雪原

 白く輝く雪の上に、わたしは立っていました。いえ、正確には『雪の中に立っていた』でしょうか。雪は高級なじゅうたんを何枚も重ねたように厚く積もっていて、わたしの足首はスッポリと雪の中でしたから。


 だけれど、わたしは雪国の民のようにフカフカでフワフワな防寒具を着ているおかげで寒いとは思いません。足首も茶色の丈夫そうなブーツが守ってくれています。ありがたいことです。


 青い空を見上げると、東の方角に太陽が浮かんでいたので、まだお昼間なのだと分かりました。その他には、いくつかの雲が漂っています。空気は冷たいですが、とても澄んでいて気持ちが良いです。


 はてさて、ところでわたしは一体どこから来たのでしょうか? 地平線まで続く雪原を見渡してみましたが、わたしの足跡は見つかりません。どこを見ても、雪は今まさに空から降って来たばかりであるかのように綺麗です。厚い桜色の手袋をはめた両手で足元の雪をすくってみますと、雪はホイップクリームのようにフワフワとしていました。さらに、太陽の光を反射して宝石のようにキラキラと光っています。


 そんな雪を見ていると、ふと、どんな味がするのだろうという思いが頭を駆け巡りました。すると、雪を載せた両手がわたしの口に自然と近づいてくるではありませんか。ああ、いけません。雪に口につけるのが許されるのは幼子だけです。嫁入り前の娘がなんてはしたない真似を。おやめなさい。わたしの必死の停止も虚しく、両手はゆっくりとですが着実にわたしの口に雪を近づけます。ああ、もうだめです、もう、雪がフワフワなホイップクリームに、お日様の光が反射した様は砕かれた氷砂糖がまぶされている様にしか見えません。いただきます。わたしはホイップクリームに小さくかぶりつきました。


 ……ホイップクリームは氷砂糖で飾られているわけではなく、そもそもホイップクリームではありませんでした。両手から雪が落ちていきます。現実とは冷たくて白いものなのでした。


 辺りは静まり返っています。雪は音を吸収すると聞いたことを思い出します。そうでなくても、ここにはわたし以外に誰もいないのです。

 と、その時でした。後ろでサクッと雪を踏む小さな足音がしたのです。わたしは振り返りました。

 わたしのからそう離れていないところに、銀色の大きなオオカミがいました。四本の足でしっかりと雪の上に立っています。そう、雪の上にです。わたしより重そうなのに不思議です。そんな彼又は彼女は、ゴワゴワとした、しかしあたたかそうな銀色の毛皮をまとっています。


 ◆


 こんにちは?


 わたしは挨拶をしましたが、オオカミは鋭く銀色の目でわたしを見返すだけでした。しかし敵意がないということは感じました。そう思いたかっただけなのかもしれませんが。こちらも敵意が無いことを示すために、瞬きをしながら両手を下げたままゆっくりとその場にしゃがみこみました。これでわかってもらえるはずです。わかってもらえなければ…その時は諦めましょう。人生、何事も諦めは肝心だと教わりました。


 オオカミはわたしの動きをじっと観察しているようです。わたしはしゃがみこんだまま引き続き様子を見ます。


 そうしていると、辺りが少し暗くなりました。空を見上げると、雲が太陽を隠していました。視線を戻すと、なんとオオカミの身体がピカピカと輝いているではありませんか。溜め込んでいた太陽の光を発しているのでしょうか。


 綺麗……


 ふと、わたしの口からそんな言葉が漏れました。すると心なしかオオカミの口角が上がった気がしました。再び太陽が顔を出すと毛皮は元のきれいな銀色に戻りました。おそらくあの毛皮は干した後の布団のようにとてもいい匂いがすることでしょう。


 のんきにもそんな事を考えていると、オオカミが一歩また一歩とわたしに近づいてくるではありませんか。サクッサクと小気味のいい音付きで。そしてわたしの手が届く位置で止まります。目と目が合います。わたしはオオカミの黒い鼻にむけて右手をゆっくりと近づけます。虎穴に入らずんば虎子を得ず、です。

