7
ぼんやりと外を眺める。
窓越しに見る風景は、何処かフィクション染みていた。早足で歩く人々は、そうすることで世界を早送りしようとでもしているみたいだ。
店内には静かなジャズが流れていた。
時の流れを止めようと目論むような曲調。外の光を取り入れるには窓は小さすぎて、店の中はまるで夜のように薄暗い。置かれた雑貨や雑誌はどれも古びている。飾られたウサギやネズミの置物は、置物であることを差し引いても、生気がまったく感じられなかった。私の他に客はいない。こう雰囲気が暗いと、クジラに飲まれた人形のような心持ちになってくる。
立ち眩みを起こした私に、親切な人が声を掛けてくれた。救急車を呼ぶ呼ばないの押し問答の末、その人は、ならばせめて休める所まで付き添うと言って、この店まで案内してくれた。世の中には本当に、聖人のような人がいるのだと驚いた。私がお礼の言葉を口にすると、その人は困った顔をして、段々つっけんどんになっていった。終いには、そんなつもりで声を掛けたわけじゃないと、怒りだす始末だった。そうして彼は逃げるように立ち去ってしまった。
困っている人に手を差し伸べて、お礼の言葉を拒絶する、そんな人がこの世にいるのかと感慨深かった。
喫茶店に入り、お冷やとコーヒーを飲むと、すぐに体調は落ち着いた。すると無性に何かを食べたくなった。コーヒーのおかわりを頼み、軽食を注文した。思えば、朝から何も食べていなかった。それなのに柄にもなく歩き回るのだから、立ち眩みも起こすはずだと、独りで納得する。
時計を見るともう夕刻だった。いくらも経たない内に太陽の光に色がつく。
サンドウィッチとコーヒーが運ばれてきた。早速、サンドウィッチにかぶりつく。サンドウィッチの中身は野菜のみだったが、鼻息が荒くなるほど旨かった。鮮度の問題か、それとも空腹だったからかだろうか。正直、これまで食べてきたサンドウィッチの中で、一番旨かった。特に中のソースが最高だった。刻んだトマトと玉ねぎの食感が堪らない。一体、なにで味付けをしてるのだろう。ペパーミントのような清涼感と、ナッツのような香ばしさ。そしておそらく、そのどちらも入ってはいない。私に分かるのはそれくらいだ。
あっという間に平らげてしまう。本当に旨いものは、ゆっくり味わってなんていられない。
外食をして、こんなに気分がよくなるのは、久しぶりのことだった。
コーヒーを飲み終え、レジに向かう。相変わらず、客は私だけ。
店のマスターなのだろうか、男の店員が対応してくれた。年齢は若いとも老けているともいえない。それよりもその目が印象的だった。つり目、それも切れ長の。そして小さい瞳の、三白眼。
「旨かったです、サンドウィッチ」
と私は彼に声をかけた。あまりこういうことはしないのだけれど、まさに思わず口に出たという感じだ。
すると、店員は、
「あ……どうも、ありがとうございます」
と囁くように言ったきり、黙ってしまった。もしかすると口下手なのかもしれない。心無しか更に目が長くなったような錯覚。サンドウィッチに何を使っているか聞いてみたかったが、あんまりしつこく話し掛けるのは、何となくはばかられた。礼を言い、店を出ようとすると、すぐに、後ろから声を掛けられた。振り向くと、店員はレジの横に置かれたバスケットを指し示しながら、
「あ……よかったら……どうぞ、おまけです」
と言った。囁く声は、子音がほとんど消え入りそうだ。こういう喋り方なのだろうか?
