8
「ねぇ、ねぇってば」
誰かに肩を何度も揺さぶられる。
背中で何かがうごめく。足が圧迫されるように締め付けられて、動かすことができない。
目を開けると、目の前にはヨシヤが立っていた。心配そうな顔でこちらを見詰めている。
辺りを見渡す。
すぐ近くには背の高い冷蔵庫たちが整列し、照明器具たちはお互いを照らし合っていた。
段々と意識がはっきりしてくる。
ここはショッピングモール。その中の、家電家具のコーナーの一画。
私はマッサージチェアに腰掛けていた。
そうだ、レコード屋を通りすぎた後、ここに立ち寄ったんだ。マッサージチェアに座って目を閉じている内に、そのまま寝てしまったようだ。
「大丈夫?」
とヨシヤが真っ直ぐこちらを見ながら、
「うんうん、言ってたよ」
「ああ、大丈夫だ、ごめんな」
マッサージチェアは私の身体を、黙々と揉みつづけている。背中はもちろん、腕に脚に、足の裏まで。
「最近のマッサージチェアはすごいな」
「また最近のって言う」
ヨシヤはむくれ顔を浮かべた。
「すまんすまん」
こめかみから頬へと汗が一つ流れた。
マッサージチェアには、ヒーターの機能も付いていて、全身をじんわりと温めていた。私は、全身に嫌な汗をかいていた。
最近の、とまた口にしそうになる。
「……すごいなこれ、温めてもくれるみたいだ」
「今、最近のって言おうとしたでしょう」
口をすぼめて不満そうな顔。それが何かを思い出したような顔に変わる。
ヨシヤは手に持っていた何かを、私に差し出した。見るとそれは私のコートだった。
丸められたコートは茶色いのも相俟って、ヨシヤが動物でも抱いているかのような錯覚を生じさせた。
「……ありがとう、すまんな。ヨシヤも座るか?」
「ううん。やめとく、さっき乗ったし。それに……」
ヨシヤは言い淀み、視線を下げて私の腹の辺りを見詰めながら、
「怖いよね、この椅子」
「怖い?」
「人の手で触られてるみたい」
ヨシヤの顔はまるで能面のように無表情だった。
ヨシヤの顔の右横で何かが動く。遠くの方で、サンタの格好をした店員が頻りに手を動かして、客に何かを説明していた。
まるでパントマイムのような動き。
遠くだから声は聞こえない。口を大きく開けて、愛想のよい笑顔を浮かべている。こうして見ていると、まるで手話で話しているみたいだ。
店員の口の動きに合わせて、頭の中で声を出してみる。
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ』
それを聞いて、客は感心しながら頷く。
そして、店員はまた繰り返す。
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ』
訳知り顔で、得意そうな顔で言っている。
私には読唇術の才能はまるでないらしい。店員がこんなことを言うわけない。
店員の言葉を受けた客は、店員と同じように得意そうな顔をし、あごに手を当て、口を開いた。
『最近のテレビってすごいのね』
すぐさま店員は言葉を重ねる。
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ』
さも、嬉しそうに、まるで自分の子供が褒められているように。
大小様々なテレビは、競い合うように、鮮やかな映像を映し出していた。
画素数はいくら。何インチで。こんな機能もあるんです。そんな広告がテレビの周りに添えられていた。
テレビの中では、小川がさらさら流れ、花火が上がり、美しい孔雀が羽根をゆっくりと広げていた。確かに色鮮やかで美しい。本当に驚くほどの高画質だ。本物の風景よりも綺麗なくらいだ。
滑らかな動きが怖い。小川はあんなにも滑らかに流れたっけ? 美しさが過ぎて怖ろしい。花火はあんなにも鮮やかだっけ? 作り物めいていて薄気味悪い。孔雀はああもあからさまな鳥だったっけ?
まるで死後の世界だ。死後の世界には孔雀しかいないのか? 花火は誰が上げてるんだろう?
小川の中に魚の影が見えた。樹木の傍らにはリスもいた。遠くの空に鷹も飛んでいた。人間はいっこうに姿を現さない。
人間はどこにいる? 死んだ後すら埋められているのか?