 鼻先まであと数センチといったところで、それまでわたしの手をじっと見ているだけであったオオカミが動きました。首を伸ばして鼻先を近づけ手の匂いを嗅いだのです。クンクンと二回。それだけでした。どうやら気に入ってもらえなかったようで、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまいました。わたしも自分の手の匂いを嗅いでみましたがよくわかりませんでした。


 オオカミはまだ近くにいます。わたしの頭の中にまたしてもろくでもない考えが浮かびました。今なら撫でることができるのではないかと。

 わたしの右手がそっぽを向いたままのオオカミの頭めがけて突き進みます。まるで強力な磁石によって引き寄せられているかのように一直線です。ああ、いけません。何がいけないのかと訊かれたら困りますがとにかくおやめなさい。

 またしても心の一部が制止しようとしますが、身体は言うことを聞きません。ストライキです。こうなっては仕方がありませんね。

 ポン。右手がオオカミの頭にのりました。以外にもオオカミはなんの反応も示しません。まるで置物のようです。だけれど、厚い手袋越しでもしっかりと体温を感じとりました。厳しい冬の後に現れる春のような優しい熱でした。手をのせているだけで、全身が温まっていきます。


 ふと気がつくと、オオカミがなにかいいたげに横目でわたしを見ていました。名残惜しいですが、おとなしく手を戻しますと、オオカミは大きく身体を震わしました。頭から雪が振り落とされます。わたしの手袋に付着していた雪が付いてしまったのでしょう。


 ごめんなさい。


 謝罪しましたが、返事は返ってきませんでした。さもありなん。

 気分を害してしまったのでしょうか。申し訳ない事をしたと反省していると、オオカミが大きなあくびをしました。口がとても大きく開かれました。口の中は柔らかくて暖かそうです。わたしはそれを見て、幼き頃に読み聞かせてもらった童話を思い出します。あのお話では、しばらくの間なら口の中に入っても大丈夫でした。もし吹雪になったら、わたしもオオカミの口の中に入れてもらおうと思います。もちろん、オオカミの許可がおりればですけれど。

 オオカミは何かを察したのか、すぐに口を閉じました。わたしの目を見て鼻を鳴らして背を向けてしまいました。

 わたしは立ち上がって、服に付いた雪を払い落とします。雪は文句を言わずに落ちていきました。改めてきれいな雪だと思います。でも、もう口に入れたりはしませんよ。


 さて、改めて、これからどうしましょうか。太陽はいつの間にか西に傾き始めていました。日が落ちるのは時間の問題でしょう。周りは雪しかありません。いくら防寒具を着込んでいるといっても、雪の中で一夜を越すのはとてもつらいでしょう。

 そのように一抹の不安を感じている中、オオカミが東の方角へ歩いていきます。どうやらここでお別れのようです。暗くなる前に住処へ帰るのでしょうか。しかし、オオカミはすぐに歩みを止めて振り返りました。じっとわたしを見ます。かと思うと、背を向けて歩きます。そして、数歩進んでからまたしても振り返りました。もしかして……。


 ついていけばいいの?


 返事はなく、オオカミは三度歩いていきます。わたしはあまり深く考えずについていくことにしました。



 日がだいぶ傾いてきました。雪原はオレンジ色に染められ、お昼間とはまた違った味わいを見せてくれます。オオカミもまたその銀色の毛に夕日を浴びて輝いています。歩くたびに揺れる尾が稲穂を思わせます。


 わたしたちは黙々と雪原を東へ進んでいます。わたしは雪にブーツが埋まっているのでついていくのに一苦労です。距離が離れる度に、オオカミがこまめに立ち止まってこちらの様子を伺います。待っていくれているだと思いますが、どうも急かされているようで気が気じゃありません。せめて、わたしも同じように雪の上を歩けたらと思います。……ないものねだりをしても仕方がないですね。


 行く先にはなにもありません。遠くの方の空はもう暗くなっています。夜はすぐそこまでやってきています。

 若干の不安を感じ始めた頃、突然オオカミが歩みを止めました。わたしもその後ろで止まりました。オオカミは前方をじっと見つめています。その時初めて気がついたのですが、わたしたちの前方に一本の大樹がそびえ立っていたのです。大樹はとても背が高く、先端は夜の空に溶け込んでいます。四方八方に広がっている数え切れないほどの長い枝には、残念なことに葉が一枚も付いていません。


