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「む? むかし昔、あるところに、特に可哀相でもなく、かといって特に幸せでもない子供がいました。時にその子供は、自分は世界一不幸だと思ったり、反対に世界一幸せだと思うことがありましたが、それは考えすぎで、大袈裟がすぎるというものでしょう。
その子は、どこにでもいる普通の子供です。
宿題を疎ましく感じて、遊びのことで頭がいっぱいで、毎食毎食の献立が気になって、早く寝なくちゃいけないのが不満で、明日が待ち遠しくて、そして何より、お父さんとお母さんのことが大好きでした。
誰かと比べればあまりにも幸福。誰かと比べればあまりにも不幸。誰かと比べなければあまりにも退屈。
幸せで、不幸せで、退屈な日々。物心がついて、はっと気が付いた時にはもう、そんな日々がすでにそこにあり、そしてそれは、これからもずっと続くものだと思っていました。
そう、あの日までは。
猫死んじゃった。
猫死んじゃった。
定番の替え歌。
学校の音楽の時間。退屈紛れに替え歌一つ。誰かが歌い、やがて伝播していく。先生はピアノを強めに引いて怒ってた。替え歌はぴたりと止む。休み時間。替え歌は終わらない。猫だけでは飽き足らず、色んなものを死なせていく、殺していく。替え歌の替え歌。みんなで面白い替え歌を考え合う。二文字ならもう何でもいいというように。取り憑かれたように一心不乱に。死なないものも、意味のなさないものも。もう何でもありになっていく。でも終わらない。
友達の1人がこう歌いました。
パパ死んじゃった。
ママ死んじゃった。
不謹慎な替え歌。でも子供の頃は、どうしたって不謹慎なものに惹かれるし、面白く感じてしまうものです。
彼も友達と一緒になって歌いました。
パパ死んじゃった。
ママ死んじゃった。
その歌はしばらくの間、友達の間で流行り歌われつづけました。
そう、あの日までは。
ある日、彼のお父さんが死にました。
病死でした。
心臓の発作です。
兆候は少しもありませんでした。あまりにも突然のことだったので、彼は長らく、お父さんは自殺したんじゃないかと疑っていました。自殺の兆候だって少しもなかったのに不思議ですよね。
でも彼は、こんな理不尽なこと、起こるはずがないと思ったんです。自分のお父さんが、こんなに早く、こんなに突然に、誰かの意志もなく、ただ運命に殺されてしまうなんて、考えられませんでした、信じられませんでした。理由があるはず、あるべき、なきゃいけないと、そう思っていました。
でも、そんなものはありませんでした。
お父さんは、ただ、死んだんです。
誰の思いもありません。
ただ、死んだんです。
お父さんが死にましたとさ。
替え歌の替え歌。
パパ死んじゃった。
その日を境に彼は変わりました。自分でもそう思っていましたし、実際に彼は、周りからそう言われました。
人生観、そんな大袈裟な言葉が頭に浮かぶほどでした。
ですが彼の変化なんて、お母さんの変わりように比べればあまりにも。
お父さんが死んでから、
その日を境に、
お母さんは少しずつ死んでいきました。
お父さんがいきなりなら、お母さんはだんだんと。
最初はちょっとした違和感でした。
お母さんと少しだけ、会話が噛み合わなくなりました。
お母さんは少しずつ、独り言が多くなりました。
お母さんの挙動が少しだけ、ぎこちなくなりました。
本当に些細な変化です。
毎日顔を合わせる彼でさえ気が付かないほど僅かな変化。あるいは毎日顔を合わせているからこそ、気付けない変化だったのか。
お母さんは少しずつ変わっていきました。徐々に自分自身を見失っていきました。お母さんの心は割れて、細かく細かくなっていきました。
