突然、戸を叩く音。


「どうぞ、開いてるよ」


 返事も気配もないから、私はドアの方を振り向いた。するとユミコがドアを少し開け、顔だけを覗かせて私を睨んでいた。


「なに?」


 私の問い掛けには応えず、ユミコは首をふり部屋を見渡した。そして私に顔を向け、


「何、騒いでるの?」


 と言った。


「……騒ぐ?」


「何だか、ドタバタ聞こえた気がしたけど」


「いや、何もしてないけど」


「そう? ネズミかしら、このご時世に?」


「ご時世って」


「確かに天井から物音したんだけど……。まぁ、いいわ」


 と言いユミコは部屋に入ってきた。


「また、クラシック?」


 辟易しているのが語調から感じられた。それも仕方がない。この部屋のありさまを見れば、誰だって呆れる。到底、聴き切れないレコードに、読み切れないだろう小説、誰も鳴らさない楽器。

 この際だと思った。この際だ、すべて捨ててしまおう。


「なぁ、ユミコ」


「なに?」


「この際だからさ、この部屋の物、全部捨てようかな」


「いったい、どの際なのよ」


 ユミコはくすりと笑った。


「それに、そんな未練たらたらな顔で言われてもね」


 そんなに表情に出ていたのかと驚く。何だか沽券に関わる思いだった。


「別にいいよ、急がなくたって」


「いつも文句言ってるじゃないか」


「まぁ、文句ぐらいは言わせてよ、部屋丸々使ってるわけだしね。いわばここは宝物庫なわけだし、うちには不釣り合いだもの」


「宝物庫ね」


「私なら武器庫にするわ」


「武器庫? うちに武器なんてあったっけ?」


「まぁ、つまり洋服部屋」


 服は女の武器と言うことか。


「聴きながら、お義父さんのこと、思い出してるんでしょ?」


「どうして、分かるんだ」


 事実だが、それをユミコに言った覚えはなかった。


「分かるわよ」


 言いながらユミコは私の背後に回り、椅子の背凭れごと私を抱いて、顎を私の肩に乗せた。


「だって聴きながら、懐かしそうな顔してるもの」


 父の顔を思い浮かべることはもうできなくなっていた。顔も思い出せない父。写真を見てもどこか他人のようで、ぴんとこない。


 だけど、クラシックを聴いていると、少しだけ父の顔が浮かぶような気がした。 

 写真を見ても何も感じないのにおかしなことだと思う。でも、古ぼけた、薄靄のような音の向こうに、父がいるような気がした。いつか、腕を引かれて歩いた土手の上に。空も川も草も、すべてが夕日に染まっていたあの土手に。父がふり向き顔を向ける。夕日の逆光で父の顔はよく見えない。声もよく聞こえない。でも何故か父は微笑んでいるような気がした。結局、顔は思い出せない。でも父の気配を感じることができた。


 小説の中の、どうでもいいような脇役の言葉が、映画の中の風景でしかない道行く人の後ろ姿が、父のものに思えてくる。

 父の色は抜け落ちて、白黒映画のそれのよう。父の声は古ぼけて、レコードのそれのよう。


「だから、別に無理しなくていい。思い出してあげられるのは、あなただけなんだから。私にもヨシヤにも思い出してあげられない。だって会ったことがないんだから」


 不覚にも目が潤んでしまう。泣き顔なんて見せられない、ましてずっと前に死んだ親のことでなんて。沽券に関わる。だから目に力を込めて堪えた。


「弔うのを代わってあげられない。本当に弔うことができるのはあなただけ」


 無性にユミコの顔を見たいと思った。なのに自分の顔は見られたくなかった。そんな都合のいい話はない。そんなんじゃ生きていけない。それこそ箱でも被って生きるしかない。

 私が返事を返せないでいても、ユミコは構わず話しつづけた。まるで、触れているだけで気持ちが分かるというように。


「あなたの気持ちは分かるわ」


「俺の気持ちなんて……」


「誰にも分からない? そうかもね。でも私にとってあなたは大切な人。気持ちを分かってあげられてると信じたい。でもやっぱり心の奥底なんて覗けない。私に分かるのは心の表面だけかも知れない。……でもずっと近くであなたを見てきたのよ?」


 問い掛けるように言うと、ユミコは黙ってしまった。 


「……知ってるよ」


「ううん、あなたが思っているよりも、私はあなたを見てる。あなたは気が付かなかったかもしれないけれどね。

 時間が経てば、気持ちの整理がつくっていうのは本当のことだけど、それは物事の一面でしかないの。

 切っ掛けや思いつきが、物を言わせるときがあるの。

 悲しかったんだ、怖かったんだって、ふとした瞬間に気付くことがある。反対にいくら時が経っていても、少しも悲しめていなかったりする。悲しむべきことを、ずっと悲しめずに終わる人だっている。

 切っ掛けはいつやって来るか分からない。それも含めて、時間が解決、というのかもしれないけれど。

 それでもね、実感も自覚も、時間が与えてくれるわけじゃない」


 実際に経験するまで、親が死ぬのも、誰かの夫になるのも、誰かの父親になるのも、少しも怖いことだと思わなかった。怖さを知るのは、いつだってそこに身を置いてからだった。他の誰かや、フィクションの中の人物が、悲しんで、悩んでいるのをあんなにたくさん見てきたのに。


