「パパもよく、怖い夢を見るんだ」


「パパも?」


「ああ」


「どんな?」


「ヨシヤと同じだよ」


「怖い夢?」


「ああ、本当に怖い夢」


「どんな夢?」


「忘れたよ」


「パパも忘れん坊なんだ」


「そう、パパは忘れん坊。忘れん坊なんだから、全部忘れられたらいいんだけどな、忘れたいことは忘れられないんだ」


「忘れ、られん坊?」


「ん? そうだよ。パパは忘れられん坊にもなるんだ」


「第二フォームみたい。キックライダーの」


「んん? まぁそんな感じかな? パパもヨシヤと同じで、不安な気持ちは覚えてるんだ。どうして不安なのか分からないのに不思議だよな。中身は空っぽなのに、やっぱり怖いんだ」


「かまくら」


 と、それだけヨシヤは呟いた。


「ん?」


「中身がないから。それに、朝が来れば融けちゃうし」


「おお、確かに」


「パパもおんなじなんだ」


「ああ、そうだよ。だけどな……昔よりは怖くない」


「昔?」


 ヨシヤの声はどこか不機嫌そう。

 ヨシヤは昔って言葉が少しだけ嫌い。昨日も、今日も、明日も大好きなのに。


「パパがヨシヤよりも小さい頃」


「大昔だね」


 大袈裟な、と笑いそうになるが、感覚的にはまさしくその通りで、驚いてしまう。大昔なんて言葉で語れるくらいに、あの頃は遠ざかってしまった。隔たったとすらいえるくらいに。


