4
こんな回想をした。
思い出は虫食いの穴で一杯で、カルメ焼きのように中身はすかすかだから、一つだけじゃ意味を成さなくて、方々から掻き集めて来なければ、とても長くは語れない。そうして作った思い出話でさえも、継ぎ接ぎだらけの寄せ集め。まるで、旅のパンフレットの目次のように、大まかなことしか語れない。
ある程度遠ざかった思い出は、何故こうも前後関係があやふやになるのだろう。過去には臨界点があって、そこに少しでも触れれば、出来事は、昔に飲み込まれる。さっき、前、昔々に、大昔。
膝の上に置かれた、自分自身の人生の目次に、目を落とす。過去に後悔、未来に不安。根を詰めれば乗り物酔いになるのは当然のことで、そんな時は深呼吸して前を向くしかない。
いっこうに始まらない回想。
私たちはいつだって乗り物に酔っている。
言ったことすら満足にできなくて、やるべきことを後回しにして、手遅れになり、やらなくてもよくなってから、それをやり始める。止めろと言われても止められない。どんなに自覚していても。今現在やらなくてはいけないことを横目に、それでも、昔やり損ねたことから手を離せない。
明日には明日の風が吹く。
でも昨日の風はどうだったろう。どうしてもそれが気にかかる。
風にさらわれた帽子が。風に掻き消された誰かの声が。
反省は何時だって大歓迎。でも、後ろ向きな後悔だって、するべきときがある。しなければ手遅れになることだってある。
と、言いながら、いっこうに始まらない回想。
どんどん手遅れになっていく。臨界点が近付いてくる。
この回想は、もう手遅れだろうか。
妻には双子の妹がいた。ユミコは、まだ妻でなく、恋人だった頃に、それを話してくれた。
妹がいた。つまり妹がいたのは過去のこと。
妹は生まれてすぐに亡くなった。ユミコは無事に産声を上げることができた。でも妹は残念ながらそうではなかった。
「私は産まれてから現在まで、自分で息をしてる。でも妹が吸ったのは人工呼吸機の空気だけ」
妹を語るとき、必ずユミコは自分自身と対比した。そこには何も入り込む余地がなかった。他の不幸な赤ん坊たち、同じ境遇の誰か、それらの人々はユミコにとっては存在しないも同じだった。私が他の誰かと比べて慰めても、ユミコは不思議そうに首を傾げるばかりだった。
「私は美味しい物を食べてる。でも妹が口にしたのは羊水だけ」「私の魂と身体はここにある。だけど妹の身体はお墓の下。魂は?」「私は生きた。あの子は死ぬ」「一卵性だったから同じ手で、同じ指だったはず」「同じ顔だったはず」「妹の顔は、こうして自分を触るのと、同じ感触だったはず」「私は今、妹の顔に触れてる?」
あの図書館で、喫茶店で、公園のベンチで、映画を見た後、ユミコは不意に妹の話を始めた。思い出したように、急にスイッチが入ったように。でも脈絡はあった。自然に妹の話を始めた。取っ掛かりがあれば、すぐさま妹の話を始めた。だから忘れているわけじゃないし、思い出したわけでもない。
常に妹のことが頭にあるんだ。
人は頭の中に思い浮かべているものを、現実に見ることがある。常に見えるわけじゃない。黒点は虫に。枯尾花は幽霊に。夕闇の中で、夏の揺らぎの中で、霧の向こうに、雨の向こうに、雪の向こうに。
足音が、気配が、息遣いが、視線が、話し声が、そして人影が、妹になる。曖昧なものはすべて妹になっていく。見たことも話したこともないはずなのに。
だけれど材料には事欠かない。材料は自分なのだから。妹は自分自身。まったく同じ設計図。
生きるはずだった妹。
もしも二卵性だったなら。もしも弟だったなら。そうならば想像に生気は宿らなかっただろう。