 父親が本当に死んだと自覚したのは、思えばヨシヤが産まれてからだったような気がする。

 母親は本当にゆっくり死んでいった。まるで、私に死を見せ付けるかのように。だからすぐに受け入れることができたのかもしれない。

 父親は何の前触れもなくいなくなった。だから、何の前触れもなく帰ってくるんじゃないかって、何度も考えた。

 片手にお見上げでもぶら下げながら、悪びれもせず、電話の一本も入れればよかったな、とかなんとか言いながら。


「プレゼント買えたみたいね」


 ユミコは腕に少しだけ力を込めた。私は背凭れに押し込められる格好になる。


「気に入ってくれるかは分からないけどな」


「何を買ったかは言わないでね」


「どうして?」


「私もヨシヤと一緒に、素敵なプレゼントを見て、驚いて喜びたいもの」 


「喜ぶかは分からないって……」


「大丈夫よ」 


「適当なこと言って……」


「サンタクロースは苦労が絶えないわねぇ」


「他人事だと思って……」


「ふふ、ごめんなさい。でもね、やっぱりサンタクロースはあなただもの。私には代わってあげられない。

 役はやるべき人がやらなくちゃ。そうじゃなきゃ胸に迫る素敵な劇だって、でたらめな不条理劇になっちゃうもの。それはそれで面白いけれど。でも私たちは実際に生きてて、誰かの見世物なんかじゃない。笑われるのは御免、そうでしょ? 私たちにはルールもセリフも何もない。時間も場所も開けてる。

 だから、考えなくちゃ生きていけない。人生は出たとこ勝負の、アドリブ頼み。だからこそ真剣に考えなくちゃいけない。そして、やるべきことが分かったのなら、あとは進むだけ。

 まぁ、つまり、あなたはサンタみたいにどっしり構えて、わっはっは、って笑っていればいいのよ。いいえ、夢を壊さず、ふぉっふぉっふぉっ、かしらね?」


 サンタその人のようにユミコは笑う。


「私にできるのは精々、休憩の準備くらいのもの。ひとまずお疲れ様ってな具合にね。私がしてあげられるのは、美味しい料理を作って、待ってることだけ」  


「ありがとう」


「もちろん」


 ユミコはふふと笑った。


「話は変わるけど、最高のスパイスって何だか分かる?」


「えっ? スパイス?」


「そうそう、最高の調味料」


「空腹じゃなくて?」


「それより上があったのよ。この間、思いついたの」


「なんだろ……、食前のアイスとか?」


「このまま締め上げるわよ?」


「冗談冗談、降参だよ」


「ちょっと、早すぎよ。まぁいいわ。答えは無関心」


「無関心? その心は?」


「心なんてないわよ。それこそ無関心」


「なるほど」


「さぁ食べるぞ、さぁ味わうぞって意気込んで食べたときよりも、何げなく食べた物を美味しく感じることってあるでしょう?」


「ああ、あるある」


「あるは一回よ」


「そうだっけ?」


「そうアル」


「大局的にものを考えていそう」


「そうかも。ほら私って、そこはかとなく聡明感が漂っているような感じだから」


「どっちつかずだね」


「要するに舌に不意打ちを喰らうわけね。食べ物だけにね。まぁ、つまり私が言いたいのは、不意打ちは心に残るってことよ。そして、不意打ちは心残りでもあるの」


「心残り」


「そう、不意打ちを食らうと、今の何だったんだろうって思うでしょ? 知りたいって思うでしょ? わけも分からずにいたくないって思うでしょ? 突然だった分だけ渇望するの。まるで、拒食症に憧れる、過食症患者みたいにね」


「渇望ね」


「そう、不意打ちの衝撃にしてやられるの。忘れられなくて。欲しくて欲しくて堪らなくて。私たちはそれに日々生かされてる」


 ユミコは浅く溜め息をつく。

 餓えと嘔吐の苦しみや、所在ない虚しさと不安があるから、私たちは生きていける。夜明け前の静けさや暗闇がなければ、朝陽はあそこまで輝かない。


「人生のスパイスか」


「そう。……いいえ。スパイスどころじゃないのかも。生きていくための前提条件なのかもしれないわ。辛いことは突然やって来る。でも日はまた昇るの。もちろんポジティブな意味で」


「日はまた昇る、それもポジティブに」


「そう、だからね、辛いことも、苦しいことも、不意打ちも悪いことばかりではないってこと」


「そうかもね。なにせ、日はまた昇る」


「それもポジティブにね」


 締め括るように言って、ユミコは私から手を放した。続けて苦悶の声を上げた。


「……ああ、腰が。中腰は応えるわね、私も、もう歳ね」


 とユミコはおばさんくさいことを言う。


「若い頃は、1日中、中腰でも平気だったのに」


 いくら若くても、それはぎっくり腰にでもなるんじゃないか、とかなんとか思っていると、ユミコはすたすたとドアの方へ歩いていった。


「眠いから私はもう寝るわ。あなたはゆっくりしてて。でもあんまり、夜更かしはだめよ」


「ああ」


「おやすみなさい」


「おやすみ。あと、ありがとう」


「寝不足はマジでヤバイ」


 ユミコは照れたように言うと、ドアを閉めて部屋から出ていった。

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