ドッペルのパントマイム
1
からりと晴れた朝。
今日はクリスマスイブ。
イブ。前夜祭。祭りの前夜は数あれど、やはりクリスマスイブは別格に感じられる。
クリスマスの始まった地では、その昔、1日は日没を境に区切られていたらしい。
1日は日没と共に始まって、日没と共に終わっていた。
夕暮れの終わりが、新たな1日の始まりだった。
すべてのものが不確かに変化していく。
1日の境も変わる。聖人の尊い行いが、いつしか伝説になり、やがて夢物語に変わっていく。
誰かを祝う気持ち。感謝の気持ち。誰かを助けたいという気持ち。
そんな思いは、時がどんなに過ぎても、不確かな夢となって残り続けるのか。
今日は特に家族での予定はなかった。
朝起きて、各々好きなクリームをトーストに塗り、朝食を摂る。何もすることのない穏やかな時間が流れていく。というと2人に怒られるだろうか。ヨシヤは冬休みの宿題に勤しんでいたし、ユミコは掃除、洗濯に勤しんでいる。私は何となく後ろめたくて、ヨシヤの宿題を見ることにした。
ヨシヤは算数の宿題をやっていた。分数の問題で躓いているらしい。テキストにはクリスマスケーキが描かれている。こんなところにもクリスマス。目を瞑り、難しい顔をしながらヨシヤは、
「やめてほしいよね」
と言った。
「何がだ?」
「こんなの見たらさケーキ食べたくなるから」
いいから勉強に集中しろと言いたいところだが、描かれたケーキはやたらと写実的だった。
「確かにそうだなあ」
「本物みたい」
「最近の教科書はすごいな」
ヨシヤは小さく溜め息を吐いた。
「ケーキじゃなくて、ピーマンとかにすればいいのに」
「ピーマン? 確か嫌いだったろ?」
「だからだよ。憎いから頭の中でも小さくしてやりたい」
「憎い……。まぁ苦いからなぁ」
「うん。僕にとっては毒の味」
「毒か」
「そう、猛毒」
ヨシヤの顔は真剣そのもので、少し可笑しかった。知らず表情に出してしまっていたのか、ヨシヤは不服そうにしていた。
「まぁ、でも大人になれば蜜の味になるさ」
「ミツ?」
「蜂蜜とかな」
「ああ、そっか。ハローだね」
「少し違う。ハニーな」
「あ、パパ。ハニー」
「やあ、ヨシヤ。ハニー」
「パパ。最近どう?」
「最近?」
「最近のパパはどんな感じ?」
「最近のパパはすごいぞ」
「えぇー」
そんな他愛ないやり取りをしていると、階下から大きな声が聞こえてきた。
「ヨシユキさーん! ちょっと降りてきて! 手伝って! おーい!」
おーい、と来たかと私は吹き出した。
「じゃあパパ行ってくるな。女王蜂のお呼びだ」
「ぴったりかも」
「そんなこと言うと、刺されちゃうぞ」
「確か、蜂に刺されると大変なんだよね。この間、テレビでやってた。何だっけ……。アナ……アナフカシキーショックだったっけ?」
「ああ……ええと、アナフィラキシーショックか?」
「そうそれ、そのショックがすごいんだって。2回刺されると大変なことになるんだよ。1回目より、2回目の方がショックがおっきいらしいよ」
「2度目はないぞってことか」
「こらー!」
女王蜂の、警告の羽音が鳴っている。
「じゃあ勉強、頑張れよ」
「うん。お昼はファミレス行くんだよね?」
「ああ」
「よし!」
ヨシヤは嬉しそうに笑うと、机に向き直った。
階段を降り、ユミコの声のする方へと向かう。声はキッチンからのようだ。近付くと微かな匂いが鼻を突いた。美味しそうな匂いじゃない。洗剤や除菌剤のような刺激臭だ。
キッチンを覗くと、ユミコはシンクの辺りで、何やら四苦八苦しているようだった。後ろ姿でそうと分かるのだから、余程困っているのだろう。
「どうした?」
近付きながら声を掛ける。
「どうしたも高架下もないわよ」
「え、高架下?」
「そんな心境、万策尽きて」
ユミコは言うと、背を向けたまま激しく身体を揺さ振りはじめた。何をしてるんだろう。まるで誰かを締め上げているような獰猛さが、背中から伝わってくる。
近付き、ユミコの背中越しに覗くと、ユミコはゴム手袋をはめて、換気扇に手を掛けていた。
「このカバーが、どうしても、外れない!」
柔道の組手のように脇を締め、力一杯に換気扇を揺さ振っている。
傍らには油落としの洗剤や、たわしが置かれていた。換気扇の掃除をしてるらしい。
「油で固まってて! 完全に引っ付いて、て!」
ユミコは作業を止めて、こちらを振り返った。マスクとゴーグルを着けていた。念入りなことだ。
見るにこれは頑固そうだと思っていると、何かを差し出された。
「はい。手袋」
「どうも」
「それから、メガネ」
ユミコは掛けていたゴーグルを外し、それも差し出した。
「ありがとう。あれ? ユミコの分は?」
