昔、ユミコと2人で、遠くの遊園地へ遊びに行ったことがあった。

 あんなに長時間、運転したのは初めてのことだった。

 大型連休だったせいか道路はひどい渋滞で、夕方には到着しているはずが、着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 遊園地に隣接したホテルにチェックインし、荷物と車を預け、ホテルから遊園地まで徒歩で移動した。


 遊園地の照明で、夜空がほんのり白く染まり、まるで夜明けの空のようだった。

 ずっと運転していたせいか、肩も背中も凝り固まって、老人になった気分だった。歩きながら目一杯伸びをする。節が一つ鳴る度に、若くなっていくような錯覚。夜明けのような薄明かりが、昼間のような明るさに変わっていく。


「ようやくの夢の国」


 そうユミコが呟いた。

 さっきまで、助手席でやつれた顔をしていたのに、すっかり様変わりしていた。口角が少し上がっている。

 ユミコの顔は、何だかいつもより、どこか幼く見えた。

 ゲートを潜り抜け、ようやく夢の国へ。


 夜というのを忘れさせるほど、人がたくさん歩いてる。無邪気な笑い声に。陽気な音楽。遠くには煉瓦の建物。人工の川が流れ、辺りの照明を反射していた。川には石造りの橋が掛かっている。マスコットに群がる子供たち。美味しそうな匂い。テラスでカップルが食事を楽しんでいる。現実感がなくて、何だか遠くの景色を見ているようで。地に足が着かない感覚。視界はどこか琥珀色で、耳も少し遠くなったようで。


「まさに夢の国ね」


 ユミコが言った。その声はどことなく夢心地。


「酔いそうなくらいだ」


 正直な言葉が口に出た。


「酔い潰れたらどうなるの?」


「さぁ……気分がよくなって、動けなくなって……帰れなくなるんじゃないかなぁ」


「そんな気がする」


「美味しいものがいっぱいで、楽しいことがいっぱいで、景色は綺麗で、みんな笑っていて、係りの人は優しくて、働かなくてもよくて、へべれけになりそう」


「へべれけ? 親父くさ」


 と言ってユミコは高らかに笑う。ちょっと笑いすぎなくらいだ。


「そんなに笑うなよ」


「だって……。それにしてもよく独立しないなって思うなぁ」


「独立?」


「こんなに人がいて、幸せそうで、理想的な国なんだもん」


「まぁ、叶わないのが夢だから」


「最低。この国じゃ、夢を壊すのは憲法違反よ」


「憲法って……」


「罰っせられるわよ」


「どんな罰?」


「それは……国外追放か永久労働かよ」


「追放はいいとして永久労働って重すぎないか? 何をやらされるの?」


 ユミコはきょろきょろと辺りを見渡した。少しして首が定まり、何かを指差し、私を見て、にやりと笑った。指の先では、マスコットの着ぐるみが子供に抱き付かれていた。


「まさか、あれ?」


「そう。あれ」


「ああ……なんかそうやって見ちゃうと可哀想になってくるな……なんかもう普通に見れないよ……夢が壊れたって感じ」


 苦笑しながら私はユミコを見た。


「ごめんごめん。憲法違反だね」


「追放か労働か」


「もちろん労働を選ぶよ、私は。そうじゃなくても、ああいう着ぐるみって一度でいいから着てみたいなって、昔から思ってる」


「そうなの? 夢?」


「夢? そんなわけないでしょ……。まぁ思うだけで、一生着ないんでしょうけどね。わざわざ買おうなんて思わないし。……少しの間、頭だけでも貸してくれないかなぁ」


「それこそみんなの夢が壊れるよ」


「それもそうね」


 そう言ってユミコはくすりと笑った。


「あれ」


 ユミコは先程と同じように何かを指差した。

 ユミコの指の先を追う。

 しかしそこには何もなかった。いや、何もないということはない。変わったことは、特にないように思われた。


 目を引くマスコットもいないし、泣く子供もいない。

 あるとすれば人だかりだけ。こんなにも広いのに、まるで満員電車の中のようだ。満員電車とは違い、人々はゆっくりと流れている。真水にトマトジュースが混ざり合っていくような、鈍くどろりとした動き。

 改めて指で差し示されれば、不思議な光景だなとは思う、でもただそれだけだ、何もない。


「あれ」


 ユミコはまたそう口にした。

 人込みだけで、何もない。牛歩のようにのろのろと人が歩いているだけだ。変わったことは何もない。牛歩戦術。楽しいことは終わらせたくないとでもいうように、辺りの人はみんなゆっくりと歩いている。


 夢の国に着くまでに、みんなどれほどのものを後回しにしたんだろう?

 夢でできた夢の国。ひしめく人たちだって夢心地。

 肩を寄せ合う人々は、みんなおんなじような顔をしていた。


「あれ」


 みんな、わけもなく笑ってる。笑うくらい、わけないよ。あはは。

 目の前のカップルは、こんなに人が大勢いる中で、内緒話をしている。身を寄せ合い、女の方が両手をメガホンのようにして、男の耳許で何かを言った。男の顔はだんだんと崩れていく。たいそう幸せそうな顔を女に向ける。2人はくすくすと忍び笑いを上げた。


「あれ」


 背負われ眠る子供の顔は、当然のように夢心地。夢の国で微睡んで見る夢は、どんなに気持ちがいいだろう。寝ても覚めても夢の世界。夢うつつ。現実は限りなく薄くなっていく。現実はデジャヴに成り下がる。現実なんて気のせいみたいなもの。吹けば消える儚いもの。