突然、画面が切り替わる。
若い女が映し出された。
人気の女優。国民的な女優といってもいいくらいの知名度。何を着ても様になり、何を演じてもそれらしく、何をやらせても華がある、そんな女優。
女優はサンタの格好をしていた。
長い髪をなびかせて、何故か太ももと二の腕は丸出しで、そして赤い口紅を引いていた。
背景は真っ黒で、傍らには細くておしゃれなハイテーブル。その上にはテレビが置かれている。
テレビのコマーシャルのようだ。テレビの中で、テレビのコマーシャルをしていた。
テレビの中のテレビにひとりでに電源が入った。
このコマーシャルは前に何度か見たことがある。
やはり、大画面が、高画質がと、そんなことを言っていたはずだ。
美しい映像に合わせて、女優のはつらつとした説明がなされ、そして最後に、女優が再度映し出され、こう言うはずだ、『私を大きな画面で見てください』と。
突如、画面が美しい映像に切り替わる。
花火。
スポーツの様子。
駆け回る動物たち。
子供の運動会。
孔雀。
画面は少しずつ早回しになる。日が昇り、すぐさま沈み。花は動物のようにうごめき、花びらを開いたかと思うと萎ませて。星々は一瞬で巡り。
小川の水が奇妙に流れ。
焚き火を囲む人々、傍らにはテント、魚は串で貫かれ口をぽっかり開けている。それにもまして人々は、大口あけて笑ってる。
映像が終わり、テレビの中のテレビの電源が落ちた。
カメラが引き、また女優が映される。
そしてすぐさま、女優の顔にカメラがズームしていく。
女優は少し微笑んでいる。
照れながらポーズを決めて。
赤い唇が滑らかにうごく。
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ』
そしてまた、死後の世界へ。
テレビから目を切ると、いつの間にか客は立ち去っていた。
客の相手をしていた店員が、こちらを向いていた。背の高い、痩せた若い男。色白で、最近の若者らしい顔立ちをしている。妙に黒目がちで、元々大きい目の大半を、黒目が占めている。店員は突然、倒れ込むような動きを見せたかと思うと、こちらに近付いてきた。すたすた、颯爽と、軽い足取りで。だけどその動きは、どこかぎこちない。
サンタの帽子の先の白い球体が、歩に合わせて揺れている。赤くて、ばけばしい服。なのにやたらと、赤以外の白い部分が目立つ。その袖の、その襟の、その青白い顔が。まるでその部分だけが、こちらに迫り出でいるよう。一際、その顔が印象的だ。周りで騒ぐ白い球体とは対照的に、まるで動かない。あんなに大股で歩いて、腕を振っているにもかかわらず、顔だけが独立しているように微動だにしない。ただ、こちらに近付いてくる。身体に先行して、こちらを真っ直ぐに見て、感じのいい青白い笑顔を浮かべながら。最短のコースを選び、障害物があるなら避けて、でもこちらから目は切らずに。
その時、横合いから別の客が店員に声をかけた。
店員は一瞬真顔になった。表情のない顔に、黒目がちで虚ろな目。まるで山羊か、牛のようだ。
店員は顔を横に向けながら、それでもこちらを見ていた。完全に横を向き切るまで、未練がましそうにこちらを見ていた。そして目を切ると、また笑顔で接客を始めた。
客は大柄な男性で茶色いコートを羽織っていた。年は私と同じくらいだろうか。もともと猫背なのか、それとも人と話すときの癖なのか、まるで店員に覆い被さるようにして喋っていた。
客は店員に何か尋ねているようだ。再びの読唇術。
『私には及びもつかないこの思い。分からない。分かりません。分からないから尋ねます。こちらで、こちらのお店で、チキンを丸々一羽、丸々といっても首は切断され、内臓は抜かれ、羽根は綺麗に取り去られています、を焼けるような大きさのつまり、入れてもなおスペースの余るというような、オーブン、オーブントースター、それも電熱式で、より安全でなおかつ、程好い焼き加減を実現できるタイプのものは、扱っていますか、取り扱っていますか?』
客は困ったような顔で必死に説明していた。長い腕を、小刻みに動かしながら。
それに、大袈裟な身振りで答えるサンタの店員。
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ』
『私には及びもつかないこの思い』
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ。私は裏でリズムをとっているのです』
『鳥の質感を保てるような焼き加減を目指したいのです。羽根を毟った後のぶつぶつはそのままに。私は鳥です。私は鶏の男性です。間引かれず、飼われ選ばれ育てられ、殺され茹でられ、ここにいます、というような声を、感じることのできる味わいをこの舌に』
『私は裏でリズムをとっているのです』
『私は目指したい。理想の味を目指したい。私には及びもつかないこの思い。人は残酷です。殺して殺して殺して殺して殺して殺して、食べています。6対1の割合です。残りの5つは何処へやら。1対1が理想です。ですがおそらく無理でしょう。取っ掛かりもないように思われます。私には及びもつかないこの思い。せめて美味しく食べましょう。安心してください。そこに刑事責任は生じません。まったくの無罪です。それは死んでからのお楽しみです。ああ、私には及びもつかないこの思い』