バスケットを覗き込むと中には、小さなお菓子がたくさん入っていた。二種類あり、赤白模様の杖のお菓子に、人の形を模したクッキー。クリスマス定番のお菓子だ。どちらも手の平に収まるくらいの大きさだ。
確か、杖の方は『キャンデイケイン』という名前だったはずだ。クッキーの方は何という名前だったろう? 何となく打ち解けたような気持ちになり、私は店員に聞いてみることにした。
クッキーを手に取り、
「あの……これってなんて名前でしたっけ?」
「……えっ? クッキーですが」
「……」
まあ、そうでしょうけど。思い掛けずの大正解。
何だろう、もう一度改めて聞くのはすごく、気まずい。でも今聞いて置かないと、気軽に来れなくなるような気もする。今、聞いてしまおう。聞くは一瞬の気まずさ。
「ごめんなさい……じゃなくて、このクッキーの種類なんだけど……」
「んっ? ああ! なるほど! そういうことですか!」
と彼は滑舌のよい大きな声で言った。なんだ普通に喋れるじゃないか、と思っていると、彼は続けて言った。
「これは、『ジンジャーブレッドマン』です」
「ジンジャー? 生姜?」
「ええ。寒い冬は生姜に限ります」
「へぇ、クッキーに生姜かぁ」
「体調不良も吹き飛びますよ」
と店員は意味ありげな視線を向けてくる。
「体調不良?」
「あれ? 違うんですか? 肩を抱えられて入って来られたので、てっきり……」
「ん? ……ああ。ちょっとした立ち眩みですよ。大したことはないんです」
やけに囁くような声だったのは、私を気遣ってのことだったのかと合点がいく。この店に来た経緯も、サンドウィッチのあまりの旨さに吹き飛んでしまっていた。
「じゃあ、遠慮なく頂きます」
私は、ケーンとクッキーを、それぞれ1つずつ、バスケットから掴みとる。とそこに声を掛けられる。
「遠慮しないでください」
店員はしたり顔で浮かべ。更に続けて、
「たくさんありますから、1つと言わず、2つと言わずに。自信作なんですから」
「へぇ……。これ、手作り? すごいな……。じゃあ……3つずつ貰おうかな」
「どうぞどうぞ」
「このクッキーなんか、今にも動き出しそうですね」
「えぇ、ジンジャーブレッドマンはそうに限ります。ジンジャーブレッドマンは実際に、物語の中では動き回るんですから」
「物語?」
「はい。色々ありますよ。おとぎ話、昔話の類いですけどね」
「……ああ、小さい頃、絵本で見た覚えがあるような気がする」
と、そこで、突然、クリスマスソングが店内に流れた。原曲をジャズ調にアレンジしてある。少しずれたクリスマスソング。違和感。聞き慣れた、それでいてまったく違う、クリスマスソング。リズムが早い。原曲よりずっと激しいサウンド。
クリスマスはこうに限る。クリスマスはこうでなくちゃ。クリスマスは最高さ。クリスマスはこうあるべきさ。クリスマスへようこそ。クリスマスを味わおう。クリスマスに身を任せよう。クリスマスを楽しもう。そんなことを英語で歌ってる。
曲の向こうで、サンタが歌っている。そんな、想像。真っ赤な服を着て、私の眠るベッドの傍らで、私の寝顔を覗き込みながら。
「ジンジャーブレッドマンの絵本は、子供へのプレゼントには最適ですよ」
「えっ?」
「子供への読み聞かせに最適な、ジンジャーブレッドマンの絵本」
「はあ……」
「絵本は、小さな子供と大人の心を一つにします」
「……まぁ、ね」
「夢を語り聞かせるものは、同じ夢を見てしまう。ジンジャーブレッドマンの物語は、語り聞かせるほど謎が深まっていく。本当に不思議です」
「不思議?」
「ええ。逆説的と言いますか、明示的と言いますか。いいですか、物語の中では、ジンジャーブレッドマンは例外なく動き回っているんですよ」
クッキーを褒められたからだろうか、彼は突然、饒舌になる。細い目を更に細め、つり目を更に吊り上げて。私の相槌を待たず、彼は話をつづける。
「しかし現実のジンジャーブレッドマンは動かない。これにも例外はありません。つまり、ジンジャーブレッドマンは虚実を表す者なんですね。ジンジャーブレッドが自らの意思で歩けば、それは虚構です。それが、とても面白いなって思うんですよね。
物語に触れ子供はそこで、ジンジャーブレッドマンが歩き回るという真実を知ります。けれど実物のジンジャーブレッドマンをいくら眺めても、絶対に動き出さない。こんなに今にも動き出しそうなのに、動かない。見れば見るほどそこに、意志の存在を感じ取ることができるというのに。
子供は2つの真実を目の当たりにして何をするか、そう、想像に耽ります。真夜中に、あるいは自分の見ていないときに限って、ブレットマンは動いているのだろうかと。
虚構の世界と、現実の世界は、次第に切り離されていきます。子供の夢を壊すのはリアリストばかりではありません。虚構の世界の住人の囁きは、受け入れざるを得ないんです。リアリストの言うことであれば、突っぱねることもできます。ですが虚構の住人の声は、子供の夢を、まるで漁師がイカの腸を抜くように一瞬で奪い去ります。虚構の世界の住人の囁きからは逃れられない。耳を塞いでも、いえ塞げば尚更、囁きはすぐそばに。
