5
それは父親の死に関したことだ。
それだけはいまだに、曖昧に笑わなければ語れなかった。とうの昔に受け入れたつもりでいた。でも違った。受け入れるどころか、受け止めることさえできていなかった。身をかわし、その場にうずくまり、目を閉じて、耳も塞いで、何も考えずにいた。父親の死はまるで手付かずのまま、傍らに転がっていた。ぞんざいに、無造作に、転がっていた。私は父を弔ってはいなかったんだ。弔いは形だけだったんだ。父親の魂はおそらくまだ、あの時の冷たい廊下に転がったまま。
もう怖がってなんていられない。
真剣にならなきゃいけない。
歯を食いしばらなくちゃ。
笑ってばかりじゃ、歯は食いしばれない。
足音なんか怖くない。
鼻歌なんか怖くない。
私はもう小さな子供じゃないんだ。
そうだ、足音に言ってやろう。鼻歌に言ってやろう。
もう私は小さな子供じゃないって。
「もう私は小さな子供じゃない」
そう低く呟いた。はずなのに出た声は、何故か甲高かった。まるで声変わりの前の、子供の声のように。
腹に力をこめて、声を出すことに意識をむけ、私はもう一度つぶやいた。
「もう僕は小さな子供じゃない」
また甲高い声。
それに、僕?
今、僕は、僕って言った? 違う僕じゃなかった。私だ、私。
今、私は僕のことを、僕って言った? あれ? なんかおかしい?
また声を出す。
「僕は、僕は」
あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ? 僕の声ってこんな高かったっけ?
「僕はもう子供じゃない」
あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ? 僕の声が後ろから聞こえてくる。山びこみたいで、楽しい。
「やっほー」
あれ、おかしいな、何も聞こえない。つまらない。
――もう私は小さな子供じゃない――
――もう僕は小さな子供じゃない――
やっほー、じゃなくて違う声が聞こえてきた。やっほー、じゃないなのは、残念だったけど、これもおもしろいね。
山びこが合唱してる。
――もう私は小さな子供じゃない――
――もう僕は小さな子供じゃない――
不思議だな、声が重なって聞こえるよ?
僕?
足元でみしと音が鳴る。
私だろ、私。
僕は、僕のことをいつも私って呼んでるじゃないか。あれ?
――みし――
足音さえも山びこが返ってくる。なら今度こそ、もういっかい。
「やっほー」
何も聞こえない。返ってこない。なんだよ、つまらない。
あれ? そう言えば僕はいつから自分のことを、私なんて呼ぶようになったんだっけ?
――もう私は小さな子供じゃない――
――もう僕は小さな子供じゃない――
こんなにぴったりな声ってすごい。まるでカエルみたいだ。カエルってすごいんだよ。あんなにたくさんで鳴いてるのに、たった一匹で歌ってるみたいに聞こえて、そしてそれがすごく自然なんだ。リズムが少しずれたって、音程が少しずれたって一匹で歌ってるみたい。みんなで一つで、一つでみんななんだよ。すごいよ、はなまるの、にじゅうまる。
――みし――
あれ? おかしいな。歩いてないのに、山びこが返ってきた。そうかこれは一つ前の足音か。
――みし――
じゃあこれは二つ前。
――みし――
そしてこれは三つ前。
これは、
これは、
これは、
数えても切りがない。昇ろう昇ろう。今日はクリスマスなんだ。ぐずぐずしていられない。早く寝ちゃおう。早く階段を昇ろう。ベッドに入って眠っちゃおう。今年はね、とびきりのプレゼントをお願いしたんだ。だから、朝が楽しみ。早く来て、サンタさん。だから、早く昇っちゃおう。
押すし駆けるし走っちゃう。どんどん昇るよ。一段飛ばしで飛ばしちゃう。もう誰も僕を追い越せやしないんだ。だってこんなに速いんだから。
あっという間に2階に到着。
振り返って、昇ってきた階段を見下ろす。真っ暗で、底が見えない。井戸みたい。何だか昇って来たのが信じられないくらい、深くて暗かった。通っちゃいけない所、本当は通れなかった所、そんな感じがした。そんなことを考えていると、階段から唸り声みたいなものが昇ってきた。困ってるの? 苦しいの? 何だか心配になってくる。違う! 楽しいんだ! 楽しくて唸ってるんだ!
唸り声が、合唱みたいな声に変わっていく。揺れて響いて重なって、震えて音が増していく。
――やっほー――
まるで、特大花火の爆風が腹をぶち抜いたような迫力だった。あんなに響いて、あんなにもったいぶってやって来たのに、声は跡形もなく消えてしまった。まるで僕が食べちゃったみたい。おかしくて笑えてくる。何だか無性に笑えてくる。お腹の中の声が独りでに笑っているみたい。止められない。収まるどころか増々笑えてくる。自分の声が可笑しい。笑ってる自分が可笑しい。自分が可笑しいのが、可笑しい。止まらない。可笑しくて、もうだめ。笑いすぎて腹が捩れる。腹が重苦しい、立っていられないくらい。
でも可笑しいのは突然収まる。笑いは後引かず、残るのは今まで何故笑っていたのだろうという不可解だけ。でも何のことはない、少し腹が立つくらい。
視線を感じ、顔を上げる。
階段の底から、赤い目がこっちを見上げていた。目が合ってるのに逸らそうともしない。唸りながら、じっとこっちを見てる。瞬きもせず、僕の頭の中を覗こうとするみたいに、瞳孔を小刻みに開閉させている。でも何のことはない、不可解で少し腹が立つくらい。腹の虫は頭を少しもたげてすぐ下ろす。
見られたって穴は開かない。顔に何かつくなんてまずない。見られたってどうってことない。気にせず自分の部屋へ向かう。
戸を開けて、足を踏み入れ、戸を閉める。
ベッドに入り、目を閉じる。
早く明日が来ないかな。待ち遠しい朝。早く来て。
どんなに強く願っても、明日が来るのは明日のこと、それでも願わずにはいられない。
時過ぎるのを願うのは、子供時代の合間だけ。時が過ぎれば過ぎるほど、時過ぎる虚しさが増していく。無限だったはずの時間が、いつの間にか数少ないものになっていて。いつしか人生の終わりを計るようになっていて。おおよそ検討がついてしまう。おおよそだから、実際はそれまで生きられないかもしれなくて。それなのに、なくなったものばかりに目が向いて、いつの間にか、もう何もなくしてやるもんかと窮屈に生きていた。
僕はまだ子供のはずなのに。
何でこんな気持ちが分かるんだろう?
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