こんな夢を見た。続きはまだ見ない。

 一晩だけの夢。ここで始まって、ここで終わる。夢は一夜で終わる。


 空は真っ黒で、月も星も、雲すらない。

 辺りは灰色一色で、山はおろか起伏すらない。地平線は、ナイフでカットしたかのように、空と大地を二分していた。草一本生えておらず、岩が転がるばかりだ。まるで月にでも降り立ったようだ。


 私はゆっくりと歩き出した。身体は軽くはなく。いつもより重いくらいだった。それに足跡はつかない。

 歩け歩け、ひたすら歩け歩け。

 ここはどこだろう。

 歩け歩けの甲斐あってか、地平線に何かを見付けた。

 緑だ。緑色の何かだ。

 赤だ。赤色の何かだ。


 近付くと、そこはトマト畑だった。そんなに広くはなくて、四畳半位の広さ。茎も葉っぱも瑞々しく、実は太陽もないのに光っていて、美味しそうだった。私は思わず口にした。トマトではなく言葉を。


「見事だ」


 ここまで立派なトマトを育てるのは並大抵なことじゃない。そう思うほどの見事なトマト。あれだ、これからはトマトの時代だ。

 後ろから足音が聞こえた。近くに誰もいなかったはずなのに。まるで地面から生えてきたみたいじゃないか。やっと芽が出てきたねと言えばいいのだろうか。それが礼儀だろうか、それが礼節を重んじるということなのだろうか。


 私は振り向く。そしてしっかと音の主を見た。まじまじと。

 そこにはトマトがいた。

 だから、芽が出てきたねなんて失礼もいいところ。マナー違反も甚だしい。


「誉めてもらえて俺は俺は俺は俺は嬉しいぜとま」


 トマトは出し抜けにそう言い放った。


「君は、もしかしてトマートくん?」


「俺を俺を俺を俺を知ってるのかとま? そうとま。俺が俺が俺が俺がトマートくんとまよ」


 トマートくんは両手をほっぺに当てた可愛らしいポーズをとっている。

 トマートくんの一人称は俺だったっけ? よく思い出せない。まあ一人称なんてどれか1つなんて決まりはない。私も俺とか僕とか言ったりする。一人称なんてそんなものだろう。


「で、とま」


「はい」


「何の用とま? 俺の俺の俺の俺の名前を知ってるってことは、俺に俺に俺に俺に会いに来たんだろとま?」


 トマートくんは嬉しそうに弾みながら私に問い掛けた。

 あまりに嬉しそうだったから、偶然ここに辿り着いたとは口にできなかった。


「ここでトマートくんがトマトを作っているって聞いたから、見に来たんだ」


「ここは秘密の場所だったんだけどなとま。俺の俺の俺の俺の他に知っているのは青トマートくんだけとま。じゃあ漏らしたのは青トマートくんとま。なら青トマートくんを殺さなきゃいけないとま。俺が俺が俺が俺が殺さなければならないとま」


 トマートくんは声色を変えることなくそう言った。私は怖ろしくて、本当のことが言えなかった。青トマートくんが殺されるかもしれないのに。世の中に、自分可愛さの保身ほど強固なものはない。


「言うまでもないと思うがとま」


 トマートくんは私の相槌を待たず、


「ここは秘密の場所とま。だから他言はいけないこととま。いつでも来ていいとま。いくらでも眺めていいとま。でも、もし、とま。もし誰かに喋ったりしたらとま」


「わ、わ、分かったよ、誰にも言わない、絶対に」


「なぁ、お前の『誰にも』には家族も含まれているのかとま?」


 トマートくんは頭を左右に振っている。じっとこっちを見ながら。


「もちろんさ」


「何を持って、もちろんなのかは知らないがとま。容赦はしないとま。家族だろうと関係ないとま。覚えておくとま。俺は俺は俺は俺は、自分の弟だって殺すとま。あいつをスライスしなければならないのは心が痛むとま。でも仕方ないとま」


 私は本当のことを打ち明けることにした。優しさや思いやりじゃない。罪悪感のためだ。ただ、罪悪感に苛まれたくないがために。これも自分可愛さの賜物。


「待ってくれ、本当のことを言うよ。実はここへは偶然辿り着いたんだよ」


「お前は優しいとまね。庇う必要はないとま」


 そう言ってトマートくんは私の肩に手を置いた。


「本当なんだよ。信じてくれ」


 トマートくんはまるで猫でもあやすように、私の肩をポンポンと優しく叩きながら、


「もし仮にそうだとしても、あんたへの見せしめのために、あいつには死んでもらうとま。今の言葉が本当なら、あんたはさっき俺に俺に俺に俺に嘘を吐いたことになるとま。そんな奴、信用できないとま。だからどっちにしろ、あいつには死んでもらう他ないとま」


