――ドスン――

 という固い音が突然、聞こえた。何だろう、こんな夜更けに。でもただの物音だ。それだけで何もない。それなのに、妙な胸騒ぎがする。

 胸がきゅうっと苦しくなって、お腹の空気が抜けていく。

 ベッドから起き上がり、扉に耳を付ける。何も聞こえない。そっと扉を開けて、廊下へ顔だけ出した。暗くて何にも見えない。こんな暗かったっけ。部屋を出て、階段の方へ向かう。少し歩き、爪先に何かが当たった。


 なに、これ。

 足元には何か赤いものが落ちていた。ふわふわしてて、ところどころ白も交ざってる。小さなものじゃない。転がってるとも、落ちてるとも違う。寝そべっているって感じ。まるで人が寝ているみたい。ちょうど、ひと型だしね。ひと型なら、人なのかな? でも誰? ここ廊下だよ? 布団もベッドも何もない。毛布も、掛け布団すらない。冬だし凍えちゃう。


 屈んでよく見ると、寝ているのはサンタクロースだった。静かに寝てる。ピクリとも動かず、寝息も立てず、息すらしてないみたいに。

 うつ伏せで、腕を枕にもしないで、顔をそのまま、冷たい廊下に押し付けている。もしピノキオなら鼻が折れちゃう。もっと屈んで、その顔を見ようとする。でもよく見えない。でも今、目が開いているような気がした。もしかして寝たふり? 僕をからかってる? ちょっと、むっとして、僕はサンタクロースを揺さぶった。肩の辺りに手を置いてぐらぐらぐら、そしたらサンタは廊下に顔をごりごりごり。

 手応えがなくて、ちょっと怖かった。だから僕はサンタに声をかけた。


「……ねねね、ね、ねぇ」


 舌がもつれて声が震えた。こんなに可笑しな声を出したのに、サンタは笑いもしないし、ぴくりとも動かない。ただ黙って、廊下に顔を押し付けつづけている。それが気持ち悪くて、怖かった。頑なで、意味が分かんなくて、怖い。不可解で気持ち悪い。それが無性に気に入らなくて、僕はサンタクロースを裏返そうとした。サンタの肩とお腹に手を掛けて力を込める。重い。まるで石みたい。なかなか裏返せない。更に力を込める。


 ――ガン――


 裏返った拍子に、サンタは右手の拳を廊下に強く打ちつけた。今にサンタが怒り出すと思って、身構えたけど何にも起こらない。

 サンタは、首を変な風に曲げて寝てるだけ。僕は恐る恐るサンタの顔を覗きみた。やっぱり目は開いてる。口も開いてるし、舌まで出していた。

 あっかんべー。

 あっかんべーされたならそれを返さなくちゃ。いつもの僕ならすぐさまそうする。腰抜けなんて思われたくないから。だけど僕はそうしなかった。帽子と髭の間から覗く目が、見知った誰かに似ていたからだ。


 僕はいつの間にか、腰抜けになっていた。

 気が付くと床に尻餅をついていた。

 てっきりサンタクロースだとばかり思っていた。でも違う。いや、僕の見間違い? 腰が抜けて起き上がることができない。

 目を見て、何となく分かった。これが誰かなんてことよりもずっと鮮明な確信。


 この人は死んでる。生きてない。

 死んだ人の目だと分かった。人が死んでいるのなんて実際には見たことない。でも動物の死骸なら見たことある。目が緩んで光を取り込みすぎているのか、見てると吸い込まれそうになる、あの目だ。


 これ、誰だろう? と頭の中で惚けた僕の声は、実際に声に出していないのに、震えていた。頭の中の声も震えるんだね。

 これ、誰だろう? こんなとき、思い出すのは脈絡のないことばかり。

 音楽の時間の、休み時間のあのリズム。


 ――サンタクロース死んじゃった、サンタクロース死んじゃった――


 長くて語呂が悪い。違う違う。こんなじゃない。


 ――サンタ死んじゃった、サンタ死んじゃった――


 ずっとよくなった。でもまだ違う。すごく惜しい感じ。


 ――パパ死んじゃった、パパ死んじゃった――


 ああ、これだ。でも、決まりすぎてて気持ち悪い。

 これ、パパだ。

 サンタの毛皮を被って、死んでる。

 いつの間にか出していた自分の喚き声が、どこか遠い。あらんかぎりの声でママを呼んでるはずなのに。

 声を出してるつもりで、本当はそうじゃないのかな。

 頭に薄靄が立ち込めて、まるで本当のことじゃないみたい。テレビの中の出来事を眺めているみたい。


 しばらくしてママが来てくれて、僕を少し抱き締め、すぐに離して、パパに駆け寄っていった。あんなにパパは死んでるとしか思えなかったのに、何となくパパはすぐに起き上がるじゃないかって思った。ママなら何とかしてくれると思った。ママが来たから大丈夫。ママが来たなら何でも解決。


『こんな所で寝ちゃだめよ』『いや、仮眠してただけだ』、そんないつものやり取りが始まる気がした。でも始まらない。パパを揺さぶるママの手に力が込められていく。だんだんママの声の形が崩れていく。まるで、ママがママじゃないみたい。こんなママ、初めて見る。


 真っ赤な服を見てると何だか目がチカチカした。揺れる帽子のぼんぼんの動きが、まるで生き物みたいで気味が悪かった。

 ママは突然立ち上がり、よろけて壁に手を付いたかと思うと、急に駆け出した。……僕を置いてどこ行くの?