「どうして怖くなくなったの?」


「パパも、パパにおんなじようなことを話したことがあったんだ。分かるか? パパのパパ。ヨシヤにしてみたら、おじいちゃんか」


 おじいちゃんという呼称と、父が全く重ならない。年老いた父を無理に思い浮かべようとしても、脳裏に浮かぶのは変装でもしたかのような父の姿だけ。違和感しかない。


「ご先祖さま?」


 ヨシヤの言葉に思わず吹き出す。てっきり不服な顔をするかと思いきや、ヨシヤは少し笑っていた。狙って言ったのかもしれない。


「というかヨシヤ。ママのパパとママは知ってるだろ?」


「うーん、そうたけど……、パパのパパには会ったことないしなぁ」


「そりゃあそうか」


「だから、ご先祖さまって、感じ」


 自分の生まれる前のことなんて、誰にとっても紀元前で。昔話を聞いたって、歴史を勉強したって、それは変わらない。


「そのご先祖さまがだ」


「うん」


「得意な顔で、言うんだよ。気にすんなって」


「……それだけ?」


 それができたら苦労はないと思ったのか、ヨシヤは憤慨ぎみだ。


「そう、それだけ。でもな、ご先祖さまはな、見てるだけで、くよくよしてるのが馬鹿らしくなるような顔をするんだよ。

 今でもな、その顔を思い出すと、肩の力が抜けて、少しだけ楽になる。どう言ったらいいかな、本当に得意そうな顔なんだ」


「得意な顔ってなに?」


「なんて言ったらいいかな、余裕そうな? 誇らしそうな? 満足そうな?」


「ますます、わかんないー」


 あの顔は言葉では到底伝えられない。それくらいに、何ともいえない顔。だから私は別の方法を試してみる。多分それでも伝わらないだろうと思いながらも。


「こーんな顔だ」


 言って私は、父の表情の真似をした。それだけで実際に、得意になってくるから不思議なものだ。

 だけれどヨシヤはきょとんとするばかり。やっぱり伝わらなかったかと思っていると、ヨシヤが言った。


「いつもパパがしてる顔じゃん」


「いつも?」


 そんなはずない。無理して顔を作っているから、今にも顔がひきつりそうだというのに。


「いつもじゃないか。あのとき、あのときにしてる」


「あのとき? あのときって、どのとき?」


「あのときだよ、……うーん、ほら!」


 と言ってヨシヤは表情を弾けさせる。そしてすぐさま、言葉を続けた。


「最近のなんとかは、とか、昔はとか言うとき、その顔してるよ」


「……ほんとか?」


 自分ではまったく自覚がなかった。信じられない、そんな思いが顔に出てしまったのかヨシヤは少しむっとしていた。


「本当だよ、こーんな顔でしょ?」


 そう言ってヨシヤが浮かべたのは、あの表情だった。

 見ていると不思議と懐かしさが込み上げる。

 あの悪戯っ子の顔だった。

 そうか、この顔は私の顔だったんだ。ヨシヤは私の顔を真似ていたんだ。

 そして、この表情は父の表情でもあったんだ。

 父の表情を、私が知らず真似ていて、更にそれをヨシヤが真似ていたんだ。不思議で堪らなかったそれは、私が自分で手渡したものだったんだ。


 分かる、分かる、今なら分かる。懐かしくて当然だ。何でこんなにどうしようもないくらい懐かしいのかと、不思議でならなかった。父の写真よりも、父の遺品よりも懐かしく感じるなんておかしいと思っていた。最上の懐かしさをもたらすのが、何故よりによってヨシヤなのかと怖いくらいだった。


 不思議なことなんて何もなかったんだ。改めて考えれば、写真の中の気取った父の表情なんて私は知らないし、遺影の中の父の表情だって私は知らなかったんだ。

 いつも私が見てたのは、父のくだけた顔。今、ヨシヤが浮かべているような、力の抜けた顔。だからこんなに懐かしい。黙した父の表情よりも、父じゃないけれど生きた父の表情にこそ、私は懐かしさを感じていたんだ。


 遠くにまた信号が見えてくる。一番シャープで、輪郭のはっきりした青信号。その丸い青の輪郭が、今は少しだけ崩れていた。

 飾りの目、何も見ていない目、ただ語り掛けるだけの目。進んでもいいんだよ、と。


「ヨシヤはやっぱり真似が上手いな」


 私は言った。ヨシヤの方を向かないのは安全運転のため、青信号だから絶対安全ってわけじゃないんだから。


「友達にもよく言われる、まるでマトリョーシカだってさ」


「マトリョーシカ? ロシアのか? それは気が利いてるな」


「ううん、反対だよ。全然、気が利かない」


「そう、か?」


「僕って、ちょっと小さめだから」


 確かにヨシヤは同学年の中では小柄な方だ。


「……まぁ、これから大きくなるさ」


「うん。だから全然、気にしてない。その内、パパとママも追い抜くかもね」


「頼もしいよ。……パパも負けてられないな」


「えっ? パパも? まだ伸びる?」


「冗談だよ」


「えー、だったらパパの冗談はつまんない」


「そうだな、大人の冗談はつまんないんだ」


「子供の冗談は面白い?」


「ああ、子供はみんなコメディアンの卵だからな」


「卵?」


「頑張れば、なれるってことさ」


「僕もなれる?」


「なりたいと思って、努力したなら、なれるかもしれない」


「出てのお楽しみ?」


「出ての? まぁ……そうだな」


「カプセルトイみたいな?」


「カプセル、なんだって?」


「お金入れて、回して、ポンのやつ」


「ああ……最近はそんな風に言うんだな」


「友達の1人がおかしいんだよ」


「おかしい?」


「何でも本当の名前……じゃなくて、正式名称? ……で言わないと気が済まないんだ」


「……それは難儀だな」


「なんぎ?」


「何だかなぁ、ってこと」


「うん、そんな感じかも。それ以外は最高なんだけど」


「ますます、なんだかなぁだな」


「あだ名もダメなんだよ」


「んっ? あだ名も?」


「うん、まぁ僕はその方が嬉しいんだけど」


「ヨシヤはなんてあだ名で呼ばれてるんだ?」


 ヨシヤはしまったというように息を呑んだ。

 信号に近づくに連れ、また車内が青く染まっていく。真っ青な日の出を眺めたと思うと、もう遠退いて、背後に沈む真っ青な夕陽。一瞬のブルーアワー。ささやかな魔法はすぐとけて、車内は一瞬で影の世界に逆もどり。


「ロシア」


 呟くヨシヤの声は射的の弾のそれのように軽くて、思わず口に衝いたというようだった。私が、キャラメルの箱のようにすぐさま反応できずにいると、ヨシヤはまた同じ言葉を呟いた。