 首が痛くなったので見上げるのを止めました。大樹の下の雪はきれいに溶けてなくなっていました。乾いた土が顔を出しています。オオカミはただ大樹を見上げています。何かを待っているようだと感じました。


 わたしはオオカミの脇に立ち、大樹に触れてみました。すると、手に驚くほどの暖かな熱が伝わってきました。お昼間に触れたときのオオカミのようでしたが、大樹の熱はそれ以上に優しく感じました。あまりの心地よさにもたれかかるように抱きつきました。ああ、暖かい……。

 耳をつけてみると、大樹の中からドクンとが聞こえてきました。地面から水を吸っている音でしょうか。鼓動のように規則正しい音を聞いていると眠くなってしまいました。


 足になにかが触れました。オオカミでした。大樹の根本に座り込み、何も言わずにただ空を見ています。

 わたしもオオカミの傍らに座って足を伸ばし、大樹にもたれかかりました。土の床は柔らかくて電気カーペットのような暖かさ。

 そうして気を抜いたとたん、それまで隠れていた疲れが全身に回り、自然とまぶたが降りてしまいました。



 ザワザワと激しく何かがこすれる音でまどろみから覚めました。どれほどウトウトしていたのでしょう。太陽は完全に落ちていて、代わりに月明かりが雪原を照らしています。大樹から離れた場所にオオカミは立っていて、やはり静かに空を見上げていました。

 わたしは立ち上がって大きく伸びをしました。その時、風が吹いて頭上からザワザワと先程聞いたものと同じ音が聞こえました。


 あっ!?


 わたしは頭上を見上げて、驚きの声を上げました。

 夜空の下、大樹の枝という枝に、薄桃色の花が咲いていたのです。先程の音は端が風によって擦れる音だったのです。花は月明かりを浴びて輝いています。あまりの眩しさに、直視し続けると目が潰れてしまいそうです。


 わたしは大樹の熱を手で感じてから、オオカミの近くへ向かいました。オオカミは隣に立ったわたしを一瞥してすぐに空へと視線を戻します。わたしも同じように空を見ました。視線の先には満月が輝いていました。わたしが視線を戻した時、オオカミのまた、花と同じように輝いていました。


 これを見せたかったの?


 わたしは尋ねました。しかし、やはりオオカミは何もいわず、ただ見つめ返してくるだけ。その目はまるで満月を取り込んだかのように金色でまん丸。長いこと見ていると満月の魔力に当てられてしまいそうです。


 突然、前から強風が吹きました。わたしはまともに立っていられず、風上に背を向けるようにしてしゃがみこんで、かぶっているフードを両手で押さえることしか出来ません。それほど強い風でした。

 強風によって巻き上がった雪が容赦なくわたしの身体に降りかかります。さながら吹雪のようです。目を開けていられません。ただ耐えることしか出来ないわたしの耳にビュウビュウとおどろおどろしい音が飛び込んできて大変恐ろしく感じます。これまでの雪原はほとんど無音でしたから尚更です。


 そんな時、左足に暖かいものが触れました。目を開けられないので見ることは出来ませんが、わたしにはそれが何かすぐに分かりました。それはおそらく、銀色の毛皮と金色の眼をもつ獣。名を知らず、彼か彼女かもわからないオオカミ。無力なわたしを守ってくれているのでしょうか。実際に、とても心強く感じます。抱きつきたい衝動に駆られましたが、残念ながらわたしは動けません。


 風はまだ止みません。


 左足の熱が動き出しました。わたしの鼻に硬い毛が触れたので、オオカミがわたしの前に移動したのだとわかります。すると、不思議なことに、顔に感じていた風が止みました。背中には依然として風と雪が叩きつけられているというのに。

 恐る恐る開けた目の先で、オオカミの尾がゆらゆらと焚き火のように揺れていました。どうやら風はオオカミの周囲止んでいるようです。オオカミはこれまでと同じように前方の顔を向けています。そちらには、先程まで溢れんばかりの花がついていた大樹があるはずですが、視界が悪くて見えません。


 なにか見えるの?


