大きな波が足元を浚った
ほら、地平線の境目んところ、海面がギザギザに見えるだろ? あれは時化――つまり海が荒れてるってことだ。
その老人は先程から誰に聞かせるともなく静かな口調で語り続けている。防波堤の端に座って、顔は海の方を向いたまま、一向に魚がかかる気配のない竿を握っている。
少し後ろに立っているわたしのことに気がついているかどうかわからない。
へえ。
老人が言うように、雲で覆われた空が落ちる先の海はギザギザだ。それは、怒りに任せて暴れているようにも、悲しみに暮れてむせび泣いているようにも見えた。
時化はとても恐ろしいものだ。海に落ちたら最後、あっという間に荒ぶる波に流されて、二度と海面に浮かび上がることはない。実際にこの海では何人もの歴戦の男が飲まれ消えていった。
老人の語りが止まった。老人の目に写っているものは時化た海か、それとも沈んでいった海の男達か。
耳を澄ます。防波堤に波が当たる音と、風が空を駆け回る音しか聞こえない。
風は冷たく、容赦なくわたしの肌を突き刺す。わたしはコートの襟を立て、両手をポケットに入れて風をしのごうとした。
なあそこの若いの、ここの名称を知ってるか?
老人が唐突に口を開いた。
もしかしてわたしに言ってる?
ほかに誰がいるんだ? 儂にはお主の他には見えないのだが。
わたしは周りを見渡した。
ひとけのない港まで続く防波堤とその周りを囲む海、防波堤にたたずむむわたしと老人。それ以外には何もない。
いないね。で、なんだっけ? 名称? 知らないよ。
そうだろうなあ。――ここはな、流され堤(つつみ)って言うんだ。
流され堤? 変なの。どういう意味なの?
ああ、なぜ流され堤と言うかはな……。
あっ、まった。自分で考えてみる。
わたしが待ったをかけると老人はそれ以上言わなかった。代わりに『若造にわかるかな』といった視線を向けてきた。
わたしは先程までの老人のつぶやきを反芻した。そして流され堤というおかしな名称について考えた。答えはすぐに浮かんだ。
わかった。流され堤の由来はだな、昔ここで大勢の人が波に流されて海に落っこちたから。どうだ?
ハズレ。
老人は短くそう言い放った。
違うの?
ああ、違う。ここには人がさらわれるような波はこない。
……ふーん。
わたしは防波堤の端に立って下を見た。
海面まで10メートルはありそうだった。つまり、かなり高い。海面は穏やかだが、落ちたら一環の終わりだろう。
思わず半歩後ずさったわたしを老人は横目で見ていた。
どうだ、怖いだろ。
はい? 怖くないし。
足が震えてるぞ、若いの。
震えてないし!
売り言葉に買い言葉。わたしは老人の隣に勢いよく腰掛けた。その際、不意に下を見てしまい背筋にシュッと寒気が走ったが気合と根性で耐えた。
ほら! こんなの全然余裕だから。
わかったわかった。若いのにしては根性があるな。
老人は見るからに面倒臭そうな感じでそう言うと、海の方へ視線を戻した。竿のリールを巻いて糸を上げた。先っぽには大きくて白っぽい肉のような何かが付いていた。糸の先を確認して、ため息を吐くと再び糸の先を海の中に落とした。
ねえ、ところで何を釣ろうとしてんの?
アオサメだ。
サメ!?
老人の持っている竿は、どこからどう見ても普通の竿だ。そんなに丈夫そうでもないしでかくもない。糸だってそうだ。半透明の細い糸はサメがひっぱったらすぐに切れそうだ。
そんなんで釣れるの? ボケてんの?
ふん、まだまだ若いもんには負けんぞ。
老人は片方の手で力こぶを作った。年相応にやせ細っているけれど、血管が浮き出ていて硬そうな腕だった。私は両手を小さく上げて降参のポーズをとった。両手を容赦なく冷たい風が襲ったのですぐにポケットに戻した。
まあいいや、それよりさっきの答え教えてよ。
わたしは糸の先に視線を向けながら訊いた。サメがいる様子はまったくなかった。
ああ。いやなに、そんな大層な伝説があるわけじゃない。昔、ここではとある慣習があったんだ。いや、慣習ともいうほどのものでもないか。
老人はそこで区切ると、反応を確かめるようにわたしにチラッと視線を向けた。わたしは、それで? と促した。
それはな、年に一回この防波堤を大波が浚うとき、悩みごとを書いた紙をその波に流すとその悩みも一緒に流されると言われているんだ。だから流され堤だ。
へー。おじいさんはそれ信じてるの?
