりはしゃぐユミコにもっと驚いて。

 大人びたヨシヤの言葉にさらに驚いて。

 楽しい時間は、オルゴールのようにあっという間にすぎていく。

 巻かれたネジは緩みながら解けていく。

 メロディーの綻びはパーティーが終わる寂しさ。

 メロディーは徐々に形を保てなくなっていき。

 終わってしまえば最後の音の、音階さえ思い出せなくなる。

 イブに、こんなにはしゃいでしまうのにはわけがあって、我が家では、クリスマスが少ししめやかになってしまうからだ。毎年、少し申し訳なく思っていた。でもそれも、今年から変わるんじゃないかなんて思う。


 悲しいときに悲しい音楽を聴くと、気分が晴れるなんて話がある。だけれど、悲しいことがあったって、ずっと悲しんでなきゃいけないわけじゃない。とことん悲しんだなら、もう悲しい曲は止めてしまおう。

 悲しいことも、悲しい音楽も、これからの人生をきっと明るくしてくれる。それらは私たちのネジを、いくらか巻いてくれたんだ。だったなら歌わない道理はない。幸せな音楽を。楽しい歌を。

 人間は楽器みたいに複雑じゃないから、同時に2つの音は鳴らせない。

 幸せな歌を唄うには、悲しい音楽を止めなくちゃいけない。

 だから私は服を羽織り、袖に腕を通す。

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