『だから声が遅れてしまうのです』
大男はサンタに連れられ、オーブントースターのコーナーへ。
サンタはたくさんのトースターを両手で示した。まるで自宅に客を招くように。はにかみ、嬉しそうに。
これが私の家です、これが私の家の、キッチンです、これが私の家の、キッチンにある、オーブントースターです、そしてこれが焼き上がったばかりのローストチキンです、と今にも声を張り上げんばかりに、誇らしそうに嬉しそうに、頬を染めている。
店員が口を開く。
『声が遅れるのを止めることはできません。つまり必要案件なのです』
『安心してください。そこに刑事責任は生じません』
『裏でのリズムを、本当ならば声に出したい。しかしそれは許されません。許されることのない罪なのです』
『このトースター、つまり、オーブントースターは鶏をローストチキンへと昇華させることが可能ですか?』
『それは許されることのない大罪なのです。だから、私はもどかしいのです』
『私には及びもつかないこの思い』
『罪は許されるためにあるのではないのです。罪は、ただただ罪なのです。だから、罪は犯してはならないものなのです』
『ここで世間話の一つでも、この辺り一帯の鶏は卵を産まないのだとか。これは知人の知人が証言していることです。以上の理由から信憑性はないように思われます。しかし私はそれを信じることに。そしてそれをあなたにお伝えしようとしている今日この頃。
この辺りの鶏の雌は身籠り、腹を膨らませて鶏を産むのです。死ぬような思いをして、1羽、1羽、産むのです。しかしながら、それとは別に卵も産むのです。決して孵ることのない卵を。ええ、もちろん、死ぬような思いなどは毛頭皆無。
鶏は人間とは違います。それは前提条件でしょう。手と翼は違いますよね。人間に羽根など生えていませんよね、つるりとしたものですよね。鶏固有のもの、人間固有のもの、挙げていけば、やがて御来迎がその影に。つまり、前提条件です。その線引きだけは致しましょう。そこに立脚しています。その上で考えてみましょう。それでもなおスペースの余るというようなこの思い。鶏の気持ちを察してみましょう。コケコッコーとクックドゥードゥルドゥーの違いよりもなお深いこの問いに挑むからこそ得られるその何か。鶏の気持ちを考えましょう。そのとき、鶏もこちらを見ています。それが肝要です。それは砂肝ですか、いいえ、ただの肝硬変です。本題への軌道修正。つまり道を逸れたということ。失礼しました。その上で失礼します。ここで咳払いを一つだけ。えへん。えへん。思い掛けずの咳二つ。重ね重ね失礼し、誠に失礼しました。
鶏は見ています。あなたを見ています。鶏が死のうとその思いはバックアップされています。それが神であり、規範であり、道徳であり、法律です。明文化の如何はあるにせよ。無罪有罪の如何はあるにせよ。時代性の違いはあるにせよ。それは脈々と昔からそのままに。あなたの周りを、あなたの中に、流れています。それは私にも、私とあなた以外にも。
だから、どうだと言うのでしょう。どうすることもできません。ああ、私には及びもつかないこの思い。だからこその個人主義。私は私。私の理想を目指します。そして私は己が死ぬその時までに、自分の思いを明文化して、自分で見てみたい。自分の心を取り出して、読み上げたい。擬似的であるにせよ、真理ではないにせよ、自分の心を文字にしたい。そうした後に土に還りたい。これは、そうすればいくらか心が軽くなりそうだという予想に立脚しています。意味のない言葉かもしれません。下らない言葉かもしれません。この予想は、最後に崩れ去るかもしれません。それは、まったく分からない。分かりません。分からないから尋ねます。何をでしょう。問いすら言葉にできないこの始末。ああ、私には及びもつかないこの思い。
鶏の卵は、鶏から人間へ与えられた慈悲なのです。それでもなお人間は鶏を殺し、ともすると若鳥をも殺す。慈悲を与えられてもなお人間は、その相手を殺すのです。そしてそこに刑事責任は生じません。私には及びもつかないこの思い。私は目指したい。理想の味を目指したい』
『あなたの前でならできそうだ。私の罪を晒せそうだ。赦されざることもあるいは。これは私の告白です。懺悔です。最初で最後に口にする、私の裏のリズム』
『私には及びもつかないこの思い』
『今日がその時だったんだ。ではいきます』
『ワット数は最大でいくらですか?』
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ』
『安心してください。そこに刑事責任は生じません』
『こちらが保証書になります。大切に保管してください』
大男は店員の説明を聞き終えると、ほっとしたような笑顔を浮かべ、大きな身体を折り曲げて深くお辞儀をした。そして身を起こし、トースターを大切そうに眺めはじめた。
あれ、今、胸を折ってお辞儀したか?