 僕はママを追い掛けようと立ち上がろうとした。


「そこにいなさい!」


 僕はまた尻餅をついた。

 転がり落ちたんじゃないかと思うほどの物凄い音を立てて、ママは階段を降りていった。

 階段の方から、視線を戻す。

 パパがじっとこっちを見ていた。

 ママに揺さ振られたせいか、髭がとれてなくなっていた。やっぱりパパだ。サンタクロースなんかじゃない。

 その目が怖くて。興味も関心もないその目が怖くて、座ったまま後退った。


 突然、右の手の平に、何かを押し潰したような感触を覚えた。

 見るとそれは赤い箱で、巻かれていたであろうリボンは解け、僕の手に潰されて、酷く変形して、崩れ掛けた小屋みたいな形になっている。手を退けると中身が見えた。

 そこには、サンタクロースにお願いしたプレゼントが入っていた。今、一番欲しいもの。

 夢にまでみた、プレゼント。

 他に選べるたくさんのものを犠牲にしてまで願った、プレゼント。そうまでして、欲しいと思ったもの、何を失ってでも欲しいと願ったもの。

 何を失ってでも? そうだっけ? パパがこんな風になってまで、欲しいと思ったっけ?


 分かんない、分かんない。もう何にも分かんない。

 頭の中の薄靄は、段々濃くなって、もう頭の中は水浸し。

 ママがいつの間にか戻って来てて、パパに覆い被さって、何かしてた。忙しそう。少しも休まずに、何かしてる。何度も何度も繰り返し繰り返し、何かしてる。


 そのうちに遠くから動物の鳴き声が聞こえてきた。その声がだんだんと近付いてくる。もしかしてトナカイ? パパを迎えに来たのかな。パパがサンタの格好なんかしてるから勘違いしたのかも。もしそうなら謝らなくちゃ。何て言って謝ろう。分かんない。どうしよう。鳴き声が家のすぐ近くまで来て、少しして止んだ。やっぱり家に来たんだ。どうしよう。階段を駆け上がってくる激しい音。間違いない四本足だ。四本足の足音だ。どうしよう、どうしたら。


 足音は僕のすぐ後ろまで迫ってる。なのに僕は振り向くことさえできない。

 急に足音が二つに分かれた。

 どういうこと? トナカイの胴体がぶつ切りになった? それなのに、下半身と上半身がそれぞれ独立して走ってる? 器用にバランスをとりながら、やじろべえみたいにかっくらかっくんゆらゆらと? バランス崩して、おっと。立て直そうと、おっとっと。

 足音はいよいよ僕のすぐ真後ろに迫り、上半身と下半身は二手に分かれ、僕のすぐ横を駆け抜けていく。上半身はよしと左側を、下半身はそれならと右側を。


 冷たい風を頬に感じた。トナカイの平べったい蹄に蹴り上げられた、冷たい廊下の底に沈んだ空気。手の平で優しく触れ、そっと離すように。冷たい手に慈しまれているかのよう。

 でも、顔を上げた先にはトナカイなんかいなくて、灰色の服を着た二人組がパパを見下ろして何かを話していた。

 ママは崩れたような叫び声を上げながら、灰色の二人組に向かって、早く早くと繰り返している。

 1人の灰色がパパのそばに屈み込んだ。そして、さっきまでママがしていたみたいに、何かし始めた。


 その横にママはへたり込んで、口を少し開けながら、呆然としてる。灰色の片割れが話し掛けても、上の空の生返事。

 しばらくして、その灰色の人が僕のところにやって来た。救急隊だって言ってた。救急車に乗ってる人だって。

 救急隊のお兄さんはいろいろ話してくれたけど、パパが大変だってことしか分からなかった。


 更に、別の救急隊の人が2階に上がってきた。長い棒みたいなものを持ってる。その人は棒を床に置くとそれを広げた。テントみたい。救急隊員はそれにパパを乗せた。ハンモックみたい。そして2人掛かりでそれを持ち上げた。お馬さんごっこみたいに進んでいく。びっくりするくらいの大きな声で、ここに何がある、そこに何か落ちてる、角を曲がる、階段を今から降りるって、いちいち言っていた。まるで、声に出さないと、身体を動かせないみたいに。丁寧で気遣うような大声は、ちょっと怖いくらいだった。

 ママが突然、叫び始める。


 ――何してるの――


 ――今止まってるんじゃないの――


 ――やめないでよ――


 ――死んじゃう――


 ――何してるの――


 手の空いている救急隊員が、落ち着いてくださいとかなんとか言いながらママをなだめてる。ママはそれでも髪を振り乱して、救急隊員に食って掛かっていく。ママ凄い顔。まるで、鬼みたい。


 やっとのことで1階に降り、僕たちは一息つく間もなく外に出た。

 外は疎らに雪がちらついていた。でもよく見るとそれは雪じゃなくて、みぞれだった。ちょっとだけ、雪じゃない。少しだけ雨になった雪。

 暗い空には雲なんかないみたいで、凍ったような満月が真上で光っていた。

 玄関から少し離れた所で何かが光っていた。赤くて忙しない光。クリスマスのイルミネーションかと思ったけど、それにしては何だか怖い光だった。

 2つの赤い目が横回転して、目を剥いたり、背けたり。

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