妻と私は同じ大学に所属していた。知り合ったのは一回生の時だった。それは例年になく暑い夏の、それも盛りの頃だった。


 学科もサークルも違う私たちは、本来ならば顔を会わせることなく卒業していくはずだった。

 そうならなかったのは、ただひとえに夏の暑さと、名も知らぬ1人の少女のお陰だった。

 茹だるような暑さの中、受けるはずだった講義が急に休講になり、私は涼める場所を探していた。


 エアコンの効いた図書館には、いつもよりも人がたくさんいた。考えることは皆一緒だ。何部屋かある個室も、大勢座れる観覧スペースもあらかた席は埋まっていた。仕方がないので涼みながら立ち読みでもしようと、階段を登り2階へと向かった。2階は静かで人気がなかった。


 面白い本でもないかと、本棚を間を行ったり来たりしていると、窓際に誰かがいるのに気がついた。その誰かは、椅子を窓に寄せて、ぼんやりと外を眺めてた。

 それが後の妻、ユミコだった。


 ユミコは窓枠に両肘を乗せ、両手で頬杖を突いていた。窓辺には日光が射し込んでいた。この暑いのに日光浴でもしているんだろうか、そんなことを考えながら、私はしばらく、呆けたようにユミコを眺めていた。薄暗い図書館に射し込む光は、普段は見えない埃を可視化していた。そのときの私には、舞って光る埃がダイヤモンドに見えた。


 しばらくして、ユミコは一瞬こちらへ視線を向けた。しかしまたすぐに外に視線を戻した。心ここにあらずという言葉が頭に浮かんだ。

 何をそんなに見詰めているのだろう。何か面白いものでもあるんだろうか。


「何か面白いものでもあります?」


 ユミコはまた私を一瞥し、そう言った。


「ああ、ごめんね。何を眺めているんだろうって思ってさ」


「私?」


「そう、君」


「別にあなたに関係ないでしょ」


「まぁ、そうなんだけどさ」


 鋭い目付きと歪んだ顔からは、拒絶しか感じられなかった。


「……ごめん、謝るよ」


 そう言って、その場を立ち去ろうとした時、ふと、窓の外の何かが目についた。

 目を凝らすと、向かいの校舎の屋上のフェンス際に、人が立っていた。距離が遠いからよく分からないが、その人はフェンスに手をかけ、遠くの景色を見ているように見えた。


「あっ、もしかしてあの人を見てたの?」


 私は窓際に近付き、向かいの屋上を指差しながら、ユミコに声を掛けた。屋上にいるのはどうやら少女のようだった。

 反応がないので、私はユミコの方を向いた。すると鬱陶しそうな表情で、私を見上げていた。敵対心、嫌悪感、警戒感、それらがありありと見てとれる表情だった。そのまま、めんどくさそうに口を開いた。


「だとしたら、何なの?」


「いや、何ってことはないけど……、熱心だったから気になってさ」


「熱心? 私が? それはどうも。あなたには到底及ばないと思うけどね」


「ごめん、あまりに絵になってたから」


 と私は思わず、そう口に出してしまった。ユミコは相変わらず私を睨み付けたままだ。視線に耐えかねて私は、


「射し込む太陽と、君が」


 と愚行を重ねた。


 ユミコの顔はますます嫌悪で歪んでいった。

 眉間にしわを寄せて、目を細め、口が少し開いている。よっぽど怒らせてしまったようだ。ユミコは大声を上げようとしたのか、息を大きく吸い込んだ。


「あっ」


 私は唐突に声を上げてしまう。ユミコは意表を突かれたのか、出すはずだった声を呑み込んだ。

 屋上の少女はフェンスの上に方を掴み、背伸びをしていた。まさか飛び降りるつもりだろうか。

 ユミコも窓の外へ視線を向けたが、特に驚いてはいないようだ。


「あれを見てたのよ」


 ユミコは言った。


「あの人、知り合い?」


 私はそう尋ねた。


「まさか」


「そっか、よかった」


「ただ、……」


 ユミコは言葉を区切ると、屋上の少女を流し見て、


「ずっと見てるから他人って気はしないけどね」


「ずっとって……」


「ずっとはずっとよ」


 ユミコは少し微笑み、こちらを向いて、


「気色悪いって思う?」


 その顔はどこか自虐的だった。


「いや、優しいんだなって思ったよ」


「優しい?」


「ずっと、そっとしておいてあげたんでしょ?」


 私がそう言うと、ユミコは面白いものでも見るように、私の目を見据えた。思えば、ユミコはそこで初めて、私に目を合わせてくれたのだった。


「そんなつもりはなかったけど。それに本当に優しい人なら止めると思うけどね」


「それもそうか」


「何よそれ」


「まあ、優しさも色々ってことで」


 その日から、私は度々、図書館に通った。ユミコがいない日も多かったが、そんなことは関係なかった。ユミコがいなければ、ユミコにならい、屋上に立つ少女を眺めたりした。ユミコも少女もいなければ、独りで本を読んだ。普段読みもしない偉人の伝記が、何故か気になって、夢中で読んだ。


