5
「古い曲ね」
夜中、車の中、国道の上。声が後ろから。電灯の灯りは頼りなく、まるで行灯のよう。山道だからか、対向車、後続車、共にない。見えるのは小山の影、そればかり。
これはいつのことだったろう?
分からない、分からない。分かることは分かるし、分からないことは分からない。それは当たり前のこと。
車内には、昔流行ったクリスマスソングが流れていた。昔流行ったなんていうと聞こえはいいが、つまりは流行遅れの歌だ。
「あなたが聴くのは古い曲ばかり」
責めるような、哀れむような声。僅かに面白がるような声色も混じっている。
「どうしてかしら?」
助手席には誰もいない。
バックミラーに目をやる。鏡の縁に、微かに何かの動く気配。声の主は、私の視界から逃げるように、バックミラーの映る範囲から移動した。何故だろう。分からない。
私は、後ろを振り向こうとした。
「前、見ないと、危ないわよ」
声がすぐ後ろから。
「そうだな」
「気を付けなくちゃ。特にこれからはね」
「これから?」
と、問う、私。
返るのは笑うような気配だけ。
私が黙っていると、声は口を開いた。観念したというように、仕様がないというように。
「あなたは3人の命を預かっているんだから」
「3人?」
「ほら、前を見て、前を。あなたは前だけ向いていて。あなたは後ろを振り返りすぎる」
「そうかな」
他に誰がいる? 声と私以外に誰かがいるのか? トランクに誰かいるのか? それともそいつは姿の見えない存在なのか? 何かの冗談だろうか。声と私と、それから誰か。
「えぇ。そんなんじゃ過去に殺されるわ」
「殺される……穏やかじゃないな」
誰かは何も言わない。
「そうね。それに……」
声は一拍子置いて、
「あなたは無知な動物や虚ろな人間を殺すことになるわ」
声は続けて、
「過去や未来を見ない切実な彼らを、あなたの過去が、あなたのノスタルジーが、あなたの感傷が、あなたのセンチメンタルが殺してしまうわ。迂闊なあなたは人殺し……」
声は静かに笑いはじめた。低く小さい底声。そして笑いながら、
「腕も、脚も折れて、そこらじゅう傷だらけで、息も絶え絶えで、それでも呆気にとられながら、きょとんとしながらあなたに言うわ。『私が何かしましたか?』ってね。もう少しだけ生きられた老人が、出端を挫かれた小さな子供が。お猿さんや、猪や、大きな熊さんや、鹿や狸が、それぞれにあなたを見上げながら。
あなたは何も言わないし、何も言えない。ただ黙っているだけ。ただぼうっと立っているだけ。だから相手は呆れ果てて、星占いを始めるの。それでも駄目なら神様に、『私が何かしましたか?』」
笑い声は収まり、沈黙だけの独擅場。やがて背後から射貫くような視線の気配。声の主の、見えない誰かの、見えない視線。
動物注意や安全運転の標識が、次から次へと、現れては過ぎ去っていく。止まれの標識も、信号もなく、ただ真っ直ぐに道が続く。様々な動物のシルエット。目の錯覚なのか、人間のシルエットも交ざっているように見えた。間違いじゃない、人間だって動物だ。動物注意の上の人間のシルエット。そのシルエットが動いたような気がした。これこそ目の錯覚。そしてシルエットが喋り出す。『私が何かしましたか?』、これは幻聴。
通学路につき、老人ホームにつき、そんな注意書が現われはじめる。こんな山道に学校が? 老人ホームが?
注意書を読み上げる、私の頭の中の、私の声。
『通学路につき、『私が何かしましたか?』』
『老人ホームにつき、『私が何かしましたか?』』
頭の中の声が勝手に喋る。勝手に言葉を付け足す。
寂れたバス停が現れる。付け足される言葉、付け足すのをやめられない頭の中の声。
こちらは直行便になります。
『こちらは病院の分別室から、葬儀場の火葬場への直行便になります』
乗り換えはお早めに。
『乗り換えは手遅れです』
『直行です。直行です。これは直行バスです。直行便です。なお乗り換えはありません』
『シャトルバスは出ておりません。ピストンバスは出ておりません。往復便はございません。ご利用ありがとうございました』
『お足元に十分お気を付け、お降りください』
『弊社バスをご利用頂き、誠にありがとうございました』
次々と現れる標識や注意書。それらを見る度に、言いたくもないことを頭の中で喋ってしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます