光の正体は救急車。 

 救急車の回転灯が目配せしてくる。

 一定の間隔で、一定のリズムで目配せを寄越してくる。


 ほら? ね? だよね? でしょ? 多分だよ? もしかしてだよ? これって君のせいじゃないの? 多分だからね? ほんの少しも気を悪くしないでね? お願いだよ? 君が高いプレゼントなんかお願いしたからじゃないの? だからこんなことになったんじゃないの? いや、分からないよ? 分からないけど、そうなんじゃないの? もしかしてなんだからね? ほんの少しでも気を悪くしないでよね、ほんの少しでも気を悪くしたなんて言われたら本当に心外だよ、そんなつもりは全然ないんだからね? 多分だし、もしかしてなんだから、ほんの少しも気を悪くする必要はないんだからね? 分かってくれた? よかった助かる、その前提でもって聞いてね? 多分、もしかして、今のこれ、お前のせいだよ?

 眩しくて目が痛い。目に赤い残像が残る。目を閉じても目蓋の中で赤い光が脈打っている。


「後ろ、気を付けろ」


 突然の声に、我に帰り目をひらく。

 いつの間にか、パパは車輪のついたベッドみたいなものに乗せられていた。手の空いている隊員が声を出して誘導している。


「すぐ後ろグレーチングあるぞ。注意しろ」


 グレーチングって何だろうと不思議に思っていると、パパを運ぶ隊員が速度を落とし、慎重に進み始めた。それで分かった。排水路のコンクリートの蓋の、合間合間にはめられている金属の網のことだ。そんな格好良い名前がついているなんて知らなかった。なんて思っているとパパを乗せたベッドが大きく傾いた。声を出す間もなく、ベッドは地面に倒れてしまった。物凄い音を立てて真横に。きっとベッドの車輪が網にはまってしまったんだ。


「あれほど注意しろって言っただろうが!」


 誘導していた隊員が叫んだ。近所中に響くような大声だった。こんな怖い声初めてだったから膝が震えた。僕に向けた怒鳴り声じゃないのに、何だか息が苦しくなるくらい怖い。

 あんなに怒っていた隊員が、ママに平謝りしはじめる。さっきの怒鳴り声で息を使い切ってしまったのか、息も絶え絶えに、それでもめげすに丁寧に丁寧に、下手下手に。あんなに怒っていたのが嘘みたい。

 叩き付けられるように地面に落ちたのに、パパは全くの無反応だった。隊員はすぐにベッドを起こすと、まるで物でも運び込むように、パパを救急車に乗せた。

 隊員に促され、ママと僕も救急車の荷台に乗り込んだ。中はよく分からない機械でいっぱいだった。


 パパの身体にチューブやコードがたくさん付けられていく。上下真っ赤な服は圧迫感があった。上の服ははだけている。

 突然、隊員の1人が、パパの身体に覆い被さって、両手でパパの胸に体重を掛けた。まるでパパの胸を押し潰そうとするみたいに、何度も何度も。あり得ないくらいの力で、何度も何度も。激しく揺さ振られるパパの身体。その度に音が鳴る。ピコン、ピコンっていう可愛らしい音が鳴る。高くて可愛らしい音なのに、聞いていると何故か落ち着かない。

 パパが揺れる度、隊員が体重を掛ける度、ピコンピコンという音が鳴る。

 死んじゃう。そんなことしたらパパが死んじゃう。やめてやめて。ピコンピコン。やめてよ。ピコンピコン。


 やめて、と声に出そうとする。でも出ない。突然、プラスチックがぶつかり合うような音が聞こえた。カタカタと軽い音。

 カタカタ、カタカタ。

 プラスチックのオモチャ同士を戦わせて遊んでるみたいな音。すぐに気が付く。その音は僕の口の中で鳴っていた。僕の奥歯が鳴っていた。震えを抑えようと奥歯を噛み締める。すると音が余計に酷くなる。カタカタがカチカチに。ただ余計に音が鳴る。震えるのに構わず声を出そうとしても同じことで、音が酷くなるばかりだった。カチカチがガチガチに。ただただ余計に音が鳴る。

 カタカタがカチカチに、カチカチがガチガチに。

 やめてやめてがガチガチに。

 死んじゃう死んじゃうがガチガチに。

 ガチガチ、ガチガチ。

 そのガチガチが段々と背中に伝わって、やがて手足にも伝わっていく。

 脚が何かの冗談みたいに震える。

 ラジオ体操の中の、あの意味の無さそうな動きみたいに、脚を上下させるのを止められない。はい、一、二、三、四。


 隊員が僕を見た。

 わ、わざとじゃないんです、と口に出して謝ろうとする、でもそれはガチガチになる。言葉がすべてガチガチに変わってしまう。それじゃあ最初からガチガチしてみたらどうだろう。もしかしたら普通に喋れるかもしれない。

 ガチガチ、ガチガチ。

 ただガチガチ鳴るばかり。

 ガチガチはガチガチのまま、何も変わらない。

 ガチガチはガチガチに。

 ガチガチ。ガチガチ。

 隊員が目を細め、優しく声で、


 「大丈夫かい? 深呼吸して」


 ラジオ体操みたいにですか?

