それは父親の死に関したことだ。

 それだけはいまだに、曖昧に笑わなければ語れなかった。とうの昔に受け入れたつもりでいた。でも違った。受け入れるどころか、受け止めることさえできていなかった。身をかわし、その場にうずくまり、目を閉じて、耳も塞いで、何も考えずにいた。父親の死はまるで手付かずのまま、傍らに転がっていた。ぞんざいに、無造作に、転がっていた。私は父を弔ってはいなかったんだ。弔いは形だけだったんだ。父親の魂はおそらくまだ、あの時の冷たい廊下に転がったまま。


 もう怖がってなんていられない。

 真剣にならなきゃいけない。

 歯を食いしばらなくちゃ。

 笑ってばかりじゃ、歯は食いしばれない。

 足音なんか怖くない。

 鼻歌なんか怖くない。

 私はもう小さな子供じゃないんだ。

 そうだ、足音に言ってやろう。鼻歌に言ってやろう。

 もう私は小さな子供じゃないって。


「もう私は小さな子供じゃない」


 そう低く呟いた。はずなのに出た声は、何故か甲高かった。まるで声変わりの前の、子供の声のように。

 腹に力をこめて、声を出すことに意識をむけ、私はもう一度つぶやいた。


「もう僕は小さな子供じゃない」


 また甲高い声。

 それに、僕?

 今、僕は、僕って言った? 違う僕じゃなかった。私だ、私。

 今、私は僕のことを、僕って言った? あれ? なんかおかしい?

 また声を出す。


「僕は、僕は」


 あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ? 僕の声ってこんな高かったっけ? 


「僕はもう子供じゃない」


 あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ? 僕の声が後ろから聞こえてくる。山びこみたいで、楽しい。


「やっほー」


 あれ、おかしいな、何も聞こえない。つまらない。


 ――もう私は小さな子供じゃない――


 ――もう僕は小さな子供じゃない――


 やっほー、じゃなくて違う声が聞こえてきた。やっほー、じゃないなのは、残念だったけど、これもおもしろいね。

 山びこが合唱してる。


 ――もう私は小さな子供じゃない――


 ――もう僕は小さな子供じゃない――


 不思議だな、声が重なって聞こえるよ?

 僕?

 足元でみしと音が鳴る。

 私だろ、私。

 僕は、僕のことをいつも私って呼んでるじゃないか。あれ?

 ――みし――

 足音さえも山びこが返ってくる。なら今度こそ、もういっかい。


「やっほー」


 何も聞こえない。返ってこない。なんだよ、つまらない。

 あれ? そう言えば僕はいつから自分のことを、私なんて呼ぶようになったんだっけ? 


 ――もう私は小さな子供じゃない――

 ――もう僕は小さな子供じゃない――


 こんなにぴったりな声ってすごい。まるでカエルみたいだ。カエルってすごいんだよ。あんなにたくさんで鳴いてるのに、たった一匹で歌ってるみたいに聞こえて、そしてそれがすごく自然なんだ。リズムが少しずれたって、音程が少しずれたって一匹で歌ってるみたい。みんなで一つで、一つでみんななんだよ。すごいよ、はなまるの、にじゅうまる。 

 ――みし――

 あれ? おかしいな。歩いてないのに、山びこが返ってきた。そうかこれは一つ前の足音か。

 ――みし――

 じゃあこれは二つ前。

 ――みし――

 そしてこれは三つ前。

 これは、

 これは、

 これは、

 数えても切りがない。昇ろう昇ろう。今日はクリスマスなんだ。ぐずぐずしていられない。早く寝ちゃおう。早く階段を昇ろう。ベッドに入って眠っちゃおう。今年はね、とびきりのプレゼントをお願いしたんだ。だから、朝が楽しみ。早く来て、サンタさん。だから、早く昇っちゃおう。


 押すし駆けるし走っちゃう。どんどん昇るよ。一段飛ばしで飛ばしちゃう。もう誰も僕を追い越せやしないんだ。だってこんなに速いんだから。


 あっという間に2階に到着。

 振り返って、昇ってきた階段を見下ろす。真っ暗で、底が見えない。井戸みたい。何だか昇って来たのが信じられないくらい、深くて暗かった。通っちゃいけない所、本当は通れなかった所、そんな感じがした。そんなことを考えていると、階段から唸り声みたいなものが昇ってきた。困ってるの? 苦しいの? 何だか心配になってくる。違う! 楽しいんだ! 楽しくて唸ってるんだ!

 唸り声が、合唱みたいな声に変わっていく。揺れて響いて重なって、震えて音が増していく。


 ――やっほー――


 まるで、特大花火の爆風が腹をぶち抜いたような迫力だった。あんなに響いて、あんなにもったいぶってやって来たのに、声は跡形もなく消えてしまった。まるで僕が食べちゃったみたい。おかしくて笑えてくる。何だか無性に笑えてくる。お腹の中の声が独りでに笑っているみたい。止められない。収まるどころか増々笑えてくる。自分の声が可笑しい。笑ってる自分が可笑しい。自分が可笑しいのが、可笑しい。止まらない。可笑しくて、もうだめ。笑いすぎて腹が捩れる。腹が重苦しい、立っていられないくらい。

 でも可笑しいのは突然収まる。笑いは後引かず、残るのは今まで何故笑っていたのだろうという不可解だけ。でも何のことはない、少し腹が立つくらい。


 視線を感じ、顔を上げる。

 階段の底から、赤い目がこっちを見上げていた。目が合ってるのに逸らそうともしない。唸りながら、じっとこっちを見てる。瞬きもせず、僕の頭の中を覗こうとするみたいに、瞳孔を小刻みに開閉させている。でも何のことはない、不可解で少し腹が立つくらい。腹の虫は頭を少しもたげてすぐ下ろす。

 見られたって穴は開かない。顔に何かつくなんてまずない。見られたってどうってことない。気にせず自分の部屋へ向かう。


 戸を開けて、足を踏み入れ、戸を閉める。

 ベッドに入り、目を閉じる。

 早く明日が来ないかな。待ち遠しい朝。早く来て。

 どんなに強く願っても、明日が来るのは明日のこと、それでも願わずにはいられない。

 時過ぎるのを願うのは、子供時代の合間だけ。時が過ぎれば過ぎるほど、時過ぎる虚しさが増していく。無限だったはずの時間が、いつの間にか数少ないものになっていて。いつしか人生の終わりを計るようになっていて。おおよそ検討がついてしまう。おおよそだから、実際はそれまで生きられないかもしれなくて。それなのに、なくなったものばかりに目が向いて、いつの間にか、もう何もなくしてやるもんかと窮屈に生きていた。

 僕はまだ子供のはずなのに。

 何でこんな気持ちが分かるんだろう?

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