「古い曲ね」


 夜中、車の中、国道の上。声が後ろから。電灯の灯りは頼りなく、まるで行灯のよう。山道だからか、対向車、後続車、共にない。見えるのは小山の影、そればかり。

 これはいつのことだったろう?


 分からない、分からない。分かることは分かるし、分からないことは分からない。それは当たり前のこと。

 車内には、昔流行ったクリスマスソングが流れていた。昔流行ったなんていうと聞こえはいいが、つまりは流行遅れの歌だ。


「あなたが聴くのは古い曲ばかり」


 責めるような、哀れむような声。僅かに面白がるような声色も混じっている。


「どうしてかしら?」


 助手席には誰もいない。

 バックミラーに目をやる。鏡の縁に、微かに何かの動く気配。声の主は、私の視界から逃げるように、バックミラーの映る範囲から移動した。何故だろう。分からない。

 私は、後ろを振り向こうとした。


「前、見ないと、危ないわよ」


 声がすぐ後ろから。


「そうだな」


「気を付けなくちゃ。特にこれからはね」


「これから?」


 と、問う、私。

 返るのは笑うような気配だけ。

 私が黙っていると、声は口を開いた。観念したというように、仕様がないというように。


「あなたは3人の命を預かっているんだから」


「3人?」


「ほら、前を見て、前を。あなたは前だけ向いていて。あなたは後ろを振り返りすぎる」


「そうかな」


 他に誰がいる? 声と私以外に誰かがいるのか? トランクに誰かいるのか? それともそいつは姿の見えない存在なのか? 何かの冗談だろうか。声と私と、それから誰か。 


「えぇ。そんなんじゃ過去に殺されるわ」


「殺される……穏やかじゃないな」


 誰かは何も言わない。


「そうね。それに……」


 声は一拍子置いて、


「あなたは無知な動物や虚ろな人間を殺すことになるわ」


 声は続けて、


「過去や未来を見ない切実な彼らを、あなたの過去が、あなたのノスタルジーが、あなたの感傷が、あなたのセンチメンタルが殺してしまうわ。迂闊なあなたは人殺し……」


 声は静かに笑いはじめた。低く小さい底声。そして笑いながら、


「腕も、脚も折れて、そこらじゅう傷だらけで、息も絶え絶えで、それでも呆気にとられながら、きょとんとしながらあなたに言うわ。『私が何かしましたか?』ってね。もう少しだけ生きられた老人が、出端を挫かれた小さな子供が。お猿さんや、猪や、大きな熊さんや、鹿や狸が、それぞれにあなたを見上げながら。

 あなたは何も言わないし、何も言えない。ただ黙っているだけ。ただぼうっと立っているだけ。だから相手は呆れ果てて、星占いを始めるの。それでも駄目なら神様に、『私が何かしましたか?』」


 笑い声は収まり、沈黙だけの独擅場。やがて背後から射貫くような視線の気配。声の主の、見えない誰かの、見えない視線。


 動物注意や安全運転の標識が、次から次へと、現れては過ぎ去っていく。止まれの標識も、信号もなく、ただ真っ直ぐに道が続く。様々な動物のシルエット。目の錯覚なのか、人間のシルエットも交ざっているように見えた。間違いじゃない、人間だって動物だ。動物注意の上の人間のシルエット。そのシルエットが動いたような気がした。これこそ目の錯覚。そしてシルエットが喋り出す。『私が何かしましたか?』、これは幻聴。


 通学路につき、老人ホームにつき、そんな注意書が現われはじめる。こんな山道に学校が? 老人ホームが? 


 注意書を読み上げる、私の頭の中の、私の声。


『通学路につき、『私が何かしましたか?』』


『老人ホームにつき、『私が何かしましたか?』』


 頭の中の声が勝手に喋る。勝手に言葉を付け足す。


 寂れたバス停が現れる。付け足される言葉、付け足すのをやめられない頭の中の声。

 こちらは直行便になります。


『こちらは病院の分別室から、葬儀場の火葬場への直行便になります』


 乗り換えはお早めに。


『乗り換えは手遅れです』


『直行です。直行です。これは直行バスです。直行便です。なお乗り換えはありません』


『シャトルバスは出ておりません。ピストンバスは出ておりません。往復便はございません。ご利用ありがとうございました』


『お足元に十分お気を付け、お降りください』


『弊社バスをご利用頂き、誠にありがとうございました』


 次々と現れる標識や注意書。それらを見る度に、言いたくもないことを頭の中で喋ってしまう。

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