身体はそのままに、心だけがゆっくりと、ゆっくりと、だけど段々と、段々と早く小刻みに小刻みに加速して気が付いたら取り返しの付かないことになっていてそしてもう何もかもが手遅れになって、いましたとさ。おしまい。
お母さんはそんな中でも変わらずに彼を見て、彼を愛してくれました。自分自身を見失っても、彼のことは見失いませんでした。我を忘れても、我が子への愛は忘れませんでした。
でもお母さんの心は、ゆっくりと、だけど着実に原形を失っていきました。
お母さんは、2階のベランダの手摺りで、遊ぶようになりました。
クローゼットの中のベルトで、市販のお薬で、台所やトイレやお風呂の洗剤で、お料理に使う包丁で、お母さんは何をしようとしていたのでしょう。どんなことをして遊ぶつもりだったのでしょう。
――お母さん何してるの――
――何でもないわよ――
そんな会話が繰り返し繰り返し、交わされました。
心が割れて粉々になって、それでもそれは本人だといえるのでしょうか。分かりません。
あの日を境に、お母さんはずっと夢を見ているんだ、そう彼は思うようになりました。お母さんが妄想に溶けていく。お母さんが夢に溶けていく。幻想に、夢に、悪夢に、妄想に、お母さんが呑み込まれていく。心が砕けて落ちていく。砕けた隙間に夢が染み込んでいく。
やがてお母さんは死んでしまいました、とさ。とはいうものの、あの日から10年近くの歳月が流れていました。身体を壊し、内臓を悪くして、長く患いながら、苦しい治療や、悪足掻きのような延命の末、お母さんは死にました。
お母さんは死にましたとさ。
替え歌の替え歌。
ママ死んじゃった。
病死だ。あんなことがあったんだ。病んで当然だ。当たり前だ。しょうがない。見方によっては長生きした。ただの病死だ。残念だったけどよくあることだ。周りの大人はそんな風なことを言っていました。
でも彼にはそうは思えませんでした。彼の心持ちとしては、いえ、感覚、いえ、むむ、質感、む、としては、お母さんは、むむむ、誰かに、む、何かに連れていかれた、もしくは、そうじゃないのなら、お母さんは自殺だと思いました。
パパ死んじゃった。
ママ死んじゃった。
その歌詞が、そのメロディーが彼の頭から離れません。誰かが、頭の中で歌っているんです。ピアノを弾きながら、楽譜もピアノも見ずに、じっと彼を見ながら、まるで彼の目を見ているとメロディーや歌詞が自然と頭に浮かんでくる、とでもいうように。
その歌は、仮定の上で、色々なものを死なせて殺してみせましたが、実際に死んだのは彼の両親だけでした。ほんの冗談のつもりだったのに、悪気なんてなかったのに、本当にそうなってほしいなんて少しも思っていなかったのに。
何故でしょう。どうしてでしょう。
お父さんの訳知り顔、お母さんの意地悪な笑顔。2人の、好きだった表情が消えていく。2人に懐かしくなんて、なってほしくない。お父さんとお母さんが、懐かしさに消えていく。顔も、思い出も、声も、写真の姿でさえ、薄く遠くなっていく。
周りの大人は、2人のことを、まるで聖人が何かみたいに揶揄します。彼はそれが堪らなく嫌でした。何だか震えてくるくらい、嫌で嫌で堪りませんでした。
非の打ち所がなくて、美しくて、善行を積み、何の後悔もなく天に登った?
む?
そんな人たちだっけ?
むむ?
何の後悔もなく?
むむむ?
床に倒れた父。チューブだらけの母。
真っ赤な服。真っ白な服。
深夜の闇の中。清潔な病室。
硬く冷たい廊下の上で。柔らかく温かなベッドの中で。
ギロチンみたいに一瞬で。石打ちみたいにこつこつと。
むむ?
むむむ?
遺影で笑っていたらそれでいいの?
終わりよければ全てよし、ということ?
そんなの、人生に何の意味もなくなっちゃうんじゃない?
む?
パパの分も。
む?
お母さんの分も。
む?
親がいない、そんなレッテルを貼って特別扱いする奴が世の中にはいるが、先生はそんな風にお前を見ないからな。
むむむ?