 わたしは尋ねました。言ってから返事は返ってこないだろうと思いましたが、それは間違いでした。


 オオカミが、とても大きな声で吠えました。それは冬の空気よりも澄んでいてかつ鋭く、強風をかき消してしまうほど力強い音色でした。輝く毛は激しく逆立って、まるでカミナリのようです。それを見ているとわたしの心が強く震えます。理由はわかりませんが、少なくとも恐ろしさからではありません。


 段々と視界が晴れていきます。大樹は強風にも負けずに立っていました。花も揺れてはいますが散っていません。遠吠えが一段と大きくなりました。すると、今度は前からも風が吹いてきました。オオカミが前にいるので実際に風を感じはしませんが、枝と花がこちら側にしなったのでそれが分かりました。初めは僅かな揺れでしたが、止まない遠吠えに呼応するかのようにだんだんと揺れが大きくなります。


 そして、それは一瞬のことでした。わたしの視界いっぱいに、無数の薄桃色の花びらが舞ったのです。いえ、舞うなんて優しいものではありません。世界を埋め尽くすぐらいの量です。薄桃色のカーテンが空からおりてきたかのようで、花びらの僅かな隙間からしか黒い空がみえません。

 遠吠えが止んだとき、風は収まっていました。再び静寂が戻ってきました。その中で花びらがチラチラと舞い散っています。

 わたしはしゃがみこんでオオカミの背中にそっと触れました。オオカミはわたしをちらっと見てから、どこか誇らしげに鼻を鳴らしました。わたしは返事の代わりに背中を優しくなでました。


 花びらは舞い続けます。


 しばらくして、オオカミがわたしから離れました。振り返ってわたしの目を見つめてきます。……そうですか。どうやら、そろそろお別れの時のようです。わたしは立ち上がり、オオカミの金色の目を見つめ返します。力強い眼差しです。


 そして、オオカミが雪原の上を駆けだしました。4本の足を激しく動かし足元の雪が撒き散らされます。大樹に飛びつき、器用に幹を駆け上がりました。速度を落とさずに登っていくオオカミ。そして花の影に隠れました。あちらこちらで枝が激しく揺れます。その度に、花びらが舞い落ちていきます。

 わたしは花びらの隙間から見えるオオカミを目で追います。最後に、少しでも姿を目に焼き付けたくて。

 オオカミは天まで伸びる大樹を疾風のような速さで登っていきます。あちこちから舞い散る花びらが月明かりを反射させます。

 そうして、このまま何処までも登っていくのだと思っていたその時、薄桃色の幕の中から飛び出してくる白い影が一つ。もちろんオオカミです。夜空を背景にくっきりとしたシルエット。それと同時に届いてくる遠吠えは紛れもなく歓喜。そして、突風でも吹いたかのようにものすごい量の花びらが大樹から飛ばされていきます。花吹雪というものでしょう。隙間がないほどの花びら達は、オオカミの周りで螺旋を描くようにして、空へと舞い上がっています。その上をオオカミが嬉しそうに飛び跳ねるようにして空へと向かっていきした。


 色々とありがとうね。


 わたしのつぶやきは、空気に溶けて消えました。


 ◆


 薄桃色に染まった雪原の中に、わたしは一人で立っています。大樹はわずかに花びらを残している程度。お互い、寂しくなりました。


 心の片隅に穴が空いたような寂しさを覚えたわたしは、花びらと雪をゆっくりと踏みしめて大樹のもとへ向かいました。

 大樹はわたしがそばに来ても何も言わずにただ佇んでいます。耳を当てると、先程よりかはゆっくりとですが、しかしはっきりとした鼓動が聞こえたので安心します。


 座り込んで大樹にもたれかかり、空を見上げます。僅かな花びらと枝の間から空が見えて、その先には無数の星が輝いています。 瞼を閉じました。ドクンドクン。これは大樹ではなくて、わたしの鼓動でしょう。


 眠たくなってきたので、今晩はこのままここでお休みすることにします。朝になれば、太陽がのぼり、雪が溶けて土が顔を出し、辺り一面に草木が芽吹いている。そんな予感がします。そしたら、わたしも──。

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