7
「どうして自分だけが責められなければならないのかって思う?」
唐突に声が問い掛ける。
「いや、ただ……」
「ただ?」
「すべてが夢みたいだなって。だから生きてて、どこか現実味がなくて。夢から覚めないと、飲み込めない、……そんな気がするんだ。昔からそうなんだ。何だか生きてるような気がしない。
もう少し真剣に生きなきゃ、後悔することになるって、薄々は分かるんだ……でも、どこか他人事に感じてしまう。おそらく、死なないと分からないのかもしれない。死んだ後に初めて、自分のことだったって感じるんだ。だけど死んだ後だから、もう何もかも手遅れで。……そう思うと不安で落ち着かない」
「可笑しいわ、夢なんて贅沢品なのに。夢はもう一つの人生よ。実際の人生には始まりと終わりがある。だけど、一度見た夢は消えない。また再度、夢に現れる。夢を材料にして夢を見る。夢のデジャブ、夢の夢。
あなたの過去や未来、記憶や天啓。色んなものが溶けあってできたのが、夢。
夢はまるで万華鏡のよう。その中は鏡と宝石の国。その住人たちは、毎日毎日、溜め息ばかり突いている。だって美しさが過ぎるんだもの。いつも涙を滲ませている。美しさが過ぎるから。
でもそれは一度だけの美しさ。もう見ることの叶わない美しさ。万華鏡から目を切れば、たちまち消える世界。美しかったという印象だけが残るだけで、決してそのものは思い出せない。
思い出したくて中を覗いても、そこにあるのは似ているけれど、どこか違う世界。美しいには美しい。でもどこか空々しい美しさ。夢の後にも似た白々しさ。秋の方がまだ温かい。桜の方がまだ優しい。夜空の方がまだ寄り添ってくれる。
夢も万華鏡も、そして人生すら、外からじゃ何も分からない。まして、終わった後のことなんて。
すべてのことは、その時の当事者以上に感じることなんてできないの。
分かるかしら、あなたに?」
「後の祭りすらないってことか」
「そうね。お祭りは、終わってしまったら、終わりだもの。提灯が消えて、風が冷たいのに気がつく。出店が閉まり、夜だったことを思い出す。喧騒が消えて、独り切りだってことに思い至る。そして、迷子は本当の迷子に。貴方は永遠の迷い人。歩いても歩いても独り切り、探しても探しても独りぼっち、悩んでも悩んでも貴方だけ」
声の主の顔は、相変わらず見えない。しかし、どんな表情をしているのか分かるような気がした。
顎を少し上げ、弛緩した唇で、挑むような目付きで、とろけるように笑っている。
やるせない吐息が後ろから。しばしの沈黙の後、思い出し笑いのような笑い声。それがいつの間にか、継ぎ目なく、静かな嘲笑に変わっていた。
「それで貴方は周りの大人に尋ねるの、パパを知らない? ママはどこ? って。そして大人は、必ず貴方の名前を尋ねるの。
でも貴方は自分の名前を言えないの。恥ずかしいのかしら? それとも質問に質問で返されて不満なの? まさか自分の名前を忘れてしまったの? でなければ貴方には初めから名前がない? さぁ、貴方の名前は?」
「どうして、そんな話ばかりするんだ? 俺が何かしたのか? 自分のことなんて知らない。自分なんてどうでもいい。自分なんて俺とは関係ない……。
そういう君は誰なんだよ。君は誰だ? 君は誰で、誰が君なんだ?」
「私、私、私、そして、私? 私ばかりでおかしいわ。
でもそれは真実。世界は私が見ている。私は世界に見られている。私は私でできている。私のすべてが、私で作られている。
私の骨も、肉も、記憶も、魂さえも。そして、それぞれが夢を見る。飽きもせずに、毎晩、毎晩、繰り返し。
夢は不思議と飽きないものよね。何故かしら? 大好きなおもちゃも、何度も聴いたあの歌も、好きだった恋人も、昔からのこだわりも、飽きたらそこで、突然消えてしまう。まるで最初からなかったみたいに。
飽きたら、おしまい。飽きたら、さよなら。飽きたら死んじゃう。飽きられたら殺される。
貴方は貴方でできている。貴方、貴方、貴方、そして、貴方? 貴方は誰? 貴方は夢を見ているの? 貴方は記憶を探っているの? それとも空想に耽っているの? 貴方はどこから、ここを見ているの?
分からない、分からない? 分かることは分かるし? 分からないことは分からない? それは当たり前のこと?
いいえ、私には分かる。
こんな言葉があるでしょ? 深淵を覗くとき、また深淵もこちらを覗いている、だったかしら?