虚構の住人たちこそが、介錯人なのです。
虚構の世界の虚無性に、子供は自分で気がつく。やがて子供は子供でなくなっていく。その最後の最後に、虚構の住人はお別れを言いに来ます。最後の別れ。最後の挨拶。それは、切腹者と介錯人の挨拶のように一瞬です。
首を下げ頚椎を開いた首と、刀を握り締めた両手で、最後の挨拶を交わすんです。刀を通して、刀に伝わる衝撃で、刀での行為で、挨拶をするんです。
だけれど、虚構の世界と現実の世界は、完全に切り離されることはありません。2つの世界は、大人になろうと、首の皮一枚で繋がっているんです。渾身の力で引っ張っても、刀で何度切り付けようと、その皮は決して断ち切れない。かつて子供だった大人は、現実の世界の虚無性にさえ、自ずから思い至る。その時、大人の後ろにはブレットマンが立っています。虚構の世界からは決して逃げられない。だってそうでしょう? ジンジャーブレッドマンの足がどんなに速かろうと、最後には必ず食べられてしまうんですから」
彼は何故かそこでウィンクをした。好感の待てる素敵なウィンク。目尻の上がった斜めのウィンク。右目でウィンク。人間離れしたウィンク。
「そうなってくると、このキャンデイケインも、明示的あるいは暗示的または象徴的です。キャンデイケイン。お菓子の杖。杖は歩行を助けるもの。ここでも、お菓子は歩き回るのだということが示されている。お菓子の人形に、お菓子の杖。お菓子もやがて三本足に? だとするとお菓子たちにも時間の経過、成長、老いがあるということになる。まず、四本。次に、二本。最後に、三本」
彼は右手を、自身の腹の辺りに持っていった。そして、手の甲を私に向け、素早く指を立て、数を示した。四二三と、四、二、三と、指を立て立て、四二三、手品みたいに、四、二、三と。視線を上げる。すると彼は声を出さないながらも、唇を動かしていた、四二三と、四、二、三、と。パッ、パッ、パッ、と指を立てる。四、二、三。パク、パク、パク、と唇を。四、二、三。音を立てる指。無音の口。
無音の口に、また声が宿る。唇は黙ってばかりでいられない。
「足腰の衰えたジンジャーブレッドマンはキャンデイケインを突くのでしょうか? ええ、そうでしょう。ジンジャーブレッドマンは駆けるものです。足腰が弱ったとしても、杖にすがってでも、歩くのでしょう。
すべてが示唆に富んでいる。つまりお菓子も我々と同じだということ。老いて衰えてもなお、若い頃の習慣を捨てられない。忘れられない。お菓子の杖。お菓子の家。お菓子の酒樽。お菓子の家具。これらは我々が日常的に使うものを模している。つまりお菓子も我々と同じだということ。
不思議に思ったことはありませんか? 我々はあんなに小さな子供だったのに、今ではこんなに大きくなっている。膨らんでいる。そうです、我々はベーキングパウダーで膨らんだんです。我々は小麦粉でできている。我々の体液は溶き卵で。我々の内臓はバターで。我々の思考は砂糖の賜物。それでは魂は? もうお分かりですね。そうです。我々の魂はドライジンジャーでできている」
四、二、三。四、二、三。
四だと思ったらすでに二になっていて、二になったと思っていたら、もう三になっている不思議。バネのような指の動き、仕掛けのような手、玩具のような手。パッパッパッ、パッパッパッ。
容赦のない指の動き。指は、時間は、待ってくれない。あっという間に時間は流れる。ともするともう終わりみたいで。ともすればもう手遅れみたいで。ましたとさ、おしまい。
素早い指の動きを見る内に、心臓が激しく鳴り出す。大きく鼓動。素早く鼓動。全身に一気に血液が巡る。
黄色くとろみのある溶き卵。しっとりしたバター。魔法のようなベーキングパウダー。きめ細やかな小麦粉。甘い甘いお砂糖。香ばしいドライジンジャー。
突然、指と唇の動きが止まる。
匂い立つお菓子の香り。
無数の人形。無数の杖。
動かない人形に、突かれることのない杖。
動いているのは匂いだけ。
動くのは匂いだけ。
風もないのに濃く薄く。
動く匂いに合わせるように、また唇が動きだす。
「我々の身体は小さな小さな金属でできている、我々の身体は鶏の身体の元となるスープでできている、我々の身体は牛のお乳を濾して固めたものでできている、我々の身体はサトウキビの屑でできている、我々の身体は小麦を破砕したものでできている、我々の身体は生姜の死骸でできている」
声を追うように、指も動きはじめた。堪らず、堪え切れずに、これが私の性なんです、とでもいうように。
激しい動き、容赦のない動き、迷いも躊躇もなくなって、たがが外れたように、ぬるぬると溶き卵が踊るように、サトウキビのようにしなりながら。四、二、三。
「我々の身体は、金属の、卵の、牛の乳の、サトウキビの、小麦の、そして、生姜の成れの果て」
またもや、指の動きが突然、止まる。
疲れた?