 最初の頃はユミコと会えても、屋上の少女がいなければ、ろくに会話が成立しなかった。ぼんやり少女を眺めている片手間にでないと、話してもらえなかった。嬉しさともどかしさで悶々とする私には、偉人の言葉がいたく心に染みた。


 これが私と妻の最初の出会い。

 運命的ではあるかもしれないが、よい出会い方とは言い難い。これから付き合うようになるまでには、大変な苦労と涙ぐましい努力があった。必死なアプローチに、不自然な言動に、暴挙といってもいいような行動。それを語るのはあまりに忍びない。割愛するのが、誰にとってもためになるように思う。


 ユミコの所へ通い詰めるようになって、しばらく経った頃、私は誰もいない屋上に行ってみた。ユミコも少女もいないと確認したうえで。

 少女のいつもの定位置に、私も立ってみた。下を見下ろすと脚がすくんだが、死ぬには高さが足りないように思えた。私は顔を上げ、遠くの景色をぼんやりと眺めた。


 夏もそろそろ終わりだな、などと考えていると、遠くに、うちの大学の屋内運動場が見えることに気が付いた。中はよく見えない。背伸びをしてみると、なんとか室内を覗くことができた。バスケットをしているようだ。


 少女はこのためにここに来ていたのだろうか。バスケをする誰かのことを目当てに。顔も名前も知らない少女に、言いしれぬ共感を覚えた。


 ふと、向かいの図書館に目を向けると、ユミコが来ていた。いつもの窓際に、丁度腰を下ろすところのようだった。椅子を窓際に寄せ、ゆっくり腰掛け、肘を窓枠に乗せて、頬杖を突いて、ゆっくりと顔を上げた。


 私はとっさにその場に伏せていた。何故、隠れたのか自分でも分からなかった。その時の私は、何かやましいことをしているような心境だった。私は身を伏せながら屋上を後にした。その日はどうしてか、ユミコの所へは行かなかった。


 夏が終わると、ぱったりと少女は屋上へ来なくなった。失恋したのか、恋が成就したのか、恋を諦めたのか、あるいは本当にただの自殺志願者で、誰にも見付からない場所で、冷たくなって眠っているのか、それは分からなかった。ただ確かなのは、彼女は、私たちを結び付けてくれたキューピットだということだ。


 私は気になる相手を見詰めていた。おそらくキューピットもそうだったのだろう。だけど、ユミコだけは、何か、他の、得体の知れないものを、眺めていた。

 だから、もしもあの時、ユミコに見られていたら、ただでは済まなかったのではないか。今でも、そんな漠然とした、もしもを想像してしまう。


 もしも、身を伏せるのが遅れ、気配を感付かれ、あそこに居たのは私だったのではないかと、ユミコが少しでも思い浮かべていたら。

 もしも、実際に姿を見られていたら。

 もしも、ユミコと目を合わせてしまっていたら。

 もしも、そのまま見詰め合っていたら。

 そんな、もしもを何度も思い浮かべてしまう。

思い浮かぶのは、その場面だけ。続きはない。

 虚ろな目。何かを期待する目。鏡でも見ているような目。死にかけた虫でも眺めるような目。もしもの場面を見ているような、目。

 もしも、そんな目で射抜かれていたら。


 夏の思い出は少し暑くて揺れている。現実よりは薄くて遠い。思い出は、どれもすかすかだ。次第に忘れていく。壁にも屋根にも穴が空き、骨組みが徐々に剥き出しになっていく。

 ほらほら、これが柱で、これが梁。


 思い出せるのは要点だけに限られてくる。すかすかの空に、すかすかの校舎。私自身もすかすかで、ユミコだってすかすかだ。何だって入り込む余地がある。空想も、もしもも、悪夢だって入り込む。

 そんな中でユミコの目だけは、虚ろながらもしっかりと存在していた。まるで黒真珠が宙に浮いているよう。思い出が消える間際、黒真珠が濁って笑ったような気がした。

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