「ロシア」


 なるほどなと思い、私はヨシヤに顔を向けた。


「パパ、泣いてるの?」


 心配そうにヨシヤは言った。だから私は心配ないように返す。


「違うよ、特大のあくびをしたんだよ」


「えっ? 全然、気がつかなかった」


「パパぐらいになると、こっそりあくびができるようになるんだ」


「でも、涙は出るんだ」


「今もしたぞ」


「え! 嘘だぁ!」


「ほんとさ」


「信じられない」


「ヨシヤが分かんないだけさ、今もしたぞ?」


「絶対、嘘!」


 ヨシヤは大声で笑い始める。した、しない、うそ、ほんと、たったそれだけのやりとりで笑い合う。つぼに入ったヨシヤを、私はここぞとばかりに攻め立てた。こういうとき、私はついついやりすぎる。数分の後、ヨシヤは笑いすぎてぐったりしていた。笑うヨシヤを見たいとて、さすがにこれでは度がすぎる。


「ねぇ、パパ」


「どうした?」


「なんだか眠くなっちゃった」


 ヨシヤの語尾は切れ目なくあくびに変わった。


「無理しないで寝ていいぞ? 家に着いたら起こしてやるから」


「ううん……起きてる、なんだかもったいなくて」


「もったいない?」


「クリスマスなのに……」


 その語尾はもはや寝言のよう、なんて思っていると、ヨシヤは眠りに落ちていた。頭をヘッドレストに転がして、シートベルトに身を任せ、そっぽを向いている。


「もったいないか」


 なくなって、もったいない。余ってしまって、もったいない。粗末にして、もったいない。

 もったいないも、色々だ。

 特別な日は、もったいないさえも特別で。やりそびれたことがやたらと輝く。それは誰かを羨むよりもずっと強い感情だ。隣の芝どころじゃなく、エメラルドのように光輝く。やるはずだったこと、やっていたであろうこと、仮定の自分が何だか憎らしくなる。すべてやりたいのが人間だから、たくさんの未来を視るのが人間だから。だけどやっぱり身は一つ。


 物事は順番に進んでいく。

 決して同時には起こらない。

 ケーキを食べながら楽しい夢は見れないし、箱を開ける前のドキドキと、開けた後のウキウキは決して同時に味わえない。

 過去を懐かしめるのも、未来を想像できるのも、時間が存在するからだ。


 サンタクロースは大荷物に見えるけど、毎年夜の内にプレゼントを配り終えているのだから、あれで適量を見計らっているのだろう。

 身の丈以上のことをしていたら、雪に足をとられ、身動きできなくなるのが当然の末路。

 過去の悪夢、誰かの悪夢、見たであろう悪夢、それらを見る必要なんてないんだ。

 余計なものは抱え込まなくていい。

 今の幸せと過去の悪夢を結びつける必要なんてない。開けた箱を無理に閉じる必要はないし、開けなかった箱を無理に開ける必要はないんだ。

 背負い込んでしまったものは、少しずつ捨てていけばいい。

 少しずつ積荷を降ろしていけばいい。


 尊い伝説が、家族で楽しむ日になるのだから、すべてのことはどうとでも変われるんだ。

 なりたいように変わっていける。

 すぐにとはいかない、時間が存在するから。

 でも時間のお陰で、悪夢を時に流すことができる。

 ハンドベルの美しい音色も、やがては遠くへ消えていく。ハンドベルの中へと音は帰っていく。限りなく遠くへ、ハンドベルの中心の彼方まで。まるで、星を呑む黒い星のように。

 怖かったこと、悲しかったこと、それらもハンドベルの音色と同じだ。

 自分自身に帰ってきて、心の奥底に収まっていく。ずっと遠くへ、心の中の彼方まで。

 怖いことなんか、何にもない。

 耳を澄まして、じっとしていればいつの間にか消えている。あんなに怖かったのに、消えてしまえば、何だか却って寂しいくらい。何だか、懐かしさすら感じてしまうくらいで。


 前方に標識が見えてきた。黄色地に黒で何か書いてある。あの文字に似ている。

 ト。

 そう、トに似ている。

 トが少しだけ腕を上げたら、トが少しだけシャキッとしたらああなる。そうしたら多分、見分けはつかなくなる。

 ト型交差点。

 前方に、ト型交差点あり。

 ト。

 少し先に、トがある。

 トが回ると、Tになる。

 そして、Tは丁に似てる。

 丁は象形文字。釘の形が元で、丁が生れた。そしてそれが転じて、釘になった。だから安定するという意がある。ひと度釘を打てば、ものは動かなくなる。

 道は動かない。

 釘を打ったのは誰だろう、神様?

