8
僕はいつの間にか目を開けていて、目の前には棺が低く横たわっていた。棺の蓋は開き、その中にはパパが入っている。
耳鳴りがして、頭がぼおっとして、身体に力が入らなくて、何だかお腹に穴が空いてるみたいで、今にも身体が宙に浮きそうなくらい。だけど頭の痺れたように重くて、何も考えられない。何だっけ。僕は何をしてたんだっけ。
僕はふと自分の両手を見た。手は赤く染まっていた。微かに金気くさい匂いがした。僕の両手には血が付いていた。
そこで、ああ、そうだったと、思い出す。
棺に、パパが好きだった物を入れてあげようと親戚の1人が言い出して、何故か僕が入れることになった。
言い出した人が入れればいいのに。
入れ終えるまで気が付かなかったけど、棺の底に血が溜まっていた。その血はパパの肘から流れ出たものだった。暖かくもないし、冷たくもない、常温の血。
あの日、救急車で病院に行った日に、救急車に乗る前に、ベッドが倒れてパパは肘を少しだけ切った。その傷は、絆創膏を貼って2~3日したら、治っているような小さなものだったはず。
もうとっくに治っているはずなのに。
眠っているだけなんじゃないかって、心の何処かで思ってた。突然、添えられた花を撒き散らしながら起き上がって、驚く僕を笑うんじゃないか、なんて思ったりした。
でもそんな想像は消えてなくなる。
パパ死んじゃったんだ。
寝ているわけじゃないんだ。
僕は、親戚にトイレに連れていかれ、手を洗わされた。戻ると、式場の人に除菌液の染み込んだガーゼを渡されて、言われるまま僕はそれで手を擦った。しっかりと洗ったはずなのにガーゼは赤く汚れていった。僕の爪の間は、しばらくの間、赤黒く染まっていた。
ずっと耳鳴りがしてる。血は止まらない、傷は塞がらない、傷は治らない、もう起きない、もう生き返らない。
パパはもう何をしたって元には戻らない。
血を隠すためなのか、パパの周りには、追加でたくさんの花が敷き詰められた。
止血も手当てもなく、ただ花を被せただけ。それに対して、怒りも悲しみもなかった。ただ、花もパパも同じなんだと思った。もう生きられないんだ。根っ子をむしり取られた花も、血を止められなくなったパパも、もう元には戻らない。一線を越えてしまって、もうどうにもならないんだ。
色とりどりの花の色彩は、とても綺麗だった。でも、ひと度、その底には血が流れているんだと意識すると、色が反転して、途端にグロテスクになった。グラデーションが解けていく。花一本一本に死に掛けた命が吹き込まれる。もう長くは生きられないし、もう元には戻れない花たち。でも花たちはまだ辛うじて生きている。息も絶え絶えになりながら、それでも生きている。
死期の迫る花の群れ、そこに沈むパパの姿は際立って、こちらに迫り来るようだ。
ママの泣き声や、周りの大人の話し声が消えていく。
一輪の花が、痙攣するようにぴくっと動いた気がした。別の一輪もそれに続く。また一輪また一輪と、痙攣は連鎖していく。いくら死に掛けているからって、花は痙攣なんかしないはず。違ったっけ? 花は死に掛けると痙攣するものなんだっけ?
花はこんなに盛んに動くのに、パパは少しも動かない。
お線香の香りが鼻につく。甘ったるくて懐かしい。
こんなにたくさんの花を焼いたなら、どんなにいい匂いがするだろう。でもその匂いすら、今から焼かれてしまう。
一瞬で燃える花、少しずつ腐る花、それらが頭に浮かぶ。お互い、看取り看取られし、じっと相手の苦痛に思いを馳せて、自分の苦しみを忘れようと努める。そのせいか、花は段々ゆっくり燃えて、一瞬で腐るようになっていく。のろのろ燃えて、目を離すと腐ってる。燃えるお線香、見詰めていると腐るようにゆっくり、目を離すと燃えるように一瞬。
時間の流れがおかしい。感覚が麻痺してるみたい。あの日から。倒れたパパを見付けた日から。スロー再生、かと思えば早回し。いつの間にか時間が過ぎて、かと思えば一瞬が永遠にも感じられる。
こんなに時間の流れがおかしいのに、どんなに願っても、逆再生は起こらない、時計の針は少したりとも戻らない。
気が付いたら辺りは暗くなっていて、僕は布団の中にいた。
聞こえるのは、骨の鳴るような時計の秒針の音だけ。
部屋は完全に真っ暗ではなくて、蝋燭の灯りが、部屋を揺らしている。棺のそばの台の上に置かれた盛籠に、様々な果物が入っていて、蝋燭の灯りで、妖しく揺らめいていた。
いつの間に夜になったんだろう。いつの間に布団に入ったんだろう。寝惚けているのか、思い出せない。まるで時間が消えたみたい。まるで魔法みたいだ。
部屋の壁に、大きな紙袋が立て掛けてあった。中身が少しはみ出ている。ぼんやりとした輪郭。蝋燭に照らされてうごめく様は、何かの動物のよう。もそもそと身じろいで、かさかさと紙袋を鳴らす。本当に動いている? 今、本当に音がしたような気がした。
かさかさ。聞こえた。
かさかさ。確かに聞こえた。
蝋燭の揺れに合わせて、かさかさと。
身じろいで、かさかさと。
かさかさ鳴って、ゆらゆらと。
身じろぎする何かが、部屋を揺らしているような錯覚。何も変化はないはずなのに、何が本当なのかだんだん分からなくなっていく。
紙袋が突然、倒れた。勢いよく倒れたのに不思議と音はしなかった。まるで受け身でもとったみたい。紙袋の中身を凝視する。本当に動物だろうか? 毛皮みたいに見える。赤い毛皮。本当に真っ赤。赤っぽい毛皮ならあるだろうけど、あれは本当に真っ赤だ。こんな毛皮の動物いたっけ? 赤い絵具そのもののような色合い。
赤い毛皮がまた身動ぎしはじめる。紙袋から這い出ようとしている。カタツムリのように鈍重な歩み。紙袋は脱ぎ捨てられて、毛皮の全容が顕になる。
一抱えはあるような、赤い塊。
塊は紙袋を出たきり動かない。何をしているんだろう。もしかして僕を見てる?
