西の魔法使い ローズ
林 希
01
黒色で踝を覆い隠す丈のブーツが、青々とした雑草の群れを踏むしだきながら、目的の場所へと進んで行く。オーバーサイズで使い古された黒柿色のスラックスの裾は、歩く度地面に擦れて汚れている。辺りには木々が立ち並んでおり、右に左に避けながら進んでいく。
森の中の光源は木々の葉の隙間から差し込んでくる陽の光だけだが、一直線に地面と上空とを繋ぎ、その周囲を眩く照らしていた。
一際大きな巨木を見つけるとその木の前で立ち止まる。
歩き疲れたのか、軽く息をつき、黒い革の手袋を纏った手で眼前の木肌を撫でる。
「良い具合だ」
そう言うと顔を近ずけ匂いを嗅ぐ。
湿り気がある、昨日の雨のせいか。根が随分広がっている。おかげで辺りで一番濃度が濃い。なのに”汚れ”が全くない。ピクシーの縄張りはまだ広がっていないか。これなら。
「うん、問題ない」
顔を離し上を向くと、上空の葉が風に揺らされ心地良い音を奏でていた。揺れ動く度に葉は重なったり離れたりして、差し込んでくる光は移動し明滅する。
すると一筋の光が顔に重なり、反射的に目を閉じる。閉じたまぶたの裏からでも陽の光とその温度は微かに感じ取れた。風は下降し優しく頬を撫で、その風に乗せて木々や草花の香りが鼻腔を擽ぐる。逃すまいと大きく深呼吸し、森の中でしか味わえないそれを肺の中へと取り込む。次いでここに来るまでの疲れを息とともに共にはき出す。
頭を戻し目を開く。巨木に向き直り、触れている手に体重を乗せその上に額を預ける。
「いや、しかし……遠い」
ここまでどのくらい時間がかかっただろう。1時間か、2時間か。この場所も道中も嫌いではないが、如何せん足場が悪い。どのくらい悪いかというと、脱ぎ捨てられた靴で犇めく大家族の玄関ぐらい悪い。爪先立ちで歩き過ぎてふくらはぎが悲鳴を上げている。いや誤解してほしくないので申し上げておくが、これは愚痴ではない。ものの例えとしてこれほど相応しいものはあるだろうか。ないだろう。故に疲労するし、悪態も、披露する。このように。
「はぁ……」
下らない愚痴にため息をついてから、濡羽色でケバ立ったコートのポケットを弄る。
「ん……あれ……これじゃない……これでもない……あぁ、あったあった」
ポケットから引き抜かれた手にはコルクで閉められた親指ほどの小瓶が握られている。
その場でしゃがみ込み、木の根元にある湿った土を摘み、栓を抜いた小瓶の中を半分まで満たしていく。半分に達すると、コルクを締め直し立ち上がる。
小瓶を掲げ陽の光に当てると、土の中が疎らに煌めきだす。目を細めその輝きを確認する。
「よし」
彼女は微笑む。
陽光が彼女の髪を鮮やかに照らし、黒みを帯びた深く艶やかな紅色を輝かせた。髪は腰に届くほど長く、好奇心を映し出したように大きく爛々とした瞳は、澄んだ空のような青色で、髪の色と反して際立っていた。コートの中には襟の緩んだ鼠色のシャツを着ており、首元から伸びるネックレスを覆い隠している。
「目は大きくまつ毛は長くそのシミひとつなく潤いに満ちた宝石のような肌に紳士淑女の皆々様は我先にとその羨望の眼差しでーー」
「気持ちが悪い」
彼女のよく知った、淡々としていて線の細い声が背後から投げ掛けられる。
「……いたのか」
振り返るとそこには、近くの木に肩を預けながら、胸の前で腕を組む女性の姿があった。
白いシャツの上に水色のセーター、袖は肘のあたりまで捲られており、踝の上までのピッタリとした淡い檸檬色のスキニーを履いている。肩下まであるブロンドヘアは後頭部で高めに括られ、両側のこめかみの位置から束をいくつかたらしている。目に掛かるところで横に流された前髪からは、薄茶色の切れ長の瞳が目の前の女性を呆れたように気怠く見つめていた。
「気づいてたでしょ。店長が着く時間に合わせたんですよ。わ、ざ、わ、ざ」
