突然頬に感じる冷たさに、息を呑む。遅れて感じたのは動物の死骸のような軟らかさ。

 目を開けると、妻が私の頬に手の平を押し当てていた。死人よりもすっと冷たい手だ。病院の二文字が頭に浮かんだ。


「風邪引くよ」


 妻は静かに囁いた。

 傍らの置時計に目を向ける。まだ真夜中というほどでもない。

 これは、ヨシヤのお伺いの日の夜のことだ。どうやら私は、いつの間にか眠ってしまったようだった。


 傍らの蓄音機から小さくクラシックが流れ、テーブルには読み掛けの本が投げ出されていた。

 妻は私の頬から手を引くと、傍らの椅子に腰掛けた。椅子の上で三角座りをしている。まるで子供のようだ。それは妻の昔からの癖だった。


「また、クラシック?」


 咎めるように妻は言う。


「ああ、悪い?」


「こんなの聴いてるから寝ちゃうのよ」


 言って妻は笑顔を浮かべ、おもむろにテーブルに手を伸ばし、何かを手に取った。見るとそれは、おもちゃのバケツほどもある、特大のアイスクリームだった。

 これまた大きなスプーンで、固いアイスを力ずくですくい、一口に頬張った。


「ああ……きた……」


 一気に頬張りすぎて、頭痛がしたらしく目をぎゅっとつむり、手首を額に押し当てている。


「心配して損した」


 私は鼻から長い息を吐いた。


「え、何が……?」


「何でもないよ」


「なら、いいけど」


「いいのか夜中にアイスなんか食べて。さっき夜中にお菓子はだめって言ってなかったか?」


「なんのことやら」


 妻はスプーンをくわえながら小首を傾げた。


「舌の根も乾かないうちによく言うよ」


「バニラで潤ってるし」


「はいはい」


「はい、は一回でよろしい。適度に息抜きしなくちゃ」


「いいのか、親がそんなんで?」


「いいのよ、べつに。ヨシヤももう子供じゃないんだから」


「子供じゃない? いや……」


「あー。何ていうのかな……あなたが思うほど、子供じゃないってことよ。夜泣きするわけでなし、首が据われば一人前よ」


「そりゃ、夜泣きはしないだろうけど……」


「子供のいないところでは子供でいたっていいんじゃない? だって子供を相手にするんだから。たまには童心に帰らなくちゃ」


 どちらかと言うと妻は、常日頃、童心に帰っているような気がするが。


「でも、そうね……。あなたは少し大人になった方がいいかもね」


「俺が?」


「そう、あなた」


「どこら辺が子供だよ」


「そういう、すぐむきになるところとかね」


「……」


「それはそれでいいけれどね」


 妻は慈愛に満ちた表情を浮かべた。私は妻から顔を切り、本を本棚に戻した。本棚には、おびただしい数の小説とクラシックの音源が詰められている。そして古い映画が少し。


「ところで」


 私は無理に話題を変えた。


「どうする? クリスマスプレゼント」


「さぁ?」


「さぁって……」


「頼まれたのは私じゃないもの」


「頼まれたのはサンタだろ?」


「だから、あなたでしょ?」


「……」


「無責任かしら?」


 悪びれもせずに妻は言う。


「……いや」


 妻は脚を抱えて膝の上にあごを乗せ、ニコニコと笑っている。

 ――優柔不断なあなたに決められるかしら?――

 妻の浮かべる表情は、まるでそう言っているかのようだった。


「大丈夫よ。サンタクロースは魔法の外套だもの。子供みたいにボタンを掛け違えたり、裏表反対に着たりしなければ、必ず子供に夢を与えられるんだから」

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