 でも僕は、満足に息も吸えない。冷たいプールに飛び込んだときのように。

 プールならすぐに慣れてくる。でも今日のこれはいつまでも続いた。ずっと寒くて、ずっと息苦しかった。

 目の前の赤い服が揺れる。茶色い大きなボタンが揺れて。白のふわふわが揺れて。

 隊員の腕の動きに合わせて、ピコンピコンと音が鳴る。パパの揺れに合わせて、ピコンピコンと音が鳴る。音に合わせて揺れているのか、揺れに合わせて音が鳴っているのか、よく分からなくなってくる。

 隊員はさすがに疲れたのか手を休めた。


「……な、な、何してるの、こ、これ」


 ようやく声が出た。遅ればせながらの言葉。


「お父さんの心臓を動かしているんだ」


 心臓? 心臓を動かす?

 でも、何でピコンピコンなの? 心臓はドクンドクンでしょ! 何でピコンピコンなんて、そんな怖い音がするの? 心臓はドクンドクン。そうだよね? 心臓はドクンドクン、心臓はドクンドクン。そうでしょ! でも、でも、ピコンピコンさせないとパパが死んじゃうなら早くピコンピコンさせてよ。パパの心臓をピコンピコンさせてよ、早く! 早く! ピコンピコンでもなんでもいいからパパの心臓を動かして! 早くたくさんピコンピコンさせてよ! お願いだからピコンピコンさせてよ! ピコンピコン! 早く、ピコンピコン!


 隊員は疲れのせいなのか、たまに手を止めた。するとピコンピコンは聞こえなくなる。その代わりにピーという、長い音が鳴った。鳥の鳴き声みたいなピーという音。神経を逆撫でするような音。聞いていると胸が痛くなるくらい心臓が鳴る。僕の心臓なんかどうでもいいのに、これでもかっていうくらい心臓が早く鼓動する。


 パパの左肘に血が付いていた。よく見ると小さな傷もあった。すぐ思い至る。さっきベッドが倒れた時に、地面に打ち付けたんだ。隊員に指で差し示すと手当てをしてくれた。

 こんなに酷く揺さ振られつづけているのに、何の反応もしないパパが不気味だった。誰かも知らない人に、こんなにも滅茶苦茶にされているのに、声一つ上げないパパが、怖かった。

 そんなパパを、見ていたくなくて、僕は目を閉じた。


 救急車のサイレンが鳴っている。さっきから鳴っていたはずなのに、まるで気にならなかった。音に意識が向かう。身体の奥まで入り込んでくるような音。耳をつんざくようでいて、寄り添うようなメロディ。ピコンピコンに比べたらずっと優しいメロディ。目を閉じて聞くそのメロディは、やっぱりどこか赤いような気がした。


 たまに見掛ける救急車。まさか自分が乗るなんて。パパやママが乗るなんて。

 思えば、今は救急車に乗っているから、サイレンの音に変化はないんだ。

 救急車が通り過ぎる瞬間、高かった音が急に低くなる。

 近づく高い音、遠ざかる低い音。

 僕は今、その中間にいる。高くも低くもない、通り過ぎる瞬間の音の中に。

 頭の中で救急車を思い浮かべた。本物みたいになるように強く思い浮かべる。


 こっちに向かって走ってくる救急車。

 サイレンを鳴らして、回転灯を灯らせて。

 どんどん近付いてくる。まっすぐに僕を目掛けて走ってくる。スピードを少しも緩めようともしないで。近付くほど、サイレンの音は高く細くなっていく。まるで耳鳴りのよう。不快で堪らない音。耳鳴りだから耳を塞いだって消えてなくならない。


 救急車のヘッドライトの光が、視界いっぱいに広がっていく。救急車は目の前に迫っていた。眩しくて目が潰れそうだ。想像の中の僕はただ突っ立っているだけで、目を背けることも、目を閉じることもしなかった。


 耳鳴りは、更に酷くなり、聞いていると意識を失ってしまいそうなほどだ。

 眩く白い光の中で、赤い回転灯が回っている。

 救急車がぶつかる直前、回転灯は回転を止め、まっすぐに僕を照らした。

 2つの赤い目と目が合う。まるで心まで見透かすように、じっとこっちを眺めている。あんなに白かった視界は、すぐさま赤一色になる。


 命を救う救急車。だけど僕だけは轢き殺して。悪い僕を、キツネみたいにぺしゃんこに、子猫のように見るも無惨に、鹿のように残酷に、ヘビのように真っ二つに。

 僕を、獣みたいに轢き殺して。


 救急車は、確かに僕の身体に触れた。だけど救急車は、僕の身体をそのまますり抜けていった。何の影響も与えず、まるで取り合わず、無視するように走り去っていった。

 そして、目に映る赤い残像と、微かな耳鳴りだけが残った。

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