私もほどなくして、部屋を出た。

 階段を下り、寝室の前を通る。灯りは消えているようだ。ユミコはもう寝てしまったのだろう。


 寝る前に水を飲もうと台所へ向かう。その途中にリビングを通り掛かり、ふと思い出す。トナカイの置き物を2階に置きっぱなしだったことに。折角のクリスマスだから、リビングに飾っておこう。別に明日取りに行けばいいかとも思ったが、何故か、気になり自然と脚が動いた。


 一歩踏み出す。しかしそこで何かの気配を感じ、脚が止まる。豆電球が滲むだけで、リビングは薄暗かった。誰の姿も影もない。気のせいだろう。

 台所に一歩踏み入る。やはり気配を感じた。それだけじゃなく誰かの視線すら感じる。気のせいだろう。と思っていたら視線の主と目が合った。


 食器棚の中の皿に乗せられたジンジャーブレッドマンが、こちらを眺めていた。食器棚の一番上の、硝子戸の中に、ジンジャーブレッドマンはいた。2人並んで、硝子越しに、こちらを見下ろしている。

 あの喫茶店で貰ったお菓子を、帰ってからすぐに2人に見せた。折角だから飾っておこうとユミコと話している間に、1名と3本の杖は、すでにヨシヤに食べられた後だった。

 並ぶ2人の同胞は、もうすでに腹の中。無表情の顔は、見ようによっては、笑っていて、泣いてもいる。並んで笑い。並んで泣いて。こちらを憐れんでいるのか、嘲笑っているのか。

 もの言いたげな口は決して開かない。


 水を飲み、またリビングを通る。去り際、後ろが気になりふり向き掛けるが、馬鹿らしく思えてそうはしなかった。

 静かな夜。聞こえるのは自分の足音だけ。みしと音が鳴る、体重のせた僅かに後に。まるで他の誰かの足音のように鳴る、自分の足音。意識すればするほどそれは、他人のそれになっていく。みしという音が鳴る。前に踏み出す右足から、後ろへ蹴り出す左足から。みし、みし、みみしと音が鳴る。

 右足が床につく僅かに前に、左足を蹴り出し宙に浮かせた後で、みしという音が鳴る。

 2階に上がる階段の前。見上げる階段の先は、深い穴の底のように沈んでいる。


 そして私は階段を昇る。

 そんなに長い階段ではないのに、暗いせいか進んでいる気がしない。踏み台で昇降運動でもしてるみたいだ。

 狭い階段のこと、足音は廊下よりも響きが増す。間近の壁に音が伝わり反響する。前から後ろから音が鳴る。

 自分から離れた音が、壁を蹴り、耳を掠めていく。まるで何か囁くように。


 覚えてる? 前にこんなことがあったよね、忘れちゃったの? 前にこんなことがあったのに、思い出して? 前にあったこんなこと。前後左右から、上から下から。

 みしという音が後ろから。と、という足音が後ろから。私の足音を追うような、と、という足音が後ろから。音はいつだって、仄めかす。音、お得意の仄めかし。空耳はお手の物。だから、これも空耳で現実にはあり得ない。ただの反響。自分の足音。誰かの足音なんかじゃない。そう聞こえるというだけのこと。


 と、という音が鳴る。爪先のせて、と。踵を下ろして、と。

 後ろから追ってくる音。一拍子置いて、輪唱みたいにぴったりと。

 と、覚えてる?

 と、忘れちゃったの?

 と、思い出して?

 耳鳴りがしてくる。音、お得意の仄めかし。空耳はお手の物。耳鳴りは決してずれない。耳鳴りにリズムはない。あるのは伸びやかな音だけ。ずれようがない。輪唱なんかできない。

 あるのは、ハーモニー。

 耳鳴りに鼻歌が調和していた。私の耳鳴りに、いつの間にか誰かの鼻歌が調和していた。多分、これも、音、お得意の仄めかし。空耳はお手の物。

 楽しげな、機嫌のよさそうな鼻歌が聞こえてくる。丁度、足音のする辺りから。

 鼻腔でなければ出せないような、甘くて温かみのある響き。

 息をいっぱい吸い込んで、口をぴったり閉じて。笑って、気持ちよさそうに。

 あんな風に上手に鳴らせたら、どんなに幸せだろう。

 そんなに上手に鼻歌を鳴らせるのなら、さぞや歌は素敵だろうと思った矢先、実際に歌が聞こえてきた。音、お得意の仄めかし。空耳はお手の物。

 行進でもするかのように、踊るように軽やかに、遠足みたいに楽しげに。



 ちっちゃなちっちゃなブレットマン。

 走る走るはブレットマン。

 子供の頃の思い出は、お菓子みたいにスカスカで、真後ろから付いてくる、小麦のようにサラサラと、鶏みたいに音もなく。

 走る走るはブレットマン。鬼になったり、追われたり。

 鬼がひとたび目をむけば、散り散りになる子供たち。

 食べちゃうぞ、食べちゃうぞ。

 鬼ごっこ、かくれんぼ、だるまさん。

 後ろの正面だぁれ? 