いや、胸が折れ曲がるわけない。
多分、これは錯覚。
そしてさっきまでのは私の吹き替え。何もおかしなことはない。矛盾も何もない。おかしいとすれば、それは私。
しばらくして、別の店員が現れた。台車を引いた小柄な女性店員。同じくサンタの装い。
男のサンタに説明を受け、オーブントースターを台車に乗せようとしはじめる。
男のサンタと大男は手伝おうとするが、女性店員はこれを頑なに拒否する。
オーブントースターの重さを利用し、さらに膝を器用に使って、あっという間に台車にオーブンを載せてしまう。女性店員は不敵な笑みを男のサンタに向け、客にすら向けていた。
3人は笑い出した。
無音の笑い。
わっはっは。ん。わっはっは。ん。わっはっは。ん。わっはっは。
笑いはすぐに治まる。
客はまた身を乗り出し、喋りはじめた。男女のサンタの、中間の空間に身を倒す。
『茹でられてはいますが再度、火を通します。それが鶏に対する礼儀です。そして私の行動様式です。ゆっくりと熱を、じわじわと熱を。流れるものも、その蒸気すら味わうべきです。他のものに目をくれている暇はありません。そしてお二人へ感謝を。これは私の行動様式です』
女性のサンタは照れながら、
『あれ、おかしいな、言葉が先立って聞こえてしまうよ』
男性のサンタは得意そうに、
『あれ、おかしいな、言葉が遅れて聞こえてくるよ』
大男はまたお辞儀を二度三度。
あれ、今、違う箇所が曲がらなかったか?
そんなわけない。腰は1人にひとつだけ。何箇所もあるわけない。
多分これは錯覚。そして、3人の言葉は私の吹き替え。子供のようなごっこ遊び。自然と出てしまうもの。思わず出てしまうもの。それは私の行動様式です。えっ?
台車に載せられたオーブントースター、小柄な女のサンタ、大男が遠ざかっていく。残るのは若い男のサンタ。
サンタは溜め息一つ。溜め息突いても、独り。でも、その溜め息はどこか満足げ。
やれやれというような顔、弛緩した身体、それらが突然、ぴたりと静止する。
はて? ああ、そうでした。そんな顔。
店員はこちらに視線を向けた。
誤魔化すような照れ笑い。
忘れてたわけじゃ、ないんですよ? そんな顔。
倒れるような動き。倒れると思うと、すでに自然に歩いている。
ああ、今行きます。今すぐそちらに向かいます。そんな顔。
どんどん近付いてくる。ずかずかと、笑いながら。子供が通り掛かったら蹴り飛ばしそうな勢いで歩いてくる。
熱い。
マッサージチェアが私を温めている。朦朧とするほど、熱い。このままで、あのサンタに、何か喋り掛けられたらどうしよう。朦朧としているときは、どんな言葉も、心に入り込んでくる。魚卵に細く鋭い針を通すように、何の抵抗もなく。そんなことをされたら、大事な赤いスープが漏れ出してしまう。スープは広い海に解けて薄まり、限りなく薄くなっていく。スープと海を分けていた壁は、ただの脱け殻に、ただのタンパク質に。
温度を下げなくちゃ、今すぐ温度を下げなくちゃ、立ち上がって逃げることはできない。多分あいつは、何処までも追ってくる、感じのいい笑顔を浮かべながら。
手元をまさぐる。
様々な機能の書かれた操作パネル。そこに目を凝らす。あった。温度調節のボタンだ。最新式らしく、細かな調節が出来るようだ。普通の操作パネルに見える。でも僅かな違和感。
温度の単位がワットになっていた。
ワット?