赤い塊が、突然、首をもたげた。まるで劇場の幕が上がるように、ゆっくり頭を上げていく。どんどん首が伸びていく。キリン? 赤いキリン? 違うこれは首じゃない。
顔だと思っていたものは、まるで羽のようにゆっくりと広がっていく。蝋燭の灯りで揺れるそれは、さなぎを脱いだばかりの蝶の羽のように、濡れているかのようで、美しくなることが約束された醜さに溢れていた。
広がる赤い羽。
塊が宙に浮かび上がった。羽があるのに羽ばたきはせず、宙にゆらゆら揺れはじめた。まるで首吊りのように。だけど首吊りみたいに一所に留まることはなく、部屋中を動き回りはじめた。カタツムリのようにのろのろと、首吊りのようにゆらゆらと。
漂うそれが、丁度、蝋燭の上を通り掛かった。
蝋燭の光が照らしたそれは、サンタクロースの服だった。中身はなく、上着だけが宙に浮いていた。
見えない誰かが着ているように膨らんでいる。
これは夢の抜殻だ。脱皮して抜殻だけを残し、夢は何処かへ消えたんだ。
もう僕の中のサンタクロースは消えてしまった。
パパが死んで、僕の夢が消えたのか。
僕の夢が消えたから、パパは死んだのか。
分からない、分からない。分かることは分かるし、分からないことは分からない、それは当たり前のこと。
表裏一体なものは、止めどなく錯覚を生み出し、幻想を吐き出す。真実が例え1つでも、限りなく真実に近いものを、もう1つ作り出す。幻想は壮大な錯覚。錯覚はささやかな幻想。
パパは僕のせいで死んだのだと言うと、周りの人たちはそれは違うと繰り返した。ただ早い遅いの違いだと。パパはパパの都合で死んだのだと。確かにそうだと僕も思った。それが本当だと思った。でもこうも思った。もしも僕がプレゼントをねだらなかったら、パパはなにも、クリスマスに死ぬことはなかったんじゃないかって、サンタクロースの格好で死ぬことはなかったんじゃないかって、なにも、息子の夢を、自分で壊すことはなかったんじゃないかって。
プレゼントと引き換えに、サンタクロースは、パパを幻想の世界へと連れ去った。真実かは別として、それは僕にとっては、本当のことに思えた。
サンタクロースの抜殻が漂う。クラゲよりも無気力に、かといい藻屑のように、流れに身を任せるわけでもない。夢遊病患者のように夢を糧に動いている。
あれを着ている姿を誰かに見られたら、僕も連れ去られてしまうのだろうか。そうすれば、パパにまた会えるかもしれない。そうは思っても、あんな真っ赤な服を着るなんて、怖くてできない。
何処からどう見ても、サンタの服にしか見えないあれに袖を通すなんて。あれを着たなら、すぐさまサンタの仲間入り。そのための服だから。そのためにしか使えないのだから。あれは幻想の外套だ。子供に幻想を見せる服。幻想を見る目で、こちらも見られる。幻想に見られる。覗くものは覗かれている。見せるものは見られている。
漂う服のすその末端が、僅かに蝋燭の火を掠めた。途端、火が燃え移った。火はもどかしいほどゆっくりと広がっていく。音もさせず、灰も落とさず、煙さえ上げずに、消えるように燃えていく。枯葉が燃えていくように、薄い炎の縁に呑み込まれていく。
時間を掛けて、服はようやく燃え尽き、消えた。それだけで何もない。何も変わらない。蝋燭が揺れて、秒針がただ鳴るばかり。
気を張り詰めていたせいか酷く喉が渇いていた。水でも飲もうと立ち上がろうとして、違和感。身体が動かない。金縛りだろうか? と思っていると身体が動いた。ただし、僕の意に反して勝手に身体が動いた。
身体がゆっくりと持ち上がっていった。頭が離れ、背中が離れ、腰も離れ、とうとう足も離れ、僕は宙に浮かび上がった。
何かに引き上げられる感覚はなく、魔法のように宙に浮いている。
僕はふわふわと、天井近くまで昇った。
高い所から飛び降りたときに感じる、はらわたを抜かれるような感覚が少しだけあった。
怖くなって下を見た。首は動かせるのか、だったら身体だって動かせるんじゃないかと思った瞬間、それに気付いた。
僕はいつの間にか、真っ赤な服を着ていた。
動物の毛皮のように柔らかい服。絵具のような赤。綿菓子のような白いふわふわの襟袖。クッキーみたいな茶色いボタン。
サンタクロースの制服。着ることが許されるのはサンタクロースだけ。着たならば否応なしにサンタクロースになってしまう。
僕は服を脱ごうとした。ボタンを外そうとしても何故かできない。全身を使って、もがく。でも、もがくほど身体が動かなくなっていく。蜘蛛の巣に捕らえられた虫のように。
降ろして降ろして、口を動かすが声が出ない。
身体に力を込めるけど、もうびくともしない。なのに僕は、天井近くでゆらゆら揺れている。まるで首吊りみたい。はらわたを抜かれるような感覚は徐々に増していき、全身に広がっていく。太股に内臓なんてあったっけ? 力こぶが盛り上がるのは内臓のおかげ? 頭に内臓なんてあったっけ? ああ、あるじゃないか脳みそが、大事な大事な内臓が。思い出のたくさん詰まった内臓が。魂の詰まった内臓が。
それを認めた瞬間、はらわたを抜かれるような感覚が、突き抜けるように頭に上がってきた。
頭が真っ白になる。気が遠くなる。何も考えられなくなる。僕は誰だっけ。頭の真っ白がますます昇っていく。
身体はまったく動かないけど、脚を動かすイメージだけがあった。僕は何をしてたんだっけ? 微かに遠くから、おーい、という声が聞こえた。僕に向けて言っているみたい。でもその声は僕の声だった。僕の声? じゃあ僕は僕じゃない? だって僕は向こうにいるんだから。僕は僕じゃない。それなら誰なんだろう。
思い出そうとすると、それに合わせて耳鳴りがし始める。
誰かの足音が聞こえた。それから鼻歌も。続けて楽しそうな歌も。僕が遠くで歌ってる。
まるで小さな子供のような声。舌足らずで、だけど本当に楽しそう。
耳鳴りが一際大きくなる。すると、足音も歌も鼻歌も消えた。
ひたすら昇っていく。天にも昇るような浮遊感。
突然、はらわたを抜かれるような感覚を受ける。
咄嗟に私は、壁に手をつく。
危うく階段を踏み外し、転げ落ちるところだった。危ない危ない、急な階段なんだから、落ちたら洒落にならない。階段に照明を付けた方がいいだろうか? 最近は手頃で簡単なものがあるというし考えておこう、なんてことを考えながら、私は階段を上り終えた。
父の部屋に入り、トナカイの置物を拾い上げる。ちらりと写真が目につく。気取りすぎな父に、澄ましすぎな母。昔は、この写真を見ると、どうしようもない怒りを覚えた。特に父に対してだ。
人の気も知らないで、そんな思いだったんだろう。それに丁度その頃は、反抗期でもあった。
親が死んでいたとしても、子供には否応なしに反抗期が訪れる。
だけど、死んだ親にいくら反抗したとしても、返ってくるのは無反応だけ。
それもただの無反応じゃない。反抗した分だけ、あちら側にへこむような無反応だ。それを感じるほど、それについて考えるほど、あちら側に引き込まれるようなへこんだ沈黙。何の手応えもなく、ただ息が詰まる。それだけ、たったそれだけ。反発も、温度も、生きた感触もなく、指の形そのままに冷たく沈むだけ、元には戻らない。戻そうと手を加えても更に酷くなるばかりで、ますます形が崩れていく。
足掻いても、自分を見失うような虚無感が募るばかり。何もしない方がよかったんじゃないかと思い。それでも足掻くのを止められない。ずっとそんなことを繰り返してきた。いつまでそんなことを繰り返していただろうか? いつ頃終わったんだろう? 分からない。もしかして今も続いている? まさか、と心の中で吐き捨てる。
ふと頭上を見上げると、天井の隅に蜘蛛の巣が張っていた。でも蜘蛛の姿はなかった。
死んでしまったのだろうか、生きた証しに、自らの生きる術だけを残して。
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