 知りたいのなら教えてあげる。

 だからお願い後ろを向いて、だからお願い目を閉じて。

 後ろの正面、ブレットマン。

 かく言う私はブレットマン。

 私こそが、ジンジャーブレッドマン。

 もう、逃がさない。

 食べちゃうぞ、食べちゃうぞ。

 嫌なら、私を召し上がれ。

 さぁ、召し上がれ、さぁ、召し上がれ。

 さもなければ、食べちゃうぞ。

 走る走るはブレットマン。 

 小麦のようにサラサラと、鶏みたいに音もなく。

 逃げても、逃げても、真後ろに。

 ちっちゃなちっちゃなブレットマン。

 食べる食べるはブレットマン。

 食われ食われてブレットマン。

 後ろの正面、ブレットマン。



 歌声がだんだん近付いてくる。

 楽しそうな歌が。

 心踊るような歌が。

 一緒に歌おう、そんなニュアンスを含ませて。

 さぁ、早く、恥ずかしがらないで、それが一番いけないよ、楽しくなるにはね、ほら、笑って、笑って笑って、笑ってさえいれば幸せですって、そんなに難しく考えないで、口をぽかんと開けて、斜め上を向いて、にへらっと笑って、笑ってさえいれば幸せですって、舌をだらしなく垂らして、笑って、笑うことさえできれば生きていけますって、笑えるなら人だって殺せますって、あなたの胸の内を笑いながら晒して、笑って、にっこり笑って、もしかしてタイミングが掴めないのかな、それなら息を止めて限界まで我慢して、思いっきり息を吸って、それから笑えばいい、苦しくて笑えるよ、酸欠で笑えてくるよ、笑って、おかしくなってくるでしょ、ほら、明後日の方を見て、すべてのことを忘れて、そうすれば楽になれる、楽しくなれる、お腹なんか使わないで笑うの、楽にして笑って、へらへらと、頭も腹も使わずに、顔だけで、惰性だけで笑うの、ただそれさえできれば幸せだと信じて、どう、楽しくなってきたでしょ、というような、音、お得意の仄めかし。空耳はお手の物。


 笑え笑えと迫る声が、耳許で繰り返される。

 親が死んでから、いつしか私は、何事も笑って済ませるようになっていた。

 嫌みを言われても、憐れまれても、真剣に取り組むべきことも、自分自身の失敗も、すべて笑って流すようになっていた。当たり障りのない笑顔で、どうとでもとれる笑顔で、曖昧に笑って、誤魔化すようにへらへらと、そんな風に生きてきた。それさえできれば幸せだというように。


 その癖、本当に楽しいときに気持ちよく笑えないのだから、自分のことながら呆れてしまう。本当に楽しいのに、作り笑いのような、乾いた、ぎこちない笑みしか浮かべられない。それに気が付いて、自分自身驚いた。悩んで、戸惑った、だけどそれ以上に笑えてきた。そんなときこそ、もっともらしく笑えるのだから、どうしようもない。


 本当は楽しいと思い込んでいるだけなんじゃないか、楽しいと感じる気持ちが消えてしまったんじゃないか、楽しいことなんて、元々、存在しなかったんじゃないか、とまで思った。 

 愛想がいいに越したことはない。何よりの美徳だと言う人もいた。

 でもそんな自分がどうしようもなく嫌だった。

 何とかしようとした。

 でも自分ではどうしようもなかった。

 悩んで、ほとほと自分が嫌になって、諦めてさえいたのに、それなのにいつの間にか、私は気持ちよく笑えるようになっていた。


 私を変えてくれたのは、ユミコとヨシヤだった。

 ユミコの優しさが嬉しかった。

 ヨシヤからの無条件の信頼が嬉しかった。

 それに応えたいと思った。

 優しさには優しさで、信頼には信頼で、応えたいと思った。

 ユミコといると嬉しかった。ヨシヤといると楽しかった。

 だけどそれ以上に、2人がお互いに微笑み交わすのが、堪らなく嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。

 優しさと信頼を向け会う2人は、楽しげだけど、真剣そのものだ。笑っていても真剣になれるんだ。笑う、笑わないの問題だけじゃなかったんだ。真剣になれるかどうかの方が、余程、重要だったんだと気が付いた。


 2人は私を変えてくれた。

 母の気持ちを推し量るようになったのも、母への感謝の気持ちが芽生えたのも、本当の意味で母の死を受け入れられるようになったのも、ユミコとヨシヤの姿を見てきたからこそだ。


 笑えるようになった私はますます変わっていった。ものごとが好転していった。連鎖的に、人生が開いていくかのようだった。

 笑顔を種火に、緊張が弾け、不安が燃え、恐怖が消えた。

 笑顔を種に、明るさが芽吹き、楽しさが枝分かれし、幸せが花ひらいた。

 私は真剣に生きられるようになった。

 ある一つのことを除いて。

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