瑞々しい想像。でも完全じゃない。少しだけずれている。少しだけ何か足りない。電池が入ってない? コンセントが繋がっていない? それともバッテリーが切れている? 多分そう。電力が足りない。だったら、なにで動いてる? 操り人形のように糸で? からくり人形のようにぜんまいで? 蝋人形のように生々しい質感で? どれも違う。動かしているのはユミコ自身だ。
子供のような一人遊び。
ある日、散々2人で遊び回り、お互いに帰宅したというのに、深夜に電話で話をしていた。今日の楽しかった出来事。明日はどこに行こう。楽しかった1日の余韻に浸りながら、微睡みそうになっていた。2人の声が解けていく。返事は曖昧になり、呂律すら回らなくなっていく。眠りに落ちる瞬間は、まるでバニラアイスが沸騰していくようだ。真っ白で少しだけ甘い。
でもそれは一瞬で消える。ユミコの声はいつの間にか冷たくなっていた。気が付いたら死んだ妹の話になっていて。自嘲して、自虐して。毒と知性にまみれた言葉が、子供のような言葉に変わっていく。声が潤んでいき、やがて涙声に。
頭に思い浮かぶユミコは別の姿に変わっていた。
ユミコは小さな子供になっていて、手には小さな人形を持っている。ユミコは独りで、それで遊んでいる。その人形はどこかユミコに似ていて。
柔らかい絨毯に腰を降ろし、他の遊具には目もくれず、人形に夢中になっている。
ユミコは頻りに言い張る。このお人形はあたしを恨んでるの、と。
ユミコは少しも譲らない。このお人形は人間になるはずだったの、と。
ユミコは聞く耳を持たない。このお人形はあたしの妹になるはずだったの、と。
だから、あたしを恨んでいるに決まっているの。
私はそこにちゃちゃを入れる。私の姿は大人のままだった。ユミコに視線を合わせるために屈み込み、諭すように言う。君のことを恨んでいるはずがない、自身の分も、君に幸せになってほしいと願っているはずだ。君は十分幸せだ。今までも、これからも。
ユミコは人形を持ち上げて、顔の前で左右に小刻みに振りながら、大人びた声で、人形に声を吹き替える。
「だったら証明してくださらない? 演繹も帰納も認めない。他の誰かは関係ない。私だけで、私の幸せを証明してくださらない?」
幸せには幸せを照明できない。右手で右肘に触れられないように。
憎悪には憎悪を照明できない。左手で左肘を触れられないように。
触ることができるのは、手とは反対側の肘だけ。
幸せで幸せを証明したいなら、憎悪で憎悪を証明したいなら、手首を切り落とすしか方法はない。
右手で左の手首を。
左手で右の手首に。
冷たく鋭い、おっきなおっきな特大のメス。
そっとあてがって。
痛いのは一瞬だよ。我慢してね。すぐ終わるからね。偉かったね。やはり、いやはや、まったく、だから……。
ほら、これが今までお前を支えていた肘だよ。ほらほら、これが僕の肘。ほらほら、これが僕の指。
子供のような独り遊び。
人形に、おもちゃに、一時、魂が宿る。子供の魂がほんの少しだけ人形に移される。だから子供は夢中で、少しだけ虚ろ。
ほらほら、これが。
ほらほら、これが。
悪夢は消えない、消せない。悪夢は何度でも形を変えてやってくる。隙をみせたらすぐにでも。誰かの悪夢は、他の誰かの悪夢にさえも。
悪夢は砕けて、記憶のように過去へ過ぎ去っていく、だけど欠片は、ちょっとした暗がりがあれば、そこに溜って寄り集まっていく、そして、ふとした拍子に、私たちの行く先に先回りをする。
ユミコが克服したはずの悪夢、過去の悪夢、自分以外の悪夢、回想の中の悪夢、それらが私を襲う。悪夢は時間すら飛び越える。
よく見ろ。む? よく見ておけ。む? 目に焼きつけろ。む? 今見ておかないと一生後悔するぞ。む?