「メガネ、これしかないのよ。それからマスクはこれが最後の1枚」
と言ってユミコは、自分の口許を指差した。
「私はあなたの鼻になる、だからあなたは私の目になって」
「いや、そんなに強くないよ、この洗剤」
「こういうのは雰囲気でしょうが」
「……」
ゴム手袋をはめ、折角だからゴーグルも着ける。換気扇に手を伸ばし、あれこれと試してみるがカバーは外れる気配がない。
「どう? 手も足も出ないでしょう?」
と何故か誇らしげなユミコだった。
これでは駄目だと私は物置に向かい、マイナスドライバーをとってきた。
すると何故か、ユミコは不満げな顔を浮かべた。蔑むような目付なのは気のせいだろうか。
私はカバーの継ぎ目にドライバーを差し入れた。しかしそれでも歯が立たない。
「無駄よ、何をしても無駄なのよ」
「……君はいったい誰の味方なんだ」
「味方? そりゃあ私は、私の感情の味方よ」
愚問だ、といわんばかりのユミコ。
「眠いときには寝るし、食べたいものはすぐさま食べるの」
「感情って言うか、それはただの欲じゃ……」
という私の声を遮るようにユミコは、
「よって、このクッキーも食べちゃう」
と言って、硝子戸を開けてクッキーを取り出すと、それを手の平に乗せ、繁々と眺めはじめた。
「ふーん」
眺めるというより見下すという感じだろうか。顔を上げて、黒目が見えなくなるんじゃないかと思うくらい視線を下げている。目がひっくり返ってしまいそうで怖い。人はこんなにも目を下に回せるものなのかと驚く。妻の意外な特技を見付けてしまった。
「よくできてるわね。でも無駄、憐れみなんて私には通じない」
言葉の通りユミコは、躊躇いなくクッキーを食べてしまった。まるで無慈悲な食の女王。
「うまいね」
声の調子だけで唸るユミコ。その表情は博物館の館長のようにおおらかそう。
「ちと生姜を入れすぎている気もするがね」
と館長は訳知り顔でそう仰った。
「そうかな?」
「美味しいけど、生姜が主張しすぎね。まるで、お昼寝の時間の保育園のそばで、自分たちの政策を、懇切丁寧にスピーカーの大音量で説明しながら長時間居座る、選挙カーみたいに」
「なんかやけに具体的だね……。まぁでもジンジャークッキーだからね」
「しょうが、ないわけだ」
「駄洒落……?」
「それとも、しょうが、あるのかしらねぇ」
「えーっと……」
「しょうが、だけにね」
私の乾いた愛想笑いにもユミコは動じない。めげないし、しょげない、まして泣くこともない。
「よし、休憩終わり」
ユミコは、両手を腰に当て、換気扇を眺めると首を少し傾けた。
「やっぱり、まめに掃除しなきゃ駄目ねぇ、油系は」
「そういえば、どうして今日?」
例年のクリスマスイブは、ユミコはゆっくり過ごしていたからふと気になった。
「ん? ああ何となくね。ほら、現代のサンタクロースは換気扇を外して入ってくるって言うでしょ?」
「そうなの? 聞いたことないけど……。何でまた換気扇?」
「煙突と同じ排気設備だからじゃない?」
「ああ、それでか」
「子供の頃、そんな議論したっけ。煙突のない家にはどうやってサンタは入ってくるのかって。子供の頃はそんなことを真剣に考えてたわ」
「ああ、覚えがあるかも……。でも、あれだな、俺らの間では、サンタクロースは普通に玄関から入ってくるってことで落ち着いたような気がする」
「玄関? 鍵掛かってるでしょ」
「いや、サンタクロースは鍵開けの名手なんだよ」
「鍵開けって……、犯罪じゃない!」
「いや、換気扇を外すのだって……」
「議論の詰めが甘い!」
「換気扇……」
「泥棒か!」
ディベートで物を言うのは、相手の話を聞かないことだ。
「ああ、それともう1つ有力な説があったわね」
「有力な、説」
「何」
「いや、何でもない。どうぞ続けて」
「なんだかなぁ。まぁいいわ」
ユミコはこほんと小さく咳払いをし、
「サンタクロース憑依説」
とやけに冷たい声で言った。怪談でも語るように、意図的に恐怖を抑制しているような感じだ。
「憑依?」
「そう」
ユミコは突然、無表情になると、鼻をすんすんと鳴らしはじめた。
「何か、匂うわ」
「えっ? そう?」
「ああ……。これか」
ユミコは油落としの洗剤を持ち上げると、それを顔を近づけた。
「いや、元から匂ってたよ、廊下までね」
「カンキシロだって」
「カンキシロ? 妖怪か何か?」
それとも北風小僧の弟だろうか?
「違うわよ。換気。空気の入れ替え」
ユミコは換気扇に近付いていき、
「カチッ」
と言った。
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