道を外れてしまおう、と思った丁度その時、遠くの方に『ト』の標識が見えた。

 道を外れてしまおう。あの『ト』の標識の所で曲がろう。そして、その後、どこかの小道に入って車を停めよう。それがいい。そうしよう。


 舗装が悪いのか、

 車が時折揺れる。揺れに合わせて音が鳴る。

 トトという音が、

 ト、ト、トという音が鳴る。

 トト

 ト、ト、ト

 トト

 ト、ト、ト

 トト

 ト、ト、ト

 と音が鳴る

 トが近付く トに近付く

 トに合わせて車が揺れる 揺れに合わせて音が鳴る 

 トとト

 トとトとト

 トトとト、ト、ト

 トとトを繋ぐ『と』

 トとトの間の『と』

 何でも繋げる『と』

 じゃあ『ト』は?

 トはただの音 トはただの記号

 トースト、トマト、トト

 トマトトースト、ト、ト、ト

 持ち運びに便利なトートバッグ

 持ち運びに最適なトートバッグ

 トートバッグにトマトを

 トートバッグへトーストを

『ト』は要素。何かを形作る構成要素

 世の中は所詮トマトの投げ合いっこ

 私たちは誰しもトマトを運ぶトートバッグ 

 トマトは弾けて

 トとマとトに

 無意味な繰り返し

 トートバッグの中のトマト

 それらを形作る『ト』あるいは表す『ト』そして繋げる『と』

 トマトトーストのトートロジー

 トートバッグのトートロジー

 たまに単発でト

 たまに連続でトトトト

 少しずつ大きくなるト

 距離が近付くに連れて大きくなるト それと共に音と揺れが大きくなるような錯覚

 トを見詰める トに焦点を合わせる

 更に近付くト 更に大きくなるト

 トが大きくなり 風景が追いやられて消えていく トに飲み込まれる視界


 ト。

 そうだ右に曲がらなくちゃいけないんだった。

 ウィンカーを右へ。すると光に合わせて音が鳴りだす。

 ト……ト……ト……ト……ト……

 等間隔の点滅に、音、一定のリズム。

 ト……ト……ト……ト……ト……

 多分これは、トの心臓の音。

 ト……ト……ト……ト……ト……

 トが脈打つ。

 ト……ト……ト……ト……ト……

 さぁ、幸せなら手を叩こう、ト、ト。

 さぁ、トに合わせて手拍子、ト、ト。

 さぁ、クラップ、ト、ト。 

 トの、在不在でリズムが生まれる。

 リズムの可能性は無限大。バリエーションはいくらでも。

 トのリズム。それに合わせてあなたは手を叩く。

 その内、あなたはトのリズムから少しずれてしまう。

 そのリズムは、もう、あなただけのもの。

 あなただけのリズム。

 あなただけの秘密のリズム。

 あなたの心臓は、もうどうしたってそのリズムでしか脈打てない。あなたの胸の、あなたの首の、あなたの手首の薄皮の下で、鳴るそのリズム。

 これまでいったい、何度鼓動したことだろう。

 トも数えれば数になる。

 ともすればト、とにかくト、とりあえずのト。

 そうだ、トで微分積分してみよう。多分、答えはト。きっと答えはト。何度やってもト。

 ト×ト=ト

 ト÷ト=ト

 あなたの速度。トまでの距離。

 そしてようやく『ト』の間近へ近付く。

 しかし、よく見るとそれは『ト』ではなく『逆ト』だった。

 おかしいな。確か『ト』だったはず。

 しかし実際に分岐は左側に。

 間違いなく『ト』だったはず。

 なら、元の位置に戻れば『ト』に戻るのだろうか?

 確かにさっきまで『ト』だったはず。

 なら『ト』が反転したんだ。事の顛末はおそらくこうだ。『ト』は気晴らしに踊っていた。つま先立ちになり、くるりと一回転するはずが、一回転半。回りすぎてしまったんだ。そして多分、私が見てると『ト』は動けない。

 見つめる鍋は煮えない=待たぬ月日は経ちやすい。

 見ないのが正解。それがマナー。

 私の理解し得ないことは、私の見ていないところで起こっている。

 鏡の前に立つ私。同じように佇む、鏡の中の私。その時、鏡の背面で、もう1人の私がタンゴを踊っている。あくせくと、だけどどこか優雅に。狂ったようになりながら、私に浮かべられない表情を浮かべ、何かに突き当たるまで延々と。


 右に曲がるつもりだったから、すっかりその気だったから、とっさに左へは曲がれなかった。 

 標識は過ぎ去り、バックミラーには金属の背面だけが映る。

 くるくると『ト』が踊る。一本しかない脚で器用にバランスをとって。見えないところでくるくると。

 バランスを崩して、ト、ト、ト

 立て直そうと、トト

 トトトトトトトトトトトト

 繰り返し訪れる分岐。しかし今思うと、自分の意思で曲がれた試しはない。

 ひたすらの一本道。

 運命というものがあって、それがあらかじめ定めらているなら、何のための分岐だろう。私たちは曲がれない道に夢を見ている? 私たちは通らなかった道に思いを馳せる。私たちは多分、突き当たりでしか曲がれない。

 あるかもしれない夢に、あったかもしれない夢。決して曲がれない曲がり角。

 もう見れない夢。

 忘れてしまった夢。

 もう思い出せない夢。

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