まあ、大変ねぇ。だけど。
ああ、それはそれは。だけど。
なるほどね。でも見方によっては。
むむむ?
何をしても、しなくても、すべてが美談になる。過去のことも、これからすることも。
そして彼は末長く、むむむむむ、と暮らしましたとさ」
突然、むむむむむ、と胸元が震える。
胸のポケットで携帯が震えている。
目線で、どうぞと促す店員。
携帯を取りだす。ユミコからメッセージ。写真が添付されている。友達の家で、友達と無邪気に遊ぶヨシヤ。これでもかと開かれたVサイン。
自然、笑みが零れる。しばらく眺め、満足し、待ち受け画面に戻した。またヨシヤの写真。待ち受けの画像にはヨシヤの写真を使っていた。
こっちを向いて不敵に笑っている。
例の悪戯っ子の顔。もったいぶるような顔。その顔がどうしようもなく懐かしい。ヨシヤの顔が懐かしく感じる。何故だろう。まるで遥か昔の記憶の向こうからやって来るような、古びた懐かしさ。私とヨシヤはそんなにも長い付き合いだったっけ。
まして、ヨシヤがこの顔をするようになったのは最近のことだ。なのにこんなに懐かしい。
懐かしい、懐かしい。懐かしいのが分からない。あるいは私は死に掛けていて、束の間の走馬燈を見ているんだろうか。走馬燈は、唯一感じることのできる、他人の人生。
だから、今まで現実感を感じられなかったのだろうか。今まで不安で、生きた心地がしなかったのはただたんに、私が死に瀕してしたからなのか。
どうしてこんなに切なくなるのだろう。ヨシヤはいつもそばにいるのに。
突然、オルゴールの音が聞こえてきた。傍らに置かれていたオルゴールが鳴っていた。オルゴールは天使の囁き。オルゴールはどんな歌も天国の歌にしてしまう。天国への歌。天国からの歌。とっても綺麗なクリスマスソング。賛美の歌。聖なる歌。
オルゴールの蓋がゆっくりと開いていく。隙間から光が漏れてくる。古びたオレンジ色。オルゴールの中はほんのり明るかった。中では、陶器でできたサンタクロースとトナカイが、くるくると回っていた。傍らには、小さな家に、クリスマスツリー。雪が積もっている。オルゴールの中は永遠のクリスマス。
家の窓に子供の顔。目が合う。じっとこちらを見ている。訳知り顔で、あるいは意地悪な笑顔で。悪戯っ子な顔をして。
どうしてこんなに懐かしい?
分からない、分からない。分かることは分かるし、分からないことは分からない。それは当たり前のこと。
分からないから尋ねます。僕たちは永遠の尋ね人。
これはペンです。はい。
私の出身地はカナダです。はい。
これはあなたの息子です。はい。
これはペンの昇華物です。はあ。
あなたの出身地を決める決定権は、私がせどり師のアソコへ直接インサートしました。はあ。
これは左右が取り分け反対で、後ろが前後しています。まず、斜めですね。はあ。
いいですか、気を確かに持って聞いてください。はあ。
あなたの父親の命は戻りそうにありません。はあ。
手は尽くしたのですが。はあ。
誠に申し訳ありません。はあ。
代わって私からご説明致します。はあ。
こちらへお掛けください。はあ。
かくかくしかじかの理由でお父様は亡くなられました。はあ。
文章は私が考えました。あなたはそれを読み上げてください。はあ。
これはあなたの父親の骨です。はあ。
まぁ、早いか遅いかの違いだけですよ。はあ。
まだ、お小さいのにしっかりしていらっしゃる。やはり。はあ。
お父様の息子なだけありますな。いやはや。はあ。
頭が下がります。まったく。はあ。
ご立派ですな。だから。はあ。
やはり、いやはや、まったく、だから。
あなたの父親は天国で喜んでおられるでしょうね。ははあ。
「あの……」
目の前で手が揺れている。
「あのあの」
手の平がこちらを向いている。ひらひらひら。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫? 何が?」