夢を見るとき、記憶を探るとき、空想に耽るとき、貴方はそれらに見られている。色のない映像が、風景のないエピソードが、穴だらけの虚構が、貴方を見ている。じっと息を殺して、目だけ奇妙に笑わせながら。だから本当は、私、貴方が誰か知ってるの。
自明な質問。意味のない問い掛け。おうむ返しの返答。質問に質問で返し。噛み合わない会話。なのに通じている不思議。誰かとの会話から、洪水のように溢れる、無意味な言葉の数々。会話の歯車が少しずつ削れていく。埃のような金属を振り落としながら。
壊れない歯車はない。いつしか独り切りになり、自問する。得た答えの、答え合わせをしたくて。そしてまた、誰かに質問をする。
コミュニケートする度に舞い上がる金属の埃。それはすべてのものに降りかかる。まるで雪のように、うっすらと鈍色に濡れながら。
埃はどこまでも広がっていく。森の隅々へ、澄み渡る空一面へ、ひっそりとした海底へ、風の行き着く先へ、煌めく星の彼方まで、そして貴方の、肺の奥の奥へと。……貴方はその肺で、私に何をお話ししてくれるの?」
私は黙ってハンドルを握っていた。
「私は誰でもない誰かさん。だから気せず、何でも話してくれていいのに」
拗ねるように言って、声はそれ切り沈黙した。
車を走らせていると、制限速度50キロの標識が見えてきた。私はブレーキを踏み、車を減速させた。
「いいのよ別に、スピード落とさなくても。こんなの形だけの注意なんだから」
確かに道は広く、見通しがよかった。何のための速度制限なのか分からない。
「夜だし、こんな山道を人なんて通らない。通るのは獣だけよ」
私はアクセルを踏み込んだ。
しばらく進むとまた標識が現れる。今度は40キロ。
道は一本道の直線だ。
「こんなのただの形だけ。ただのお節介。もっと飛ばして。大丈夫よ。前をしっかり向いていれば、どんなにスピード出したって、貴方なら大丈夫」
30キロ。
20キロ。
「目を見開いてれば大丈夫。貴方なら大丈夫。通るのは獣だけよ」
10キロ。
「通るのは獣だけ」
0キロ。
0キロ?
0?
0キロってなんだ? つまり止まれと言うこと? じゃあ『止まれ』の標識を出したらいいじゃないか。なのに0? どういうことだ?
突然、声が歌うように、
「獣が一匹、獣が二匹」
少し間を置き、
「獣が三匹」
遠くにぼんやりと灯りが見えた。どうやらトンネルらしい。
とても大きな山だ。山頂が見えない。星も、空すら見えない。木も土もない。あるのはただ闇ばかり。黒い壁が、左右上下に広がっていた。私は首を傾げた。首を傾げても、視界も一緒に傾かないから不思議だ。
壁に空いた穴。ぼんやりと光るトンネル。橙色の優しい光。まるで太陽のよう。
「あら、トンネルだわ。トンネルを抜けると何がある? 長いトンネルを抜けた先には何が? 多分、それは何かの始まり。予期せぬ出来事。あるいは予期した出来事。いずれにしてもトンネルの先には、変化が待っている。良し悪しの如何に関わらず。でなければトンネルを抜ける甲斐がないもの。
トンネルの先の誰かにいかれる。トンネルの先の出来事にいかれる。トンネルの先で貴方はいかれる。
誰かに首ったけになるのか、誰かと首引きして遊ぶことになるのか、誰かに縊り殺されることになるのか。あるいは貴方が誰かを縊り殺すのか。それとも誰かが首を括るのか。
何が起こるかは分からない。でも必ず何かが起こる。待ってるだけじゃダメ。早くしなくちゃ。がむしゃらに形振り構わず自分をぶつけなくちゃ。トンネルがアホ面浮かべて口を開けてる間に、あなたは帰ってこなくちゃいけない。いつまでもトンネルが通じているとは限らないのだから。あなたは焦るぐらいで丁度いい。焦っているときのあなたが一番素敵。だってね、そのときのあなたは真剣そのものだもの。だから――」
トンネルに入った瞬間、声が途切れた。
ぼんやりとした光。視界が白く染まっていく。
座席の背凭れがうごめきだし、私の背中をまさぐりだす。
どうしたんだ。私は頭の中でそう呟く。すると返事をするように、背中を優しく蹴られる、まるで母親のお腹の中の胎児のように。私の気持ちが分かるのか。そしてそれが分かって不満なのか。それとも愉快なのか。
突然、何かに足首を掴まれる。頭に浮かぶのは、熱いくらいの小さな手。
お腹の中から声がした。
「ねぇ、パパ、ここから早く出して」
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