わたしが疑わしげな視線を向けると、老人は鼻で笑った。
儂は罰当たりもんだからな、その手の伝説は信じちゃいないさ。だけど、実際に年に一回とてつもなく大きな波がここに来るってのは本当だ。と言っても、この防波堤も高いし波自体は大した強さではない。せいぜい足首が浸かる程度だ。もちろん、悩みを解決する効果なんてない。町おこしのために作られたくだらない戯言だな。あの町は――。
そこで一旦区切り、老人はひとけの無い港の方を顎でしゃくった。
港町しばらくに活気を取り戻したが、すぐに飽きられて一人また一人と去っていった。最後には老い先短い老人だけが残された。そして、いつの間にか、町は地図から消えた。大昔の話だ。
老人は一息でそういう言って黙った。視線はまっすぐ地平線に向けられている。
わたしは漠然と、見たこともないその町について考えた。そして、すぐに考えるのをやめた。結局、町はなくなった。それだけの話。それで終わり。
気がつくと、老人が私に正面から顔を向けていた。正面から見た。老人の右目は潰れていた。わたしは少しだけびっくりした。
老人は私の反応を全く意に介さないようだった。口元がニヤリと笑みを作った。
どうだ、若いの。試してみるか?
え? え? なにを? 釣り?
馬鹿。今までの会話の流れでわからんか。全く。
老人はポケットに手をつっこみ、何かを取り出した。それは、細長い紙――俳句を書くときに使っているようなやつ――と鉛筆だった。
ほれ、これに悩みを書いて流してみるといい。じつはな、今日がその大波が来る日なんだ。もっかい海を見てみろ。
わたしは言われるがままに海を見た。先程まで地平線にあったギザギザの海は防波堤に近づいていた。
あー、わかった。そういうことね。――結構大きそうだけど本当に大丈夫なの? ここ。
ああ、問題ない。儂にも理由はわからないがな、何故かあの波はこの防波堤に近づくと流れが遅くなるんだ。まるで人を流さないようにしているかのようにな。
へぇ。ちなみに、後どれくらいで波が来るの?
老人は目を細めて海を見た。
そうだな……。30分といったところか。
えっ、もうすぐじゃん。
ああそうだ。で、どうする? 書くか? 実際に悩みが流されたって喜んでいる者もいたことにはいたぞ。
ふーん。――さっき、大昔の話だって言ってたのに、まるで見てきたみたいに言うね。おじいさん何者?
返事はなかった。
ま、言いたくないんならいいや。訊かなかったことにするよ。
……ああ、そういうことにしてくれ。儂はただの老人だ、この流され堤でアオサメを釣ろうとしているただの老人だ。
老人は、釣り竿のリールを巻いて糸を上げた。先程付いていた白い切り身はなくなっていた。
ちくしょう、いつもこうだ。サメのくせにガツガツこねえ。セコくて狡猾なやつだ。
老人はそう吐き捨てると立ち上がった。釣り竿を肩に担ぐようにして持ちった。
さて、儂はそろそろ行く。紙とペンはこれを使いな。
いや、いらない。わたしは書かないよ。
……ほう? それはなぜだ? もしかしたら本当に悩みが解決するかもしれないんだぞ?
わたしはポケットから右手を出して首の後ろに当てた。ゆっくりと首を左右に鳴らすとゴキゴキと音がなった。手を髪に当てて潮風で傷んだ髪を梳いた。
なんとなく、嫌。
わたしはそれだけ言った。わたしでも理解できないモヤモヤを言語化できなかったから。
若いな。
老人は口元に小さく笑みを作っていた。
ま、儂には関係ないからな、好きにするがいい。一応紙とペンはここに置おいておくから、気が変わったら使っていいぞ。
老人は紙とペンを置いてひとけのない港の方へゆっくり歩いていった。
わたしは老人の背をしばらく見ていた。老人が小さくなったところで視線を海に戻した。大波はかなり近くまで来ていた。
大波がすぐ近くまで来た。潮の匂いを強く感じる。老人が言っていた通り波の速度は遅い。波打ち際の先っぽ程度だ。
わたしは防波堤の中心でしっかりと足に力を入れて立ち、ゆっくりと迫りくる波を正面から見た。心の中でカウントダウンを始める。10……9……8……。
カウントダウンが0になった時、波が大きな音を立てて防波堤に激突した。波はそのまま上がり、防波堤の上をゆっくりと流れる。波はわたしの足首ほどの高さまでになり、生ぬるい海水がスニーカーを容赦なく濡らしていく。
わたしはただ立ちつづけ、静かな波が足元を浚っていくさまを眺めていた。
たっぷりと1分はたっただろうか。波は完全に引き、海は穏やかになった。いつの間にか風も止んでいた。世界が静かになった。防波堤には私以外なにも残されていない。
穏やかな海面の上で、何も書かれなかい紙がしばらくゆらゆらと漂っていたが、じわじわと沈んでいき、ついには見えなくなった。
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