む? む? む? むむ? ああ……そう。ああ……すごい。偉い。偉いよ。偉かったね。
でもこれからもっと偉くなる。
それが嬉しいんだ。
それが誇らしくて堪らないんだ。
感謝。心から感謝。本当に感謝。感謝感激雨あられが降って、地面が冷たく凍ってもなお芽吹くというような太く逞しい、芽。それが君。前の芽よりもなお太い。中の管だって太いんだ。凄いだろう? それが君なんだ。やるやるとは聞いていたけど、ここまでやるとはなぁ。びっくりしてしまうよなぁ。芽は伸びて葉を広げていき、感謝。太くて丈夫な幹が形作られていき、感謝。もう立派な木になった。すごいよ。あれ……? 葉が落ちた……? え……? ……そんな……。おっ? 葉がまた生えてきた! そうか君は落葉樹だったのか。驚かせてくれるなあ。冬なんかへっちゃらなんだね。
君は、これから、死ぬまで、ずっと、偉いんだ。
やはり、いやはや、まったく、だから……。
ユミコは人形を顔の前で振りながら、歌をうたっていた。よく耳にする童謡かなにかのようだ。自然と動植物の関係性の考察について、観察の結果について、それらの感想についての歌。
歌が終わった。知らない歌だけれど、歌の途中だと分かった。ミミズをスコップで切断したような終わり方。ぶつりと突然。
「幸せはすべて過去に囚われる。みんな過去のもの。やがてすべてが過去に飲み込まれるの」
ゆっくりと人形が下げられてく。
ユミコの顔は、いつの間にか、骸骨になっていた。可愛らしい乳歯が並んでいる。子供だから一回り小さい頭蓋骨。眼球はない。でもこちらを見ているのが分かった。谷底のように深い眼窩で。目を逸らしたい、でもできない。ただ目に力が入るばかりで、ますますに眼窩を覗き込んでしまう。まだまだ遠い、ずっとずっと深い。焦点が遠ざかっていく、視界だけがすべてになる。自分の身体のことなんか頭から消えてしまう。深淵はどこまでも深い、どこまでも潜れる。口の渇きも忘れ、脚の痺れすら気にならなくなり、感覚すらなくなっていく。
突然、足元で乾いた音。
深淵から意識が戻ってくる。あんなに深く潜っていたのに、戻るのは一瞬だった。目の前には、相変わらず骨になったユミコが座っている。
足元を見た。
私の足元には沢山の骨が落ちていた。不思議に思い手を伸ばす。突然、視界に骨になった人間の腕が現れる。指先、手首、肘、と辿る。それは私の腕だった。驚き、後退ろうとするが、できない。脚がなかったからだ。私の脚は、骨になって地面に散らばっていた。見ると、服は腐って穴が空いていた。肋骨が見える。ぐらつくそれは、トランプタワーみたいに今にも崩れそう。
目は見える。耳も聴こえる。匂いだって、声だって出せるし、感覚もある。私は恐る恐る、両手を顔に持っていこうとした。その恐る恐るがいけなかった。恐る恐る震えちゃいけなかったんだ。私の両手は突然、分解してしまった。
私は、バランスを崩し仰向けに倒れ込んだ。もう身動きはできない。顔を少し上げユミコを見上げるのが精一杯。
ユミコはまた人形遊びをしていた。
人形を持つ手は骨じゃなく生身だった。頭だけが骨なんだ。
子供は身体で生きている。
大人は頭で生きている。
子供の頭は死んでいて。
大人の身体は死んでいて。
ユミコは突然こちらを向き、さっきと同じように、顔に人形を持っていき、人形に声を込めた。
「貴方の頭を貸してくださらないかしら」
音節に合わせて人形を揺らしながら、
「貴方の頭で考えたいの」
吹き替えは魂を移すこと。
宿るのは一瞬、そして抜けるのも一瞬。
何もかもが突然。
記憶が飛んだように。
首をすげ替えるように。
回想は現実に。
人形は人間に。
子供は大人に。
まるでスイッチが切り替わるように。
――カチ――
いつの間にか、通話は切れていた。電話からは電子音が発せられていた。一定の間隔で鳴っている。鼓動のようだ、あるいは呼吸。
ユミコが携帯を切ったのか。それとも私だろうか。電子音は、メトロノームのよう、あるいは振り子。
あなたはだんだん眠くなる。
身体の力は抜けていき。
何も考えられなくなって。
あなたはなにもかも忘れてしまう。
――カチ――
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