「……」
手のひらひらが止まる。手は引っ込められ、指が組まれ、カウンターの上に置かれた。
「心ここにあらずというようでしたよ」
「誰が?」
「いえ、ですからお客様が……」
怒気を含む声を出してしまう私に、店員は困ったような苦笑いを浮かべる。決して困ってはいないんですが、というような苦笑い。困りましたねぇ、困ってはいないんですが、というような苦笑い。
「また、立ち眩みを起こされたようで」
「立ち眩み?」
「はい」
「すいません、……それはご迷惑をお掛けしました」
「いいえ、なんともなさそうで、よかったです」
と言いながら店員は、いやぁ、本当によかった、困っては、いなかったんですが、そんな表情を浮かべる。
「温かいミルクでもいかがです?」
「い、いえ、大丈夫です。それよりも」
「冷たい牛乳ですか?」
「ではなくて」
「常温? それも人肌の?」
「……違いますよ。……いつからです?」
「えっ? 3年ですが?」
「3年?」
「ええ、脱サラしまして、早いものです……」
店員は懐かしそうな顔で、遠くを見るような仕草をする。
「……あの頃は丁度……」
「そうじゃなく、どれくらい私は気を失っていたんですか?」
と私が聞くと、店員は心底驚いたというように、細い目をそれでも見開いて、
「ええっ? 気を失っていたんですか? 気分は悪そうでしたが、……普通に応対されてましたよ?」
「……普通に」
「ええ。救急車を呼ぶかと聞けば、いらないと。携帯が鳴っていると伝えると、ありがとうと」
覚えていない。
気分の悪さに忘れてしまったのか。あるいは無意識だったのか。
「……それで、立ち眩みは、いつからでした?」
「ついさっきですよ」
「具体的には?」
「そうですねぇ……丁度、私が……」
と店員が話し出そうとした時、店の入り口が開き、ドアベルか鳴った。何度も鳴った。鳴り止まない。ぞろぞろと若い男たちが入店してきた。蛍光色の派手な服装をした集団。冬だというのに、身体の線がはっきりと分かるような服を着ている。身体からは湯気が出ている。
「いらっしゃいませ。何名様で?」
「17人」
と集団の中の1人が言った。日焼けしていて、白い歯を輝かせている。いかにもスポーツマンという感じ。
「それはそれは」
店員は少し困惑顔だ。はいといいえを、同時に口に出したようにとでもいえばいいのか、形容し難い表情だった。
1人で切り盛りしているようだし大忙しになるだろう、邪魔しても悪い。私は改めて礼を言い立ち去ろうとした。とそこに声を掛けられる。
「本当に、ご気分は問題ありませんか? なんでしたら、もう少し休まれていかれても構いませんよ?」
「ああ、ありがとう。でも平気です。ご迷惑をお掛けしました」
「とんでもございません。また、いつでもいらしてください」
「ありがとう。ぜひ」
「今度は、てめぇの自慢の嫁とガキの面も拝めろよな」
店員が何かを言うのを遮るようにして、そんな声が聞こえてきた。席に着いた蛍光色の集団は、さっそく大声で騒いでいた。
破顔して見送る彼の目は一際細く、まるで本当のキツネのようだった。
ドアベルを一つ鳴らし、外へ出た。
コートの隙間から冷たい風が入り込む。刺すような切り裂くような寒さ。
カラフルな色合いが目につく。車道と歩道を仕切る鉄柵に、自転車が立て掛けてある。さっきの集団のものだろう。自転車は、鉄柵に紐状の鍵で括り付けていた。何重もの鍵で、鉄柵と自転車が、自転車と自転車が、括り付けてある。がんじがらめ。無数の自転車はまるで一つの塊のようだ。
もう日は落ちていた。しかし時間はそれほど過ぎていなかった。ずいぶん長居したように感じたのは、私の気のせいだったようだ。まだ時間はある。もう少し、プレゼントを探すことにする。
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