第65話 ニーナ・イン・ワンダーランド※

 ニーナは退屈していた。

 女神アルティリアの養女となり、神殿で暮らす彼女は獣人族の少女である。褐色の肌に赤い瞳、白い髪の持ち主で、頭頂部には猫の耳、臀部からは細長い尻尾が生えている。

 ニーナは普段、動物の世話をしている。神殿で飼育している飛竜や、神殿騎士団員達の馬がその対象だ。

 しかしこの日は騎士達はほぼ全員が仕事で遠出しており、馬も不在であるため手が空いていた。また、養母の女神アルティリアも領主との会談の為にレンハイムの町に赴いている為、不在である。

 一つ上の兄、アレックスも朝起きた時から姿が見えない。きっといつものように港に居るだろうと、ツナマヨと名付けた飛竜に餌を与えてからニーナは一人、港へと向かったのだった。


 果たして港に足を運ぶと、予想通りに兄の姿があった。他にも数人、町の子供達が一緒に居るのが見える。彼らは堤防の上で釣りをしていた。


「おいアレックス、めちゃくちゃ引いてるぞ!」


「竿が物凄くしなってる! 大物か!?」


「ああ、かなり重い。お前ら手伝え」


 丁度大物がかかったようで、アレックスが周りの子供達と一緒に竿ロッドを押さえながら、リールを回して魚を釣り上げようとしていた。


「おっ、見えてきたぞ!」


「ん……? あれ、なんか赤いぞ!? もしかして鯛じゃね!?」


「マジで!? ほんとだ、鯛っぽいぞ!」


 水面近くに引っ張り上げる事で姿を現した魚を見て、子供達がわっと歓声を上げる。その渦中にあってもアレックスは冷静だ。


「ハンス、あみ」


「任せて!」


 アレックスの指示で、彼の友人である町の子供、ハンス=ヴェルナーが攩網たもあみ――長い棒の先に網が付いた物だ――を構え、アレックスが釣り上げた鯛を網の中へと入れ、持ち上げた。


「でっけぇ!」


「うおおおお! アレックスすげー!」


「どうする!? 食うのか、それとも売るのか?」


 少年達は氷を詰めた木箱に釣り上げた鯛を入れ、それを持って市場の方へとまっしぐらに走っていった。それを見送ったニーナは、不機嫌そうに頬を膨らませた。


「……むー」


 無口だが物怖じしないアレックスとは逆で、ニーナは気が弱く、人見知りが激しい方だ。騒がしい男児達の間に入っていくのに躊躇していたら、話しかける機会を逸してしまったようだ。

 仕方なく港を後にして、アレックス達を追って市場の方に行こうとした、その時だった。何か小さな生き物が、ニーナの目の前を横切っていった。


 その正体は、一匹の兎だった。しかし、明らかにただの兎ではない。何故ならばその兎は、燕尾服のようなデザインの服を着て、頭には長い耳の間にシルクハットを乗せていた。更に右手には懐中時計を持っている。

 しかも、あろうことかその兎は、突然人語を喋りだしたではないか。


「大変だ、大変だ。このままでは遅れてしまう」


 懐中時計の盤面を見ながら、慌てた様子で兎は二本の足で走っていった。そんな異様な生き物を目撃したニーナの瞳が大きく見開かれ、猫耳と尻尾がピクピクと激しく震えた。


「変なうさぎさん!」


 謎の兎に興味を惹かれたニーナは、それを追いかけて走っていった。


「まてー!」


 子供とはいえ、獣人族は身体能力や敏捷性に優れている。ニーナは大人顔負けの速さで兎を追いかけるが、しかしその差はなかなか縮まらない。

 いつしか、ニーナは兎を追いかけて森の中へと入っていた。

 そして、森の奥へと入っていったニーナは、兎が洞窟へと飛び込んでいくのを見た。その洞窟の奥は暗く、外からは中の様子が伺えない。

 少しだけ恐怖を感じるが、しかし好奇心が上回ったのか、ニーナは洞窟の中へと飛び込んでいった。


 すると、突然視界が切り替わり、ニーナは先程まで居た森とは全く別の場所に立っていた。

 そこは海に浮かぶ、小さな孤島であった。


「なんで???」


 いきなり森の奥にある洞窟から、海へと移動した事でニーナは混乱ながら周囲を見回した。

 島には木が何本か生えている程度で、他には何もない。背後を見ても、そこには通ってきた筈の洞窟は無く、見知らぬ場所で帰り道すら見つからないという絶望的な状況に、ニーナはパニックを起こしかけるが……


「んっ!」


 パーン! と、自身の両頬を平手で叩いて気合を入れ、ニーナは周囲をよく観察する。


「ピンチのときこそ、おちついてまわりをよくみる!」


 養母の教えを口に出し、それを実践すると、島から少し離れた場所に、陸地があるのが見えた。白い砂浜が広がっており、その奥には草原や森が見える。それは最初からそこにあったが、冷静さを欠いた状態のニーナには見えていなかったようだ。

 まずはこの何もない島を離れ、そこを目指すべきだと考えるが、その為の手段をニーナは考える。

 真っ先に思いついたのは泳いで向こう岸まで行く事だが、果たして体力が保つだろうかと不安になる。ニーナはそれなりに泳げはするが、母や兄ほどには泳ぎが得意ではない。それでも他に方法が無い以上致し方なしと、意を決して海に飛び込もうとすると、


「キュイー!」


 という鳴き声と共に、海面に白いイルカが顔を出した。


「いるかさん!」


 ニーナが目を輝かせて手を伸ばすと、イルカは人懐っこい様子でニーナの手に顔を擦り付けた。そして、「乗れよ」とでも言いたそうな様子で、海面に浮かんだ状態で背中を向けるのだった。

 ニーナがそっと背中に乗ると、イルカは向こう岸に向かって泳ぎ出した。あっという間に対岸に辿り着くと、イルカはニーナをそっと砂浜に降ろし、背中を向けてクールに泳ぎ去るのだった。


「いるかさん、ありがとうー」


「キュイッ」


 ニーナがそう言って手を大きく振ると、イルカは振り返って、短くひと鳴きすると海へと潜り、そのまま姿が見えなくなった。


 イルカを見送ったニーナは、海岸から草原へと移動した。草原の向こうには森があり、その更に向こう側には、丘の上に巨大なお城が建っているのが見えた。


「おしろ……きっと人がすんでるよね」


 もしかしたら、そこに居る人が家に帰る方法を知っているかもしれない。

 そう考えて、ニーナは遠くに見える城を目指す事を決めたのだった。



  *



 そして同時刻。

 世界の中心に位置する孤島・エリュシオン島にて、うみきんぐは崖の上に立ち、眼下に広がる海を見下ろしていた。

 しかしその目に映るのは、目の前の雄大な景色のみにあらず。彼の持つ千里眼は、遠く離れた場所の光景をも正確に観る事ができる。


「これは……少々まずいか」


 それによって彼は、ニーナの身に何が起きたかを正確に把握していた。それゆえに彼は、このままではニーナの身が危ないと判断し、対応策を講じる必要があると考えていた。

 しかし、彼が持っていた神としての力の大部分は枯渇しており、直接手助けする事は出来そうにない。

 ならばどうするか……と考えていた時、彼に向かって近付いてくる人物が居た。足音に振り返り、その人物の姿を見たうみきんぐは、少しの驚きと共に、


「珍しいな、お前がここに来るとは。……行ってくれるのか?」


 うみきんぐの問いに、その人物は無言でこくりと頷き……そして、音もなくその姿を消したのだった。

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