 トマートくんは私の肩を掴み、顔を近付けてくる。


「優しい奴は大概、嘘吐き野郎とま。俺の俺の俺の俺の持論とま。実のある話だろとま?」


 そしてトマートくんは笑い声を上げた。とまとまとまとま、とトマートくんは笑った。最初、それが笑い声だなんて思わなかった。そう喋っているとしか思えなかった。目も口も実際には笑っていない。被り物だから当然だ。だけど、トマートくんの肌は、被り物には見えなかった。生きた質感があった。

 お前は本当にそういう生き物なのか、そう心の中で呟いた。


「そうとまよ」


 トマートくんは突然、言った。


「何が、だい?」


「何がって、俺はこういう生き物だってこととま」


 私は断じて何も言っていないはずだ。


「不思議かとま?」


 私は後退りをした。トマートくんはそれに合わせて前進する。歩け歩け、歩け歩け、歩け歩け。


「種明かしするとなとま。俺は俺は俺は俺は、触った相手の心の中が覗けるのさとま」


 私はトマートくんの手を払いのけ、距離をとった。トマートくんは、すかさず距離を詰めてくる。私は逃げようと駆け出す。

 私は走っている。トマートくんは歩いている。なのに逃げられない。トマト畑に追い返される。走っても、歩け歩け。駆け出しても、歩け歩け。フェイント入れても、歩け歩け。


 まるで、こちらの動きを読んでいるように、私を追い立てる。さっきのは謙遜で、手で触れていなくても、俺は俺は俺は俺は相手の考えが分かるんですよね、とでもいうように。

 私は堪らずトマト畑にへたりこんだ。


「とって食いはしないとま」


 トマートくんは息を上げてすらいなかった。


「疲れたろうとま。これでも食えとま」


 そう言ってトマートくんが私に手渡したのは、トマトの茎だった。


「……」


 これは冗談だろうか。トマートくんの顔色を伺ってみるが、まるで分からない。トマートくんには、そもそも顔色なんてないからだ。私は意を決して茎にかぶりつく。

 とても食べられたものではなかった。


「……あの」


「食べないなら返すとま」


 トマートくんは茎を取り上げると、それを口許に持っていき強く押し当てた。次の瞬間には茎は音もなく消えていた。食べたのだろうか。口はある。でも穴はない。むしろ出っぱっている。顔に縫い付けられたように。


「嫁さんと息子がよっぽど大事らしいなとま」


 口を手でゴシゴシとやりながらトマートくんは言った。


「息子はともかく俺俺俺俺には嫁の良さが分からんとま」


 言葉の意図が分からず、とっさに返事をできずにいると、更にトマートくんは続けた。


「別にお前の嫁さんがどうこう言ってるわけじゃないとま。俺俺俺俺たちは男しかいないとま。女のいない世界なのとま」


「男だけ? じゃあどうやって子を成すんだ」


「そんなの決まっているだろうとま。頭を弾けさせて、種をばらまくに決まっているとま」


 私が声を発するのを遮るようにトマートくんは、


「つまりお前と同じだよとま」


「同じ?」


「お前だって、日頃、脳みその中身を可愛い可愛いご子息に、ぶちまけているだろうとま?」


「何を言っているんだ?」


 私がそう言うとトマートくんは笑いはじめた。

 被り物ではない、被り物のような顔で。ジェスチャーのようでジェスチャーではない素の動きで、可愛らしくお腹に手をあてて、お腹をよじっている。

 うっすらとした作り笑い。それがデフォルトで、ずっと変わらない。作り笑いのような、作り笑いではない表情。

 表情は想像で補ってくださいということ?

 とまとまとまとま、その笑い方にトマートくんはいろんなニュアンスを加えていく。

 とまとまとま、ふ。

 とまとまとま、むふ。

 とまとまとま、えへ。

 とまとまとま、あはは。

 とまとまとま、これは傑作です。

 とまとまとま、これが笑わずにいられますか?

 とまとまとま、もう笑いませんよ? もう終わりです。

 とまとまとま、やっぱりだめです。

 とまとまとま、げらげら。

 やがて、段々と笑いは治まっていく。時折出る痙攣のような思い出し笑いは、余韻を噛み締めるよう。

 何かを味わうような、咀嚼するような、そんな笑い方。

 まるで自分の笑い声を、反芻しているよう。

 あはは。更に、あはは。重ねての、あはは。

 ムチャムチャムチャ。

 ゴックン、ゴクゴク。

 ふー。

 オ、オェェ……。

 ムチャムチャムチャ。

 あはは。再度、あはは。再びの、あはは。

 ……え、えへへ。

 ……へへ。

 人が事切れるように、独特のリズムで、それでも段階的に、笑いは消えていった。

 トマートくんは一息吐くと、何でもなかったみたいに口を開いた。


「お前だって息子に思想を伝えているだろうとま? 息子だからと何構うことなく、お前の思想を垂れ流しているだろうとま?」


 トマートくんの口調はどこか苛立っているようだった。顔はもちろん、声だって可愛らしい声だ。ただ口調だけが歪んでいた。まばたきのしない目で、ずっとこちらを見ている。片時も目を閉じる余裕がないんですよね、常に何かを学びとらないと、とても周りに追いつけないんです、あなたと違って聡明ではないので。

 聡明な人は違いますよね。

 やはり、いやはや、まったく、だから。

 ははあ。


 私は何も言い返せない。意味も分からないはずなのに。意味の分からないことは、一番反論しやすい。だって意味が分からないのだから。意味が分からない、と喚くしかないのだから。


「大人になった息子にお前は決して会えない」


 何も理解できない。言葉の意図も意味も分からない。ただ、語尾から『とま』が消えていることばかりに考えが向く。


 大事な話をされているのに、真剣に話をされているのに。自分のこととして受け入れられなくて、どこか他人事で、なのにすごく不快で、周りは待ってくれなくて、泣くことも怒ることもできなくて、お腹がまるごとなくなったみたいで、頭の中が頭痛みたいにわんわん鳴って、そして何より息が苦しくて、向けられる同情の目、前からはお辞儀して、横からは横目で、後ろからはヒソヒソと、同情するなら、同情するなら少し待って、呑み込む時間を下さい、息が、息ができないんです。無理に口に入れないでください。


 神様、なんで僕がこんな目に?

 大人になれば分かるでしょうね。

 それはどういうことですか?

 神様はいくらでも待ってくれるけど、いくらでも答えてはくれない。


「そして、それは母親も同じことだ。母親だって思想を息子に伝えている。お前は、生まれる前から子と繋がって、生まれた後も親密に寄り添って、なおも頭の中の種を伝えられる母親が、羨ましいんだよ。だから父親は、だからお前は、余計に思想を伝えたがる。

 分かるだろ、俺の言いたいことは? お前だって父親から、少なからず何かを教わっただろう? 俺のようになれ? 俺のようにはなるな? 借りたものは返せ? 嘘だけは吐くな? 父親は語りすぎる。微笑みを言葉にできるか? 抱擁を言葉にできるか? 

 つまり羨ましいんだよ。だから余計な言葉で飾り立てる。身の丈以上の立派な言葉でな。趣味嗜好を、あたかも真理のように。脳みそに詰まった趣味嗜好、それは果肉のようなものだ。果肉は種の栄養になる。だが与えすぎた肥料は、植物の毒になる。それこそ命取りなくらいにな。腐敗したらもう戻らない。近くのものを道連れに腐っていくだけだ」


 そこでトマートくんは、語るのをやめた。まるで音楽が終わったように、ぶつりと。余韻がないのが、本当の余韻なんですよね。


 突然、トマートくんはよろめいた。足を鳴らし、踏み留まる。よろめいては足を鳴らす。安楽死させられた家畜のように。突然の死に抗うように。乾いた地面に、乾いた音。土埃が舞っている。 


「ああ……来た……。少し喋りすぎたとま……」


 トマートくんは苦しそうに頭を抱えていた。見ると、トマートくんの頭に裂け目ができていた。裂け目の中は皮膚とは裏腹に、瑞々しかった。

 私は驚いて声も掛けられない。

 トマートくんは眉間の辺りを、手の平で強く押さえた。


「お前に限らず人間は、余計な言葉で育てられてるとま……。気を付けろ……お前は特にな……。もうお前は、青いままじゃないだろとま……。真っ赤なトマトとま。だから真実の目でものを見て、真実の言葉を口にするとま。バイバイとま。俺は、お先に失礼するとまよ……。俺は俺は俺は俺はもう、真っ赤な完熟トマトとま!」


 トマートくんはそう叫ぶと、大きく息を吸い、両手で自分の口と鼻を押さえ、真っ赤になりながら息み、身を落とした。トマートくんの頭は、少し膨らんだかと思うと、火薬が弾けるような音を立てて弾けた。


 辺りは真っ赤な果肉で染まり、たくさんの種が散乱していた。

 残った身体はびくびくと痙攣している。その痙攣も次第に治まっていき、自然なゆっくりとした動作で、胸の前で十字を切り、胸の前で手を組んだ。それきりだった。何の、変化もない。


 ふとトマト畑が気になり、見た。果肉を浴びたトマトは、1つ残らず腐り落ちていた。痣のような紫に、土のような赤茶色。形は崩れて、土と同化しようとしていた。

 散乱した種が早くも芽を出していた。小さくて可愛らしい。辺りの果肉を栄養にして、みるみる背が伸びていく。


「やっと芽が出てきたね」


 私は身を落とし芽に話し掛けた。すると芽は首を垂れ下げはじめた。色が変色していき、段々と乾いていく。

 辺りの芽がすべて枯れていく。芽には、果肉も種もない。だからただ乾いていくだけ。細く茶色に。縮れて弾力がなくなっていく。


 私は一番近くの芽に触れようと両手を伸ばした。形を崩さないように恐る恐る。

 何故だか、私の手だけが奇妙に瑞々しく感じられた。

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