 子供は微睡みながら笑顔を浮かべた。後悔なんて一つもないような満ち足りた表情。笑顔と同時に、辺りが急に明るくなる。身体を突き抜ける衝撃。花火が1つ上がった。辺りの人々は驚く、同時に同じような顔で。みんなの顔が、花火が弾けるように、笑顔に変わっていく、同時に同じような顔で。


 子供の笑顔と同時に打ち上がった花火。あの子の笑顔が花火になって、空で弾けたみたい。じゃあみんなは、あの子に釣られて笑ったんだ。もしかしてここは、あの子の夢の中なんだろうか。もしそうなら、あの子が目を覚ましたら、ここはどうなるんだろう。


「あれ」


 ユミコはまた指を差した。花火を指差しているわけじゃない。指は斜め下へ。花火なんて見えも聞こえもしないみたいに、斜め下を指差している。


 人だかりの中を二人組の子供が走っていた。兄弟か姉妹か、それとも友達同士だろうか。それは分からない。何故なら二人組は、お揃いのお面を被っていたからだ。服装も、子供のそれだから性別だって判然としない。もしかしたら、おませなカップルかもしれない。二人組は手を繋いでいた。片方は片手に風船を持っていた。なのに、人込みの中を、誰ともぶつからずに走って進んでいた。ポイをすり抜ける金魚のようにするすると、人込みを駆け回っている。手を繋いで、走っているのに。あんなに長い紐のついた風船を持っているのに。あんなに楽しそうに両手を広げているのに。

 まるであの2人だけが別の世界にいるみたい。


「あれ見て」


 ユミコはうわ言のように繰り返す。

 2人はこちらに向かって駆けてくる。

 たまに顔を見合せて。

 たまに小突き合ったりして。

 動きだけで仲の良さが伝わってくる。

 2人はあっという間に、私たちのすぐ横を通り抜けていった。喧騒の中だからだろうか、2人の話し声も足音もまるで聞こえなかった。あんなに激しく駆けていたのに。大声で笑っているみたいに、身体を震わせていたのに。


「あれ、双子だったよね」


「えっ?」


 ユミコはこちらを振り向きもせずに言った。2人を目で追うわけでもなく、変わらず人込みを凝視しながら。


「そうだったかな」


「ええ」


「お面かぶってたし、どうだろ、違うかもしれない」


「いいえ、間違いない」


「そうかな……俺には男か女かすら分からなかったけど」


「双子で、女の子だった」


 振り返り二人組を探す。しかしもうその姿はなかった。


「だって、あんなに歩調が合っていた……。だって……」


 ユミコは誰に問うでもなく、独り言のようにぶつぶつと何かを繰り返している。声は次第に小さくなって、聞き取れなくなる。声にならない声で、自身にぶつぶつ問い掛ける。そのうちに不安そうな問い掛けが、確信に満ちた独り言に変わっていく。その表情は、確かな自信で歪んでいるようだった。


 手を繋いでいたんだ、歩調が合うのは当たり前だ。手を繋いで、2人が気ままにしていたら、とても真っ直ぐには走れない。人間は自然と楽な方へ落ち着いていく。2人で手を繋げば、足取りは自然と二人三脚のそれになっていく。


「行こう、観覧車に乗ろう」


 私は言った。少しだけ自分の声に違和感。久しぶりに声を出したかのような喉の引っ掛り。ユミコはこちらを振り向かなかった。だから今度はしっかりと発音した。


「行こう、ユミコ」


 それでもユミコは振り返らない。私は、ユミコの手をそっと握り締めようと手を伸ばす。瞬間、乾いた音。死体が舌打ちしたなら、こんな音かもしれないというような、場違いで、脈絡も何もないような音。


 遅れて手の甲に熱を感じた。痛みだと気付くのは更に遅れた。

 まるで現実感のない痛み。

 ユミコの手に触れた瞬間、強く手を振り払われたようだ。


 ユミコはしばらく無言だった。何か怖ろしいものでも見るように、私を見詰めていた。そして自分の右手を、左手で強く握り締めていた。丁度、拳の辺りを潰すように。人差し指から小指までが、ひしめき寄り合っていた。まるで4本の指を、一つに固めてしまおうとするように。元々は一つだったんです、だからこうすれば、簡単に元に戻るんですよ、とでもいうように。


 私はユミコに声を掛けようとした。でも声は出なかった。出す言葉を考えられなかったからだ。だからただ、口だけが開いた。空っぽのホウセンカの実が弾けるような、まるで意味のない動作。

 種のない実にも語れることがあるのか、呆然としていたユミコの目に力が戻った。


「ご、ごめんなさい……。ごめん……」


 信じられないというようにユミコは言った。


「いや……こっちこそびっくりさせて悪かったよ」


 お互いに謝りあう。私が謝ると、ユミコは私を心底悲しそうな目で見た。

 気を取り直し、私たちは観覧車に乗ることにした。

 見上げる観覧車は、まるで風車のように簡単な作りに見えた。観覧車はもどかしいくらいの速度で回っている。風のない夜だから、こんなにゆっくり回っているんだろうか。ともすると止まっているかのよう。


 私たちは観覧車に乗り込んだ。

 地面がゆっくりと遠ざかる。灯りから遠ざかっているのに、明るさが増していくように感じられた。遊園地の周りには街の夜景が広がっている。輝くそれは星空の鏡写しのようだった。遠くには微かに山並みが見てとれた。街は山に囲まれていた。そして、夢の国は街に囲まれている。


 ふとユミコを見る。ユミコは地面を見下ろしていた。綺麗な夜景に目もくれないで。

 何か考えているのか、それともいないのか。ユミコの据わった目からは何も窺い知れなかった。

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