「それはご苦労!」
「……」
「しかし先んじて投げかけられる言葉は労りであってほしかったものだが」
「勝手に歩きで行ったんじゃん」
「まぁ、そうだが」
「だったら労りなんて贅沢ですよ」
「……」
「……」
「いやしかし、自然は相も変わらず美しい」
「はぁ」来て早々また始まったと言わんばかりに、ため息半分合図地半分に返す。
「何人の手も加えずにしてその情景を保ち、育んでいる。寧ろ手を加えてしまっては、台無しだ。真っ白のキャンバスに泥を被せるのと同義だよ。故に、人類は叡智と引き換えに何を失ってしまったと思うかね、シェリー」
「私のベーグル」
「……へ?」
「私は朝に食べようと思っていたベーグルを失いました」
「これは、どうも、不可解だな」ばきばきに思い当たる愚行に居た堪れなくなり、あからさまに目線を横にそらしてしまう。
「店長の分かりやすさは人類の叡智を引き換えにしても余りあると思いますよ」
「……今晩、買ってくるとしよう」
「はい。で、何を失ったんですか?」
「それはだね。健康管理だ」
「は?」
「現に君はこの程度の距離で楽をしている。シェリーは尚更、歩き、走り、汗を流すべきだろう‼︎」
「この程度ってどの口が言ってんだか……いやまぁ、便利だし。効率的でしょ、その方が」
「まったく、情緒がないなぁ」
「数秒で済むところを場違いな格好で1時間40分もかけて徒歩できた挙句そんなに息切らしてる人が情緒を感じられますかね?」
「もちろんだ。自然にはそれだけの価値がある」
「そんなもんですか」
「あぁ。今に至っては都市開発の弊害で場所も限られてくるが」
「確かに最近多いですね」
「まぁ都市の先進化は理由の半分くらいだろうがね」
「もう半分は?」
「わかるだろう」苦笑しながら問いかける。
「あまり考えたくないですね」
「考えねばならないよ、人は」
「……で、採れたんですか?」
「そうだそうだ。見てくれ」ポケットを弄り、中が満たされた小瓶を取り出した。
シェリーはそれを受け取ると、鼻を近ずけてくんくんと匂いを嗅いでいる。
「……いいですね」
完全に密閉されたモノの匂いを判別することは容易にできることではない。しかもこの年齢で。シェリーに至っては、先天的なものが要因ではあるのだが。
「だろう。一先ずはこれで凌げるな」
「ですね」
「どうだい。シェリーなら兎も角、私一人で成し遂げてしまったよ。立てば芍薬座れば牡丹、だったかな、付け加えてこの実行力。これほど火の打ちどころのない人間がいるかい」
「店長の場合、火の打ちどころのないところが火の打ちどころなんじゃないですかね」
「……なるほど……これは…一本取られたかもしれないな」
「どうも」
「褒めてはいない」
「はいはい、もう行きますよ」
「そうしよう」
二人は巨木を背に歩き出す。
「帰りはお願いしますよ」
「もちろん」
そいうと手を差し出し、シェリーはその手を握る。
彼女は眼を瞑る。
思い浮かべる、はっきりと形作る。
帰るべき場所を。
できるだけ周囲の広い範囲まで。
屋根の色、煉瓦の壁、柵の配置、赤い寂れた郵便受け。
郵便受け、手紙。
手紙。
「あぁそうだ」
「なんですか?」
「君に後輩ができるかもしれない」彼女はシェリーに向けて不敵な笑みを浮かべる。
「はぁ……………はぁ!?!?」
シェリーが今日一番の声をあげると同時に、二人を中心として形が曖昧になり歪みとなって重なりあう。瞬く間に鈍い重低音とともに二人の姿が消え、その衝撃で周囲に微かな風が吹き、真下にあった木の葉がふわりと舞い上がる。
森は静けさを取り戻し、風がいっそう強く吹き抜けていった。
西の魔法使い ローズ 林 希 @nozomi_h
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