お砂糖を切らした?
バターが足りない?
生姜を買い忘れた?
どれも違う。
ゆっくりと、
四。
よく見ろと、
二。
意味を込めて、
三。
「出来立てのクッキーは、やがて湿気て萎びたクッキーに。
我々の身体は、我々の身体でできています。それは間違いありません。ですが、我々のこの造形はどこから来ているのでしょう? 我々の身体の金型は? あるいはそれは、ジンジャーブレッドマンなのではないですか? ジンジャーブレッドマンが先にあり、それを元に我々の身体の金型は作られた。
私は常々疑問に思っているんです。不思議に思っているんです。本当に猿が人間になったのかと。
我々はどこから来たのか、それは途轍もなく重大な問いです。なのに何故我々に、もっとたくさんの情報や証拠が開示されないのでしょうか? 何よりも大切なことのはずなのに。猿を人に変えられないから? 己にできもしないことは、語ることができないとでも言うのでしょうか?
人間はジンジャーブレッドマンを元に作られた。私にはこちらの方が余程、真実らしく思える。そう考えればすべての辻褄が合うのです。だって、そもそもがおかしいと思いませんか? 子供に嘘を教えるはずないでしょう? 子供に嘘の話を教えるわけがないじゃないですか。しかし、ジンジャーブレッドマンの童話が真実だとすれば、話はまったく違ってきます。
ただの物質を元に、人型の者によって作られ、やがて生まれた場所を離れ、紆余曲折あり、最後には人型でないものに食われ砕かれ飲み込まれる。
何故我々が、身にもならないお菓子に、あらかじめ嘘だと分かっている虚構の物語に、これほど夢中になるのか。
それは、それが真実そのものだからだったんです。
何故、食料が足りないのか。何故、戦争がなくならないのか。何故、死者には会えないのか。何故、差別なんてものがあるのか。何故、同じ悲しみが何百、何千年と繰り返されているのか。何故、世界には、こんなにも報われないことばかりで溢れ返っているのか。もう、明白ですね」
三。
指の動きが止まった。
三。
そこから動かない。
三。
突然、手が振られた。まるで手品のような素早い動き。
三。
繰り返し繰り返し手が振られる。残像が残るくらい激しく。
突然、静止。
三。
セッセッセッと手が振られ、パッと手が止められる。
三。
セッセッセッ。
パッ。
三。
「この手の話は尽きることはありません。それこそ昔話のように。時が進むほど、昔話は増えていくのですから。すべてが昔話に組み込ませれていきます。死者なんていなかったんです。ただ私たちが目を逸らしていただけだったんです。
ああ、明日はクリスマスイブではないですか。明日、明後日は童話の日。クリスマスイブ、クリスマスだけで一体どれほどの時が流れたでしょう。どれほどの物語が語られたでしょう。話は尽きない。
どうです。よかったら今日は夜通し、ここで話しませんか? せっかく真理を得たのです。童心に帰りましょう。昔話、童話は真実。それを思い出した。ほっぺの落ちそうなお菓子を食べながら、好きなだけ夜更かしをして、楽しい楽しい物語を楽しみましょう?」
「……ああ、……そうしようかな……」
「カウンターへどうぞ」
「……悪いね」
「いいんです。牛乳はいかがです?」
「……貰うよ」
「お砂糖は?」
「……入れてくれ」
「どれくらい?」
「……もちろん……たくさん……べろがザラザラになるくらい」
「お菓子は何がいい?」
「……あの可愛いクッキーと……キャンディーが……食べたい」
「召し上がれ」
「……おいしい」
「どんどん、食べて、そう」
「……」
「おかわりはたくさんあるから」
「……うれしい」
「遠慮しないで、いくらでもあるのよ? だからたくさん食べて」
「……夢みたい」
「それじゃあ、約束通り、お話を聞かせてあげるわね」
「……たのしみ」
べろがお砂糖の甘いのでとけそうで、おいしくて気持ちよかった。
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