ワットってなんだ?
つまり、温度は一定ということ? 温度は変えられなくて、その温度に達するまでの時間しか変えられないということ? 結局はその温度で火を通されると、そういうこと?
じゃあ、こっちに向かってくるあいつと、このまま喋らないといけないのか。と、ちらりと顔を上げると、すでに店員は、私のすぐ目の前に立っていた。
近くの照明器具がサンタの顔に影を落とす。
微笑を浮かべてこちらを見下ろしている。
口角を上げて。笑いすぎても、無愛想すぎてもいけないんですよね、これくらいなら許容範囲内ですよね、とでも言いたげに。
目尻を下げて。笑っていれば気楽です、笑っていれば、それだけで幸せです、とでも言いたげに。
私に何か用なのか?
何を言うつもりなんだ?
それが薄々分かるような気がした。
店員の顔が満面の笑みに変わっていく。ちょっと笑いすぎなくらいに。たまにはマニュアルから外れてしまうこともあるんです。
マッサージチェアが背中に圧を掛ける。ヨシヤの言う通り、人間の手に触られているようだ。
店員は、何かを言うため、大きく息を吸い、止めた。と、同時に、マッサージチェアもぴたりと動きを止めた。
「どうですか」
と店員。
「な。何がですか」
「素晴らしいでしょう」
店員はそう言うと視線を下げ、私の腹の辺りをじっと見詰めた。腹の中を透視しているかのような、目。
「だ、だから、何がですか」
サンタはそこで間を作り、
「素晴らしい、座り心地でしょう」
と、言った。
「あ、ああ、これね……」
身体から力が抜けていった。
「はぁい」
と、嬉しそうに店員は言った。
「最近のマッサージチェアはすごいな」
店員は目を輝かせながら、
「ありがとうございます! まさにその通り! さすがお目が高い! まさにまさに、発売されたばかりの最新式でして……。このメーカー様独自の機能がたくさん付いていまして……。これはおすすめです! 実を申しますと、私も本気で購入を考えているんですよ」
それからしばらくの間、私は、店員の話を聞くはめになった。かなり長い時間、買う買わないの押し問答をさせられた。しかし、不思議と苛立ったり、不機嫌になったりはしなかった。丁寧に、懸命に説明している姿に好感が持てた。仕事熱心な若者だった。説明を終えると風のように去っていった。そしてすぐさま、他の客に声を掛けていた。ああ見えて、やり手なのかもしれない。
すっかりマッサージチェアの操作も覚えてしまい。何だか自分の物みたいに思えてしまうくらいだ。でも、どこにもワットの標記なんてなかった。
ふと我に帰り、辺りを見渡した。どこにもヨシヤの姿がない。
ヨシヤ、と声を出してみる。返事はない。
どこに行ったんだろう。店はそう広くない。でも姿はない。店の外に行ったのだろうか。
こんなことはしょっちゅうある。迷子だって何度もあった。でも何故か、血の気が引いていく。どうしてか、若い店員の顔が浮かぶ、大柄な客の顔が浮かぶ、女性店員の顔が浮かぶ。
「ヨシヤ!」
思わず大声が出る。
もう一度、辺りを見る。
何処にもヨシヤはいない。
店員や客の姿も見えなかった。
店のテーマソングが流れる。ふざけたような軽い音。
突然、放送が流れはじめる。今年も終わりであるということ。年末のセールを行っているということ。とてもお買い得であるということ。期間が限られているということ。買わなければ後悔するということ。それらが女性の声で語られた。
「どこだ、ヨシヤ!」
「ふっふっふ。ここだよ。パパ」
と、声がした。辺りを見る。しかしヨシヤの姿は見えない。声はそんなに遠くからではなかったのに。
視界の隅で何かが動いた。
すぐ近くで、ロッキングチェアがひとりでに揺れていた。
近付いて、椅子の正面にまわってみると、そこにはヨシヤが座っていた。大きすぎる背凭れに隠れていたようだ。ヨシヤは椅子にすっぽり収まっていた。
ヨシヤは私を見上げると、もったいぶるような笑顔を浮かべて、
「最近の、ロッキングチェアはすごいね」
と、言った。
「いや、昔からそんな感じだよ」
「えぇー、なんで? ずるい!」
ロッキングチェアが激しく揺れた。
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