 違う、打ったのは、人間。

 鉈で枝を切り、草を踏み倒し、土を踏み固め、終いにはセメントで固めてしまった。

 もう道は消えなくなった。

 いつまでも残り続ける。まるで何かの勲章か、晒首のように。街と街を繋いだ功績か、動物を追いやった功罪か。


 ある場所の発展は、同時に別の場所の衰退で。釘は、代償なしには、1本だって打てはしない。もう人間は、動物を追い立てなければ生きていけない。

 人間の作った道は、獣にとっては獣道。人間だって所詮は獣。

 道は動かない。道の意義はそれだけ。

 来た道は動かない、変わらない。行く道は、分からない。

 それだけが唯一の救い。

 動物と上手くやっていく未来だって、あるのかもしれない。可能性は零じゃない。

 行く道は分からないのだから。

 どんなことでも起こりうる。

 分からないは、希望と同じ。

 世界は分からないだらけ。

 ト型交差点を、左に曲がりさえしなければ、いくらでも可能性は広がっていく。まるで星座のように無限に。


 昔、人がまだ少なかった頃、人はたくさんの星座を作った。もし、今を生きる私たち全員が夜空を見上げたら、どれだけの星座ができるだろう。

 夜道だとしても下を向いてばかりではいけない。

 足元には、動物の血の染み込んだ、後ろめたい道がある。それは事実だし、決して逃れられない。でも、後ろめたく思ったり後悔するだけじゃ、なんともならないこともある。

 夜空を見上げて、輝く動物たちを思い描く方が、却って活路を見出せるかもしれない。

 希望は脆くて次から次へと消えていく、だから次から次へと付け足さないと、形を保てない。

 星のようにたくさん消えて、生まれて。

 だから絶えず進まなくちゃいけない。

 空を見上げたり、たまには後ろを振り返ったり、足元を見たりしながらも、必ず前に進まなくちゃいけない。

 ト型も、十字も、五叉路も、七辻も、臆せずに。

 ウィンカーを右に光らせて、車を右折させた。

 ここを曲がれば家まであと少しだ。

 隣でヨシヤが身動いだ。車が曲がった拍子に起きたらしい。


「……多分、寝てたかもしれない」


「そうだったか?」


 何となく惚けてみる。


「変な夢みた」


「それは寝てるな。また怖い夢か?」


 思い出そうとするように、ヨシヤは目を閉じた。


「……うーん、ううん、もういい加減にしてーって夢」


 笑う私を気にもせず、ヨシヤは話を続けた。


「……たくさんの人と一緒におみこしを担いでるんだけど、何だか、道に迷ったみたいでずーっと担いで歩くの」


「ああ、それは疲れるな」


「ううん、夢だからか疲れないんだよ。でも、おんなじ所をぐるぐる回ったりして、嫌になってくるんだけど、それよりも、周りの人たちがずーっとずーっと楽しそうで、その楽しそうなのについていけなくて、それで、もういい加減にしてーなの」 


「嫌な話だな」


「街の人も楽しそうでさ、何度も何度も道を空けてくれて、それでも楽しそうで、……僕は大声で、もう誰か止めてーって言ったけど、ぜんぜん止まらないの」


「よく頑張ったな」


「笑わないで」


「はは、すまん。で、どうやって終わったんだ?」


「終わり? ……うーん、そう、なんかね。道の向こうから、僕たちとおんなじようなおみこしが来て、何か空気がピリッとして終わった」


「夢らしい終わり方だ」


「うん、夢みたい」


 ヨシヤは閉じていた目を開き、少しの間静止したかと思うと、きょろきょろと辺りを見渡した。


「あれ、もうすぐ家じゃん」


「ああ、やっとな」


 ヨシヤは後部座席をふり向いた。


「ママ、すごいね、まだ寝てるよ」 


「いい加減、起こさないとな」


「まるで金星みたい」


「えっ? 金星?」

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